(好きな言葉)「早まるな」
(その理由)「いつでも冷静で。早まったら、いいことはないからです」

 今夏の甲子園に出場した文星芸大付の正捕手・黒粼翔太の大会アンケートを読んで、思わず吹き出してしまった。恐らく105回に及ぶ大会の歴史のなかでも、「早まるな」を座右の銘にする球児など前代未聞だろう。

 黒粼がその心境に達するまでには、深い理由があった。


プロ注目の強肩捕手でもある文星芸大付・黒粼翔太

【監督から「バカタレ!」と叱責】

 7月25日、栃木大会決勝。常勝チーム・作新学院を向こうに回して、文星芸大付は5対4とリードを奪っていた。9回二死二塁。作新学院の好打者・磯圭太に対してカウント1ボール2ストライクと追い込んで迎えた次の1球。2年生右腕・堀江正太郎が投じた快速球は、力強くインコースへと突き刺さった。

 次の瞬間、捕手の黒粼が立ち上がり、右拳を突き上げてマウンドに向かって走り出した。すわ優勝決定かと思われたが、これは黒粼の早とちり。際どいコースだったものの球審の判定はボールで、ゲームはまだ続いていたのだ。

 勘違いに気づいた黒粼はあっけにとられて、キャッチャーズボックスへと戻った。その時、黒粼は球審からこう声をかけられたという。

「早まるな!」

 黒粼はその時の心境をこのように回顧する。

「審判に言われて、心にきました」

 その直後、打者の磯にセンター前へと弾き返され、文星芸大付は同点へと追いつかれてしまう。

 衝撃の展開は続く。9回裏、今度は打席に入った黒粼がレフトスタンドにサヨナラ本塁打を叩き込んだのだ。

 文星芸大付にとって16年ぶりの夏の甲子園出場が決まった。黒粼の「フライング・ガッツポーズ」からのサヨナラ弾は大きな話題になった。

 試合後、黒粼は高根澤力(たかねざわ・つとむ)監督から「バカタレ」と叱責され、チームメイトからは散々イジられたという。

 エース左腕の澁谷優希は「気持ちが表に出るタイプで、あの時は勝ち急いでしまったのかな」と黒粼に理解を示しつつも、「あのジェスチャーをマネしたり、だいぶイジらせてもらいましたね」と笑う。また、抽選会など他校の選手と出くわすと、「あのフライングの......」と認識されていることを感じたという。

【プロ注目の強肩捕手】

 フライング・ガッツポーズといえば、文星芸大付にまつわる先駆者がいる。元ヤクルト監督の真中満が、2015年のドラフト会議で当たりくじと勘違いしてガッツポーズした事件があった。真中は文星芸大付の前身・宇都宮学園のOBである。

 大先輩の「やらかし」を知っているかと尋ねると、複雑そうな苦笑を浮かべた黒粼からこんな答えが返ってきた。

「テレビで古田(敦也)さんから『真中さんもOBだから文星のDNAだ』とか言われて......。でも、ちょっと真中さんに近づけてうれしい思いもありました」

 フライング・ガッツポーズばかりをクローズアップしてしまったが、そもそも黒粼はプロスカウトも注目する好選手である。本人がもっとも自信を持つスローイングは遠投115メートル、二塁送球のベストタイム1秒74というプロでも叩き出すのが難しい数値だ。

 文星芸大付に進学したのは、社会人の名門・三菱ふそう川崎で捕手として活躍した高根澤監督の指導を受けるため。高根澤監督から学んだ「捕手としてもっとも大事なこと」を聞くと、黒粼は目を輝かせてこう答えた。

「ピッチャーへの気遣いです。ファウルのあとに球審から新球を受けとった時は、両手でしっかり拭いてピッチャーに渡したり、ホームベースが汚れていれば自分で土を払ったり。中学時代は気遣いも配球も全然できてなかったので、監督から教わりました。練習試合で監督にサインを出してもらったらバンバン三振がとれて、『すごいな』と思って。勉強して、今では自分でサインを出せるようになりました」

 投手のタイプに応じて、サインを出すタイミングや間合いもコントロールしている。たとえば、エースの澁谷はテンポよく投げ込みたいタイプのため、捕球したら両ヒザを着いたまま即座に返球する。背番号10の右腕・工藤逞(てい)の場合は「おっとりマイペース」という本人の性質を考え、あえて間(ま)を取って返球しているという。

 フライング・ガッツポーズの時にマウンドにいた堀江の場合は、「気持ちが弱いところがあるので、どうやって相手に立ち向かわせるかを考えている」という。その強い思いがフライングとなって発露したというのは、好意的に解釈しすぎだろうか。

 あらためてフライング・ガッツポーズが飛び出した要因について、黒粼は「自分の狙いどおりの配球で抑えられたと思って......」と白状する。

「去年の秋から夏にかけて、配球についてずっと悩んで、夜中まで勉強してきたんです。作新で一番いいバッターの磯くんをインコースのストレートで抑えられたと思って、うれしくてガッツポーズをしてしまいました」

 文星芸大付のおおらかな環境もまた、黒粼という個性を育んできた。高根澤監督はフライング・ガッツポーズをした黒粼を叱った一方で、「あれはあれで高校生らしい」とも語っている。

「ウチは選手を押さえつけるガチガチのスタイルではなくて、練習中から笑い声が聞こえるアットホームなスタイルですから。もちろん、締めるべきところは締めないといけませんが、私自身、恩師の上野(武志)先生がそういう方針だったので」

「同じ捕手として、黒粼くんの育成には手を焼きましたか?」と聞くと、高根澤監督は「見ればわかるじゃないですか」と冗談めかしたあと、こう続けた。

「よくできる日もあれば、ダメな日もある。でも、そんなムラがあるのが高校生らしいじゃないですか」

【逆転勝利で初戦突破】

 8月11日、甲子園初戦・宮崎学園戦を迎えた黒粼は、栃木大会決勝の球審から受けた「早まるな」という言葉を胸に刻んでいた。

 2ストライクから際どいコースにボールが来ても、球審のコールを聞くまではミットを動かさずにじっと待った。

「(球審の)コールを聞いてからガッツポーズをするようにしたんです。あの決勝戦が教訓になっていました」

 とはいえ、試合では熱い思いが空回りした。捕手としては2つのパスボールを犯し、打者としては4打席目を終えた時点でノーヒット。6回裏には二死一、三塁の場面で三塁走者としてダブルスチールを敢行。だが、相手捕手が二塁に投げる前に黒粼がスタートしてしまい、タッチアウトに。チームは4点のビハインドを追っていただけに、痛いボーンヘッドに見えた。

 黒粼に「ちょっと早まりましたか?」と聞くと、意外な反応が返ってきた。

「いえ、あそこはギャンブルスタートだったので、キャッチャーが投げる直前にスタートしました。アウトにはなりましたけど、『しょうがない』と割りきりました」

 たとえミスがあっても、取り返せばいい。

 そんな文星芸大付の前向きな姿勢は、運を味方につける。2点差に迫っていた8回表には、相手の守備のミスにつけ込み4得点を挙げて逆転。それまで攻守にいいところがなく、高根澤監督から「どんな形でもいいから取り返してこい」と発破をかけられた黒粼は、ライト前へ技ありのタイムリーヒットを放った。

 9対7と辛勝した試合後、黒粼は捕手目線で苦しい試合を振り返った。

「澁谷があそこまで打ち込まれることはないので、宮崎学園の打線はすごかったです。でも、エースがあそこまで打たれたら自分のせいですね」

 その言葉には、高根澤監督から学んだ「投手への気遣い」が滲んでいた。

 文星芸大付は次戦、ベスト8進出をかけて八戸学院光星と3回戦を戦う。ノースアジア大明桜との初戦で強打ぶりを見せつけた八戸学院光星は、きっと文星芸大付のバッテリーにも鋭い牙をむくはずだ。

 だが、どんなに苦しく逃げ出したくなるような場面であっても、文星芸大付にはたくましさを増した扇の要がいる。黒粼翔太はきっと「早まるな」の金言を思い出し、冷静さを取り戻せるはずだ。