「サイン間違いは日常的、しまいには口頭で打て!」名将・蔦文也の素顔を池田高校の元主将・江上光治が明かす
「池田高校・蔦文也の正体」前編(全2回)
OB・江上光治インタビュー
「IKEDA」と入ったユニフォームをゆったりと着こなし、野球帽の横からは貫禄の白髪。「山あいの町の子どもたちに、一度でいいから大海(甲子園)を見せてやりたかったんじゃ」との名セリフとともに、徳島県池田町(現・三好市)を一躍有名にした蔦文也・池田高校野球部元監督。
1974年春の部員11人で戦った「さわやかイレブン」が甲子園で準優勝して話題を集め、監督30年目の1982年夏に念願の初優勝。続く1983年春も制し、その年の夏は準決勝で桑田真澄・清原和博のいたPL学園に敗れて夏春夏の3連覇はならなかったが、蔦監督は「攻めダルマ」の異名でチームとともに絶大な人気を誇った。
まずは、池田といえばこの人。2年生の時から「やまびこ打線」の3番を打ち、3年時は主将として連覇に挑んだ江上光治氏(58歳)に、当時の様子を回顧してもらった。
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【人の人生を左右させるほどの貫禄】
江上光治 存命であれば100歳ですか、感慨深いですね。僕は中学生で蔦先生と初めて会いましたが、この時の蔦先生の年齢がちょうど今の僕と同じくらいなんです。人の人生を左右させるほどの貫禄で、今の僕とは比べものにならない。
でもよくよく考えてみると、蔦先生って年齢以上にじいちゃんやったんかなと。うちの親ももっと上に見えたと言っていました(笑)。1983年の最後の夏はPL学園に負けましたが、この時、蔦先生の還暦のお祝いを甲子園でやったことを覚えています。
蔦先生で思い浮かぶのは、パイプ椅子に足を組んで座っていた姿です。細かな技術指導はじつはほとんどなく、その代わり、練習をいつもじっと見ていた。
卒業後、しばらくしてあの王貞治さんにお目にかかる機会があったのですが、その時に感じたのが、王さんの「目」が蔦先生と同じだということ。ギョロッとした目はもの静かでやさし気だけど、すべてを見抜いていてごまかしが効かない。まさに蔦先生と重なるものがありました。
僕はもともとうまい選手ではなかったのですが、エースだった水野雄仁(元巨人、現・巨人スカウト部長)と一緒に早くから試合に使われていました。2年生でスタメン入りした時、なんで江上なんだという声が周囲から出て、これは僕が40歳くらいになって初めて人から聞いた話ですが、3年生の保護者から問われた時に蔦先生が答えたのは、「畠山準(元横浜)を中心としたこのチームには、こういう子が必要なんだ」。
こういう子というのを僕が自分で説明するのは難しいけど、当時を振り返ると、僕は練習にしても草むしりにしても言われたことは手を抜かずにやっていた。そのキャラが、個性的なチームだからこそ欠かせないんだと思ってくれたのではないかと。直接言われたわけではありませんが、見ていてくれたのかなと思います。
池田というと、パワー野球と言われます。力だけに頼って野球をやっていた、みたいなイメージで伝わることが多いんですが、それは当事者として否定したい点です。筋トレができるいわゆるメカニックなトレーニングはしておらず、タイヤや自分の体重を利用したトレーニングが中心で、体をコントロールし、動きをよくするために行なっていました。
そもそも器具を買うお金もない公立校ですからね。蔦先生はこうしたトレーニングの重要性を保健体育の先生から教わって、思いきって練習に取り入れたわけです。
その点では先見の明があったと言えますが、先生の指導法は長所を伸ばすことが第一で、短所は3年間では間に合わんから直さんでええという考え方でした。凡打をしても、守備でエラーをしても怒られたことはなく、大目玉を食らうのは消極的なプレーややらねばならないことをやらなかった時。
細かいことは言わず、高校生って何だかんだ悪さをするものだけど、見逃すところはしっかり見逃してくれました。だから僕らものびのび野球がやれたんだろうなと。そのあたりはすごく印象に残っています。
練習のひとつに坂登りがあって、僕は持久系が弱く、ある日一番ビリを走っていました。坂の一番上にある白いガードレールをタッチして戻ってくるんですが、僕はうしろから2番目のやつがタッチしたあと、ちゃっかりそこでクルッと回って戻ったんです。
そうしたら、その時に限って蔦先生が双眼鏡で見ていた。グラウンドに戻ったら「最後まで行ってないヤツがおる、誰や〜!」って。体型からしてもうバレバレですからね。ここはまったく見逃してくれず、腹くくってハイッと手を上げた途端にしばかれました(笑)。
おおらかといえば、敵チームの選手が偵察で学校に来た時、普通なら来てるぞと警戒するものなのに、発見した途端に「君、〇〇の子か? ちょっと来て」と手招き。蔦先生、池田にもスピードガンがあるにもかかわらず、その子に「ええもん持ってるやないか。畠山の球、測ってやってや」と声をかけて、ブルペンで楽しそうに計らせていました。
そんな先生の秘密主義もくそもない姿を僕らはおもしろおかしく見ていて、自然と怖いもんなどないわ、みたいな気分になっていた気がします。
僕も入っていた遠方者用の寮での出来事は、当時ならではです。一軒家を借りていて大人の管理人はおらず、蔦先生も基本的にふだん顔は出しません。夜になると、1台ある電話を奪い合いしながら誰かしらが使っているのが日常で、いつも当たり前にふさがっている状態でした。
でも、たまに翌日の朝練のことで先生から電話が入ることがあるんです。それで「あまり長電話しよるとブン(蔦監督の呼び名)が来るで」と僕が言ったら、案の定、蔦先生の登場です。
まず入口で受話器を持っていたヤツが「何やっとんじゃ〜」ってしばかれて、あとは部屋の点検などをしながらガンガンに怒られる。でも最後は野放地帯になっていて、長くもない廊下を自転車が走っていたりとみんなやりたい放題でした。今の時代なら考えられない、ウソみたいな話が当時の池田にはありました。
夏春夏の3連覇を狙った3年最後の夏、この頃は連日の取材攻勢で僕らはちょっと疲れ気味でした。でも、蔦先生は、そんな僕らを理解しつつも甲子園に出場できないような事態だけは避けたいと、チームに覇気がない時は怒るという方法で僕たちにハッパをかけていましたね。
水野以上にヤンチャな奴が数人いて、僕はそんなチームを主将としてまとめるのは大変だったのではとよく聞かれましたが、みんな勝ちたいという気持ちは一緒だったので、人が思うほどの苦労はしていません。
甲子園では、蔦先生のオーバーなジェスチャーが豪快に見えたと思います。でも、実際の蔦先生は案外肝っ玉が小さくて、怖がりの人。バントとか細かな指示を出したこともあったけどそれがうまくいかなくて、しまいには「お前らで勝手に打って来い」と言い放ったことがありました。
そうしたらみんながガンガン打って、先生にしてみたら「自由に打たせてこんなラクなチームがつくれてよかったわい」という感じ。生徒にとって一度きりの高校野球で、自分の作戦で負けるというのを本当に嫌がっていたんです。
サイン間違いなんて日常的で、しまいには口で「打て」とか「走れ」とか言っていましたからね。僕らはそれを忖度して受け取らないとゲームにならない。選手がくみとることで成り立っていたという、それがウソみたいな本当の話です。
池田というチームがなぜあれほどまでに活躍できたのか。畠山、水野とのちにドラフト1位で指名されるような選手が公立高校で立て続けに出たというのは、あとにも先にも池田だけじゃないでしょうか。でもそれを可能にしたのは、やはり蔦先生なんです。僕もそうでしたが、蔦先生に指導されたいと思ってみんなが集まった。物事を動かすのは、やはり人なんだなと思います。
世のなかの有名な人って、基本的には普通の人だと思うんです。蔦先生もご多分に漏れず、普通の人、普通のおじいちゃんでした。酒好きは有名で、よく記者の人と夕方から飲んでいる姿を見かけてまたやと思ったりもしましたが、それ以上に好きなのが野球でした。
池田では自転車にトンボをつけてぐるぐる回りながらグラウンド整備をするんですが、早朝練習で学校に行くとすでに蔦先生が整備を終えていて、さらに昼休みには炎天下にもかかわらずひとりで自転車を動かしていた。
そんな姿を校舎の窓から眺めながら、「ホンマに野球好きのじいちゃんやな」ってみんなで言っていたものです。そして、野球を通じて僕らと接し、ちょっとずつうまくなり、人として成長している、その様子を純粋に楽しんでいた人ではないかと思います。
僕は今、八尾ベースボールクラブという社会人野球チームのコーチを経て、監督を務めています。日本生命でもコーチを経験していますが、正式な監督というのは初めてです。そうなってあらためて思うのは、指導者には責任がある。
勝ち負けではなく、その人の人生の一部を預かったというその責任を理解し、指導できる人でないと、理屈じゃなくて魅力を感じないんだろうな、ということです。
そしてふと気づくと、蔦先生が言っていたことと同じことを目の前の選手に言っている自分がいます。残念なことに、蔦先生とのおつき合いは高校生の時と同じ人間関係のままでした。生前、先生ともう少しお話しておきたかったなと、今になってちょっと後悔しています。
後編<高校野球の名将だが「生徒から抗議文」「チームは崩壊状態に」 蔦文也の孫・哲一朗が「じいちゃんの負の部分」を追いかけた理由>を読む
写真/共同通信、江上光治
【プロフィール】
江上光治 えがみ・みつはる
池田高校野球部OB、日本生命勤務。1982年夏、2年生ながら3番レフトで甲子園出場し、優勝。1983年春、主将としてチームを率い、3番サードで優勝。同年夏は甲子園ベスト4。3度の甲子園で、66打数25安打7打点1本塁打という好成績を残す。早稲田大でも主将を務め、卒業後は日本生命へ。現役引退後は部のマネージャーとしてチームを支え、コーチも2年間務める。現在も同社勤務。現在は、社会人野球チーム「八尾ベースボールクラブ」のコーチを1年間務めたのち、監督に。チームを指導し4年目。
蔦 文也 つた・ふみや
2023年夏の甲子園に出場した徳島商出身。自身も甲子園を経験。同志社大時代には野球を続けるも学徒出陣で日本海軍の特攻隊員となり、終戦後はわずか1年間、プロ野球選手として東急フライヤーズの投手としてプレー。その後、池田高校の社会科教諭として赴任し、野球部を指導。監督20年目の1971年に夏の甲子園初出場。1974年に、センバツ準優勝。1979年夏も準優勝し、1982年夏に念願の初優勝。1983年春も優勝し夏春連覇。同年夏は、準決勝敗退。甲子園に通算14回出場。1988年夏の甲子園は、岡田康志コーチが監督代行で指揮し、監督40年目の1992年に勇退。2001年4月28日、肺がんのため死去。