野球人生を変えた名将の言動(11)

梨田昌孝が語る西本幸雄 前編

(連載10:巨人のドラ1指名を喜べなかった篠塚和典が「ミスターに恥をかかせちゃいけない」と思った瞬間>>)

 指導者との出会いが、アスリートの人生を大きく変える。強肩のキャッチャーとして、また、独特の「こんにゃく打法」による勝負強い打撃を武器に、長らく近鉄の主力選手として活躍した梨田昌孝氏は、西本幸雄との出会いが野球人生を変えたという。

 西本幸雄は毎日オリオンズ(現ロッテ)で1954年から選手兼コーチを務め、55年に現役を引退後は同球団の二軍監督やコーチを経て、60年に監督に就任。1年目でリーグ優勝を果たすと、その後は阪急や近鉄でも指揮を執り、監督通算20年間で8度のリーグ優勝を成し遂げた。

 指導や試合中に見せる厳しさから"闘将"とも呼ばれた西本だが、それを若手時代に経験した梨田は何を思っていたのか。インタビュー前編では、西本監督との初対面時の印象や、厳しい練習の数々を聞いた。


ベンチから鋭い視線をグラウンドに送る近鉄時代の西本監督

【初対面で感じたプレッシャー】

――西本監督は、1974年に近鉄の監督に就任する前は阪急の監督をされていました。どんな印象を持っていましたか?

梨田昌孝(以下:梨田) 敵将として見ていましたが、あまり笑わないですし、いつも口を「へ」の字にしていましたから、「怖い監督だな」という印象でした。

――自分のチームの監督になってからも同じイメージでしたか?

梨田 基本的には同じです。初めてお会いしたのは、西本さんが近鉄の監督に就任することが決まってすぐのことだったと思います。昔、大阪の日生球場(日本生命球場)に近鉄の球団事務所があったのですが、そこに私と、同期(1971年ドラフトで入団)の羽田耕一が呼ばれたんです。なんで呼ばれたのかまったくわからずに事務所に行くと、西本さんが到着された。

 西本さんに乞われて監督付広報を務めていた梶本豊治さんから「(新しい監督に)挨拶してこい」と言われたので、羽田と一緒に西本さんのところへ行って「羽田です!」「梨田です!」と挨拶をしたら、「そんなもん知っとるわ。お前たちがおるから(近鉄に)来たんや」と。そう言いわれた時には、ドキッとしましたよね。

――プレッシャーも大きかったでしょうね。

梨田 後に梶本さんは「先々の伸びしろがあるからこそ、監督は厳しく言っていた」と教えてくれました。プレッシャーはありましたが、「それだけ期待してくれているんだ」と思うと嬉しさもありましたね。阪急の監督をされていた時から、若手の羽田と私には魅力を感じてくれていたようです。

【ジャンプをしながらのビンタも】

――西本監督は選手と積極的にコミュニケーションをとるタイプでしたか?

梨田 野球に関してはそうでしたね。ただ、基本的に話すことは大嫌いでした。パーティーなどでトークを頼まれると、「喋らなきゃいけないなら出ない」と言って実際に出席しなかったり。とにかく、人前で話すことをすごく嫌がっていました。

 それと、私と羽田は期待をかけてもらっていたという話をしましたが、その分よく"鉄拳制裁"もありました。だけど、それは憎いからではなく、「なんとかお前らを一人前にして、飯を食わせてやりたい」という愛情を感じました。

 現在では大きな問題になるでしょうし、当時もすごく嫌だった選手もいると思います。ただ、私の場合は中学生の時に親父が亡くなっていて、西本さんが親父と同世代だったこともあり、その代わりじゃないですけど、どこか嬉しかった。人に手を上げるというのはエネルギーが必要ですし、痛みを感じながらも「自分は悪いことをしたんだな」と思っていました。

――どんな時に鉄拳制裁があったんでしょうか。

梨田 新人選手たちとインターバル走をしている時にもありましたね。新人選手は首脳陣にいいところを見せたいし、張り切るじゃないですか。それでどんどんスピードを上げていったのですが、もう新人ではなかった私たちは自分のペースをキープしながら走っていたんです。そうしたら西本さんから、「もっとスピードを上げろ!」と。

 それでも私たちは、3周ぐらい同じペースで走ったんですが、西本さんはカンカンですよ。「お前らこっちに来い!」と私を含む8人くらいの選手が呼ばれ、片っ端からビンタされました。西本さんは左利きなのですが、左、右、左、右と交互に打っていって......。

 利き手じゃない右手は力が弱いのですが、コントロールも悪いんです(笑)。身長が193cmあったジャンボ仲根(仲根正広)にビンタする時なんかは、手が顔に届かないのでジャンプしながらビンタしてましたね。それを周りの選手も見ていたわけですが......とにかく迫力がありました。

【闘将が見せた優しさと信頼】

――西本監督とのエピソードで、特に印象的だったことは?

梨田 西京極球場(現わかさスタジアム京都)で近鉄と阪急が試合をした時ですかね。私が三塁側のベンチの方角に飛んだキャッチャーフライを猛スピードで追いかけたんです。当時は今と違ってバットケースがグラウンド側に飛び出していたのですが、そこに私がぶつかりそうになった時に、西本さんが私とバットケースの間に体を入れてクッション代わりになろうとしてくれたんです。

 私は上を向いていたので、最初は何がどうなったのかわからなかったのですが、気づいたら西本さんが目の前にいて......。その時は体がちょっと触れたくらいでしたが、すごく嬉しかったですね。

――お互いにケガはなかったんですか?

梨田 私はものすごいスピードで追いかけていましたし、もしぶつかっていたら西本さんも肋骨などが折れていたかもしれません。でも、西本さんは怪我をされませんでしたし、自分も無事でした。直後に西本さんの顔を見たら照れていたような感じで、私は「ありがとうございます」とお礼を言ったんじゃないかと記憶しています。

――他に覚えていることはありますか?

梨田 配球やキャッチング、スローイングなど、キャッチャーはやることがいっぱいあるので、いつも怒られてばかりでしたよ。ただ、今でも鮮明に覚えているのが、日生球場のブルペンで井本隆さんと太田幸司さんが投げていた時、西本さんが私のところに来たことです。

 それで「おい、ナシ! ピッチャー代えよう(と)思うんやけど」と言われたので、私が「どちらでいかれますか?」と聞いたら、西本さんが「どっちがいいかな?」と相談してくれて。それで「井本さんだったらいいと思いますが、太田さんだったら無理です」と答えました。そういうことを私に聞いてくれたということは、ある程度信頼をしてもらえるようになったのかなと。

――梨田さんがまだ若かった頃ですか?

梨田 20代半ばぐらいだったと思います。先ほどお話しした西京極球場の件も同じ時期でしたかね。やはり、さんざん怒られていた西本さんから少しでも信頼してもらえるのは嬉しいんです。今振り返ると、本当に信頼していたというよりは、「こいつはどんな考え方をしているのかな」と、試している時期だったんだと思います。

【雪でボールが見えなくても「集中力が足らんのじゃ」】

――西本さんは阪急でも近鉄でも、チーム状態が厳しいところから選手たちを鍛え上げ、何度もリーグ優勝するような常勝チームを作られました。先ほどは鉄拳制裁の話も出ましたが、厳しさは群を抜いていた?

梨田 すべてに対して、自分の考えることに妥協しない方でした。例えば、コーチなどが「こうじゃないですか?」と言っても聞く耳を持たない。そこは、とにかく徹底していましたね。

 ある日、高知県の宿毛市でチーム練習をすることになった時、すごく風が強くてボールが見えないぐらい雪が降っていた日があったのですが、当初の予定通りに練習を強行したんですよ。打撃コーチで西本さんの"懐刀"とも言われていた関口清治さんも、「監督、選手たちはこの雪でボールが見えないんじゃないですか。ケガをされたら困ります」と言ったのですが、西本さんは「あほんだら!集中力が足らんのじゃ」とすごく怒っていました。実際にボールはほとんど見えなかったのですが、練習は最後までやりましたね。

――そういったエピソードには事欠かなそうですね。

梨田 練習に対する厳しさはすごかったですよ。チームで移動している新幹線が遅れて、新大阪に夜中の2時に着いた時のこともよく覚えています。その時は翌朝の10時から藤井寺球場で練習する予定が入っていた。駅に着いたのが深夜2時ですから、選手たちがタクシーで自宅に帰って寝るとしても、早くて3時半くらいにはなりますよね。

 さすがに選手同士でも「練習は昼からか、休みになるか。いずれにせよ変更されるやろ」みたいなことを話していたんです。だけど結局は変更なしで、予定通りに10時から練習しました(笑)。

 北九州市民球場で試合が雨天中止になった時のこともよく覚えていますね。グラウンドがベチャベチャになっていますし、選手たちは「もうこれで終わりや」と思って帰りかけていた。でも、西本さんが「これからダッシュする」と言うんですよ。「体のキレをよくしないとあかん」と言って、びしょ濡れになりながらベンチ前で20分ぐらいダッシュをやりました。長距離走も含めて、とにかく走らせる練習が多かったですね。

(中編:「江夏の21球」無死満塁になって西本幸雄監督の表情が「ふっと緩んだように見えた」>>)

【プロフィール】
梨田昌孝(なしだ・まさたか)

1953年、島根県生まれ。1972年ドラフト2位で近鉄バファローズに入団。強肩捕手として活躍し、独特の「こんにゃく打法」で人気を博す。現役時代はリーグ優勝2 回を経験し、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞4回を受賞した。1988年に現役引退。2000年から2004年まで近鉄の最後の監督として指揮を執り、2001年にはチームをリーグ優勝へと導いた。2008年から2011年は北海道日本ハムファイターズの監督を務め、2009年にリーグ優勝を果たす。2013年にはWBC 日本代表野手総合コーチを務め、2016年に東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任。2017年シーズンはクライマックスシリーズに進出している。3球団での監督通算成績は805勝776敗。