2023年4月14日、フランスの首都パリで年金改革に反対する市民の抗議活動(写真・2023 Bloomberg Finance LP)

年金改革でフランスは、混乱している。2023年1月以降、全国各地で激しい抗議活動が始まり、年金改革に対する批判は現在でもますます激化している。

フランスとって、年金改革はつねに鬼門である。ジャック・シラク政権(在任期間1995〜2007年)は就任早々の1995年に年金改革を提案した結果、同年12月に3週間もの公共交通機関のストライキでつまずいてしまった。その後、新しい法案が提出されるたびに、フランス全土でストライキが繰り広げられることになる。

こうした手詰まりを打開しようと、ニコラ・サルコジが大統領として登場したが(在任期間2007〜2012年)、サルコジの強権的政治による改革も結局、彼の大統領再選の失敗という結果で終焉を迎えた。

その後のフランソワ・オーランド(在任期間2012〜2017年)にもその失敗が受け継がれ、ここに来て小ナポレオンと称されるエマニュエル・マクロン(同2017年〜)の登場によってこの問題が解決するかに見えたのだが、今大きな政治的危機に瀕している。

民主主義に潜む矛盾

そもそもフランスは200年にわたって、民主主義という制度のもつ苦しみの中で悩んできた国家といえる。その苦しみとはなにか。それは、民主主義に潜む、最大の矛盾点にある。

つまり、あまりに民衆よりになると何も改革できなくなり、かといって大胆に改革を遂行する人物が登場すると、その人物が独裁者となるという矛盾だ。マクロンもこの矛盾から抜け出られるかどうかという点が、今回の混乱にも現れている。

カール・マルクスは1848年の2月革命後に成立した第2共和制憲法について、こう述べた。

「海神テイテイスはアキレウスに、おまえは若さの絶頂期に死ぬだろう、と予言した。憲法もアキレウスと同じ急所をもっていたので、アキレウスと同じように早死にするだろう、という予感をもっていた。」(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)

アキレウスは、ある1点の欠陥を除いて完璧であった。その欠陥は彼のかかとにあった。「きれいな水に魚は棲まない」の例えどおり、完璧すぎるものには必ず完璧さゆえの欠点がある。マルクスは、第2共和制の憲法をアキレウスに例えたのだ。

第2共和制の憲法の欠点とは、独裁者を生まないために徹底的に民主化を図ったことにあった。つまり、この憲法は大統領の再選を禁じ、その親戚も大統領になれないという条項を付加したことで大統領の独裁を阻止しようとしたのである。

なぜこうした民主的憲法が成立したのかといえば、それは1789年のフランス革命以後の歴史がそれを裏付けてくれる。フランスの民主主義の歴史は、民主主義を徹底させ、独裁を阻止するための歴史だった。しかし民主主義を徹底すればするだけ、いつも独裁者がそこから現れたのである。

革命後の第2次共和国憲法によって生まれたのは、国民公会であった。しかしその国民公会から出現したのは、独裁者マクシミリアン・ロベスピエール(1758〜1794年)であった。

今回、野党・左翼党の共同党首を務めたジャン=リュック・メランションはマクロン大統領をロベスピエールに例えているが、なぜロベスピエールが独裁者になったのか。それは、反革命軍の到来と国内における物価高騰に原因があった。

危機に機能しない民主政

平和時にはうまく行く民主政も、危機においてはうまく機能しない。それは人々が危機に恐怖を抱き、英雄の到来を期待するからだ。民衆はこんな場合、強力無比の独裁者を待望していく。そして独裁者が、実は民衆にとって諸刃の剣であることを忘れる。敵に対して強面の人物は、内に対しても非情な独裁者となるのだ。

フランスの詩人・小説家であるアナトール・フランス(1844〜1924年)は、『神々は渇く』(Les Dieux ont Soif、1912年)の中で、ある人物にこう語らせる。「ところで、英雄を生むのは勇気よりも恐怖なのだ。ガムラン君、恐怖から生まれる奇蹟がいつの日か君たちに対して爆発するようなことがなければいいが」(大塚幸男訳、岩波文庫、133ページ)。

やがて1794年7月に「テルミドールの反動」が起き、ロベスピエールは断頭台の露と消える。これに懲りたフランス人は、独裁者の復活を避けるために憲法において複数の統治者を置く。その1人がナポレオン・ボナパルト(1769〜1821年)であった。

ナポレオンはいつの間にかたった1人の統治者に上り詰め(1804年)、やがて独裁的皇帝となる。それは当然だ。周りにフランスを取り巻く戦争の恐怖が蔓延する限り、人々は強い英雄を結局は求める。当然のごとく民主憲法は、独裁者を生み出したのだ。

この悪夢は1848年の第2共和制でも再来する。登場人物は、ナポレオン・ボナパルトの甥、ルイ・ナポレオン(1808〜1873年)である。第2共和制憲法下で1848年12月に大統領となったルイは、やがて任期を迎えるが再選は禁止されていた。

では、大統領を続けたい彼はどういう行動を取ったのか。クーデタを起こし、憲法をまるごとゴミ箱に放り込んだのだ(1851年の「ブリュメール18日のクーデター」)。マルクスが「この憲法は早死にする」といったのは、まさにこのことだったのだ。


歴史は喜劇のように繰り返す。やがて、ルイ・ナポレオンは1852年に皇帝「ナポレオン3世」となる。その20年後にナポレオン体制は崩壊する。そして第3共和政が成立し、再び独裁者を恐れる憲法が作成される。

確かに、第3共和政はこれといった独裁者を生み出さず長く継続したが、結局ドイツの独裁者ヒトラーに協力するフィリップ・ペタン元帥(1856〜1951年)を生み出すことになった。

このペタンに懲りたために、戦後の憲法は再び独裁を生まない憲法となり、それが第4共和制憲法となる。されど、またここでフランスはアルジェリア戦争(1954〜1962年)という危機に巻き込まれ、フランス人は強い大統領を切望する。

こうして1958年に現在の第5共和制憲法が成立する。それによって第2次世界大戦の英雄シャルル・ドゴール将軍(1890〜1970年)が大統領になる。第5共和制の憲法は、大統領の決定に優位を与えるべく生まれたものである。しかし、結局1968年の5月革命で生じた労働者や学生からの批判によって、1969年にドゴール将軍は辞任に追い込まれる。

一方的な大統領のやり方に反発

2023年3月、フランス議会は年金改革において62歳となっている年金受給資格を64歳に引き上げた。これには憲法49条の第3段落、社会保障の場合の決定には内閣に責任があるという項目を使った。確かに、憲法にそれが明記されているので合憲ではある。

しかし問題は、これが果たして国民の合意を得ているものなのかという点だ。国民は、こうした一方的な大統領のやり方に憤りを感じた。議会の投票で通過する可能性の低い年金改革を、強引に49条で取り繕ったようにみえたのである。国民はそれを「大統領と首相の暴挙だ」として怒りを爆発させたのだ。

こうなれば、マクロンはシラクがEU憲法で行ったように国民投票にかける手がある。しかし、これは危険な賭けである。それでは、反対する国民自ら国民投票にもっていければいいが、それには憲法11条国民の署名(選挙人の10分の1)と議員の署名(5分の1)という難題が待ち受けている。

そこで憲法会議という「賢人会議」に、今回の決定が憲法違反ではないかを審議していただくということになったのだ。しかし、憲法会議というものは独裁を避けるために必要な処置として第5共和制憲法成立後に導入されたものだが、その構成員は、大統領推薦者や議会の議長などで構成されている。

結局、下された裁定は3月の決議は合法であり、「62歳以上に年金受給年齢を引き上げるべきではない」という要求を否決した。こうして国民はさらに批判の勢いを強めることになったのだ。

確かに、大統領や首相が議会のチェックを乗り越えて何事も自由に決定するようになれば、国民議会は不必要となる。このことを物の見事に実践に移したのが、ルイ・ナポレオンであった。彼は国民に直接訴えることで、国民議会の権力を無効にしたのである。

議会は国民を裏切って、普通選挙を廃止しようとしていると訴え、民衆の支持を得ることに成功したのだ。ルイ・ナポレオンがクーデターの後も国民の支持を受けることができたのは、こうした狡猾な方法をとったからであった。

大統領と議会の逆の現象

しかし、今回はまったく逆になっている。議会のほうが国民に直接訴えていて、大統領のほうが国民から乖離しているのだ。それは2022年の大統領選、そして議会選挙で、大統領が国民の多数派ではなくなっているからである。

ドゴールの時と同じように、マクロンは辞任するか、そうでなければ、せめてこの法案を国民投票にかける必要があるのかもしれない。

しかし、それもしないとすれば、まさに大統領は独裁ということになりかねない。そうなると結局、第5共和制憲法も独裁者を生み出したことになる。こうしてフランスの民主主義の歴史に流れる、独裁と民主主義とのトラウマはまた今後もずっと続くことになるのだ。
 

(的場 昭弘 : 哲学者、経済学者)