織田の後継者たちは秀吉の圧倒的な才によって根絶やしにされてしまうのでしょうか(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

NHK大河ドラマ『どうする家康』第30回「新たなる覇者」では、光秀を討った秀吉が天下取りに向けて動き始め、柴田勝家を討つことで地盤を固めました。第31回「史上最大の決戦」では、秀吉は兵を10万に膨れ上がらせ、それに家康がどう対抗するか家臣団とともに苦慮する様子が描かれます。この二人のあいだで揺れた男、織田信雄の前半生を『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者・眞邊明人氏が解説します。

織田信雄は、織田信長の次男として生まれました。本能寺の変で父・信長と同じく自死した嫡男・信忠が兄で、妹には松平信康の妻だった五徳、異母弟には信孝がいます。

信長は早くから嫡男・信忠を後継者に定めていたため、信雄は11歳の時に伊勢・北畠家に養子に出され、17歳で北畠家の家督を継ぎました。三男の信孝も10歳のとき神戸家に養子に出されていたことを考えると、後継者争いが起こらないように信長は早くから次男・三男を他家に出していたのでしょう。

長男・信忠のサポート役が犯した大失態

北畠家の家督を継いだ信雄ですが、その実権は先先代の具教が握っていました。具教は、織田家に恭順しておらず、武田と密約をするなど反織田の姿勢を鮮明にします。このことを憂慮した信長は信雄(この時は信意と名乗っていました)に命じ、具教および北畠家抹殺を行いました(三瀬の変)。

さらにはこれを主導した重臣の津田一安も殺し、北畠の簒奪を完成させます。しかし、この信長・信雄親子の行いは、北畠家の所領である南伊勢に禍根を残しました。北畠家の簒奪後、信雄は兄・信忠と共に紀州攻め・石山本願寺攻めに従軍します。織田家では兄・信忠のサポート役に位置付けられていたようです。

しかし、そんな信雄が大失態を犯すことに。

21歳のとき信長に無断で伊賀に、およそ1万の兵で攻め込みました。第一次天正伊賀の乱です。当時、伊賀は郷士衆による共同統治でしたが、彼らのゲリラ戦の前に信雄軍は大敗を喫します。信長はこの敗戦に激怒し、信雄に対して「親子の縁を切る」と書いた書状を送りました。

信長としては、息子が勝手に兵を出した挙げ句、大名ですらない寡兵の伊賀郷士に敗れるなどはあってはならない許し難きことです。ただ、この件で信雄が罰せられることはなく、翌年、信長が主導する形で2度目の伊賀攻めを行います。第二次天正伊賀の乱です。

信長は信雄の不名誉を晴らすべく、信雄を総大将に据えますが、その配下に丹羽長秀、滝川一益、蒲生氏郷ら織田家中の歴戦の武将を従軍させ、伊賀をまさに根絶やしにするような激しい攻撃を加え制圧しました。

信雄は、その功績で伊賀の3分の2を領有することになります。しかし、この残酷な戦いは伊賀の者に深い恨みを抱かせました。信雄は伊勢においても伊賀においても決して安定した状況をつくり上げることはできなかったのです。

本能寺の変の一報を受けた信雄は2500ほどの軍勢を率いて出陣しますが、光秀と戦うことなく撤退しました。

このとき信雄は、弟の信孝が担当する四国攻めの援軍に主力を出していたため手勢が少なく、とても明智光秀に対抗できる状態ではなかったことが原因とされていますが、実際には伊賀がこの機に乗じて反乱の動きを見せたこと、信雄に対する信頼がなかったことで徴兵もままならなかったことが大きかったのでしょう。

領内をきちんと治められなかったつけが、ここで露わになったということです。

とはいえ、反乱で大混乱となった武田家の旧領である甲斐・上野のような状況に陥ることはありませんでした。信雄は、その甲斐・上野を巡って対立していた徳川家康と北条氏政の和睦の仲介を、弟の信孝と共に行っています。この仲介という行為は「織田家の当主」を意識したものであり、この点は信孝も同様だったのでしょう。

その織田家の当主を決める清洲会議は、信雄の予想外の結果に。

当初は、信雄か信孝のどちらかと思われていたのが、秀吉の発案で兄・信忠の嫡子である三法師が後継者となり、信雄、信孝は、その後見人という地位となります。しかしながら信長の遺領配分で信雄は尾張を手に入れ、伊勢・伊賀を合わせると百万石を有することに。一方の信孝は美濃を得ました。

秀吉と柴田勝家の争いで信雄は力を失う

この結果については信雄よりも信孝が不満を持ったようで、しだいに信孝は秀吉と敵対しはじめます。当初、清洲会議の決定では、三法師は安土城に移る予定でしたが、信孝は三法師を岐阜城にとどめ、自分の手から離しませんでした。

これは、事実上、信孝が三法師の後見役として織田家を率いるということです。もう一人の後見人であるはずの信雄は蚊帳の外に。この信孝の行動の背後には、秀吉の台頭に敵対する柴田勝家の存在がありました。

この信孝の行動に対し、秀吉は苦肉の策として清洲会議の決定を覆し、暫定的な織田家当主として信雄を担ぎ出します。そして池田恒興、丹羽長秀を取り込み、信雄と主従関係を結ばせました。おもしろいことに、この決定に徳川家康も賛同したとの記録があります。

のちに信雄と共に秀吉と対決する家康が、このとき、どういう思惑で信雄を織田家当主として認めたのかはわかりませんが、織田家の最大の同盟相手である徳川の決定は大きなインパクトがあったでしょう。

この状況に勝家と信孝は、いったんは秀吉、信雄と和睦をします。これは時期が冬であり、雪に閉ざされる北国の勝家が自由に軍事活動を行えないことによる一時しのぎでした。秀吉は、もちろんそれを見越したうえで、和平交渉にやってきた前田利家を調略し味方にしてしまいます。

さらに信孝が三法師を、なおも岐阜城から離さないことを理由に岐阜城を取り囲み、信孝を屈服させました。形式上は織田家暫定当主である信雄の決定ではありますが、実質はすべて秀吉の采配です。三法師を奪われた勝家、信孝には、もはや勝ち目は薄く、賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家は北ノ庄で自害してしまいます。

秀吉の策により信孝は自害、信雄は追放

ここで秀吉は巧妙な手を使います。秀吉にとって信孝は目障りな存在でしたが、さすがに主筋に当たる人物であり、自ら手を下すのは世間に対してはばかられる行為です。そこで秀吉は信雄を焚き付けました。

信孝は本来、信雄より早く生まれたのですが、母の出自が低かったため出生届を遅らされ弟とされた経緯があります。そのせいか信孝は、信雄を何かと見下すような態度だったようで、信雄にとっても目の上のたんこぶのような存在でした。

秀吉の言葉に踊らされるような形で信雄は信孝を攻め、ついに自害に追い込んでしまいます。しかし、ここまでが秀吉にとって信雄が利用価値のあった期間でした。信雄としては、これで晴れて信長の後継者と認められ安土城で権勢を奮うつもりでした。しかし秀吉によって、あっけなく安土城を退去させられる事態に。

ここにおいて信雄は、ようやく自分が秀吉に利用されたことを知ります。そして、それに対抗するために徳川家康に接近していくことになるのです。

信雄は暗愚と評価されることの多い人物です。

これは天正伊賀の乱の失敗が大きいと思われますが、それ以外にも、信雄は暗殺や騙し討ちといった陰湿な策を多用したことが、世間にいい印象を与えられなかった要因として考えられます。


圧倒的な秀吉の軍勢に家康は、どう対抗するのでしょうか(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

利用され続けてきた信雄の決断

血の繋がらぬ関係とはいえ弟を殺し、その後も秀吉の策に踊らされ、大切な自分の重臣を騙し討ちで殺してしまいます。信雄の前半生は血塗られていたといってもいいでしょう。


信雄は幼くして北畠家に養子に出され、しかもその存在をよく思わない家臣団も多く、つねに緊張した状態で育ったのでしょう。信雄は怪しいと思うと、すぐに家臣を殺してしまう傾向がありました。

父の手元で育った兄・信忠にはそういった事実はなく、家臣との関係もよかったことを考えると信雄には同情すべき点もあります。父に利用され、父の死後は秀吉に利用される人生でした。その信雄が己の意思で秀吉と戦うことを決めたのは、大きな転機だったのかもしれません。

その信雄の背中を押したのは、家康でした。

(眞邊 明人 : 脚本家、演出家)