第二次世界大戦中に連合軍がナチス・ドイツの科学者に行った「イプシロン作戦」とは?
1938年にドイツの物理学者であるオットー・ハーン氏が核分裂反応を発見してから、ナチス・ドイツなどの枢軸国とアメリカやイギリスなどの連合国は原子爆弾の開発競争を行いました。連合国側はナチス・ドイツによる原子爆弾の開発や製造がどれだけ進んでいるかについての調査を行うため、「イプシロン作戦」を実施しています。
Transcript of Surreptitiously Taped Conversations among German Nuclear Physicists at Farm Hall
Operation Epsilon - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Epsilon
1938年後半にハーン氏が核分裂反応を発見すると、連合国側はナチス・ドイツをはじめとする枢軸国側の原子爆弾の開発が有利なスタートを切ったと判断しました。危機感を持った連合国は、アメリカやイギリス、カナダの科学者や技術者を総動員して「マンハッタン計画」を実施します。
その後、ナチス・ドイツは連合国軍による攻勢を受け、1945年5月に降伏文書に調印しました。ナチス・ドイツの降伏までに行われた原子爆弾計画に関連する個人や文書、資料についての調査では、ナチス・ドイツにおいて製造中の原子爆弾が存在しないことが明らかになりました。しかしアメリカをはじめとする連合国の一部では、ナチス・ドイツによる原子爆弾の未所持について、懐疑的な意見が上がっていました。
そこで、連合国軍は1945年7月3日からナチス・ドイツにおいて原子爆弾の計画に取り組んだと考えられていたハーン氏をはじめ、エーリッヒ・バッジ氏やクルト・ディーブナー氏ら合計10人のドイツ人科学者をイギリスのゴッドマンチェスターにある「ファームフォール」と呼ばれる施設に収容しました。収容施設には盗聴器が取り付けられ、科学者同士の会話を盗聴して、ナチス・ドイツが原子爆弾の製造にどれだけ近づいていたかを判断することを目的とした調査が行われました。
科学者間の個人的な会話を盗聴することは、尋問によって強制的に情報を引き出すことよりも容易で、より正確な情報を得ることができると考えられていました。
記録された科学者の全会話のうち、原子爆弾に関する技術的、政治的情報を含む約10%の会話のみが記録、翻訳され、その後250ページ以上にわたる24の報告書がイギリス政府とアメリカ領事館に送られました。科学者らが広島市への原子爆弾投下を知らされた際には、ショックを受ける様子が記録されたとともに、一部の科学者はその報告が真実であるか懐疑的な目を向けていました。また報告の際には「ウラン」や「核分裂反応」についての言及は行われず、原子爆弾が広島市に投下されたという情報だけが科学者らに伝えられました。
アメリカ軍による原爆投下の情報が伝えられると、科学者らは「アメリカによる原子爆弾がどうやって製造されたのか」や「なぜドイツは原子爆弾の製造に至らなかったのか」といった議論を交わしました。ヴェルナー・ハイゼンベルク氏をはじめとする物理学者は、「原子爆弾の製造に必要な濃縮ウランの量が想定よりも少なかった」ことを理由として挙げました。結果的に連合軍の調査では、ドイツによる原子爆弾の製造プロジェクトは、せいぜい原子爆弾の仕組みについて考えるような初期の理論段階であったことが明らかになりました。
収容された科学者の中にはナチス・ドイツのために原子爆弾を製造するに至らなかったことを喜ぶ人物がいた一方、カート・ディーブナー氏やヴァルター・ゲルラッハ氏は国民社会主義ドイツ労働者党の敗戦に同情的な態度を示したことが記録されています。また、ハーン氏はナチス・ドイツが原子爆弾の製造に成功しなかったことを喜ぶ一方、「アメリカが先に原子爆弾の製造や開発に至ったことは、君たちが二流の科学者であることを示している」と述べ、ドイツの原子爆弾プロジェクトに関わった科学者らを罵ったと記されています。
その後1946年1月3日に科学者らは解放されましたが、記録された録音データや録音の文字起こしは長らく秘匿されていました。1992年に機密解除されたファームフォールで行われた会話の記録は、さまざまな朗読劇やドキュメンタリー番組の制作に寄与しました。