男社会の競馬界で味わった葛藤を語った藤田菜七子【写真:安藤未優】

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THE ANSWER的 国際女性ウィーク3日目「男性社会で戦う女性」藤田菜七子インタビュー前編

「THE ANSWER」は3月8日の国際女性デーに合わせ、さまざまな女性アスリートとスポーツの課題にスポットを当てた「THE ANSWER的 国際女性ウィーク」を今年も展開。「スポーツに生きる、わたしたちの今までとこれから」をテーマに1日から8日までアスリートがインタビューに登場し、これまで彼女たちが抱えていた悩みやぶつかった壁を明かし、私たちの社会の未来に向けたメッセージを届ける。3日目は競馬界で女性騎手として数々の記録を打ち立ててきた藤田菜七子が登場する。

 今回のテーマは「男性社会で戦う女性」。社会的に「女性活躍推進」がトレンドの今、男女が同じ土俵で戦う数少ないスポーツ、競馬騎手として奮闘する藤田。日本中央競馬会(JRA)16年ぶりの女性騎手としてデビューし、活躍が難しかった女性騎手の記録を数々塗り替えてきた。前編では、動物が好きだった小学6年生でジョッキーを志したきっかけを回顧。男社会の競馬界でデビューし、“アイドル騎手”として過剰に注目された葛藤を語った。(取材・文=THE ANSWER編集部・神原 英彰)

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 500キロのサラブレッドにまたがり、時速60〜70キロでターフを駆ける。手綱で馬と会話し、人馬一体となって1着を目指す。最高峰のG1レースは10万人以上の観衆が熱狂する。トップクラスになれば、年間で“億”の収入を稼ぐこともできる、夢のある職業、競馬ジョッキー。

 その分、競争が激しい。そして、落馬のリスクも付きまとう。危険と隣り合わせの仕事でもある。

「先週は(前の馬が蹴った)芝のスッゴイでっかい塊が顔に飛んできて、両方から鼻血が出てしまって……そんなことはしょっちゅうです(笑)。ダート(砂)も冬は凍らないように凍結防止剤を撒いていますが、この時期は凄く肌が荒れやすい。それも、大変なところですね」

 デビュー8年目を迎えた25歳の藤田菜七子は、稼業のひとコマを明るく笑って話す。

 東京五輪で陸上の混合リレー、卓球の混合ダブルスという種目が採用されたように、スポーツ界も「男女平等」の社会の流れを汲むようにして男女混合種目が増えた。しかし、男性と女性が個人で競うスポーツとなると数少ない。競馬のジョッキーは、そのひとつだ。

 JRAにはおよそ150人の騎手が登録しているが、女性はわずか4人である(取材した2023年2月末時点)。

 そのなかで、女性ジョッキー活躍の先駆者となったのが藤田だ。2016年にJRA史上16年ぶりの女性騎手としてデビュー。これまで女性歴代最多148勝を挙げ、重賞勝利、G1レース騎乗など、数々の「女性史上初」も達成してきた。

 しかし、競馬界は調教師も厩務員も騎手も男だらけ。そんな世界をなぜ志したのだろうか。まずは、その足跡を辿る。

 茨城・守谷市出身。弟と一緒に空手に励んでいた活発な少女が競馬を知ったのは小学6年生の時。テレビに映るレース中継、その迫力に目を奪われた。「競走馬に乗る仕事って、凄くカッコイイなあ」。もともと大の動物好き。将来は動物に関わる仕事がしたかった。

 特に、親に連れて行ってもらった遊園地にポニーの体験乗馬があれば必ずねだったほど、馬は好き。

「乗り物ではなく、馬という生き物に乗れるなんて日常にはないし、他ではあり得ない。馬に乗って味わえる高さや速さが、子供の頃から凄く面白かったんです」

 当時はウオッカ、ダイワスカーレットがG1レースで牡馬をなぎ倒し、牝馬に席巻されていた競馬界。しかし、人間の方は男社会であることは露知らず。命にもかかわる職業とあって、親からは「馬に携わる仕事なら、もっと安全な職業もある」と他の道も紹介された。

 ただ、意志は固かった。小学6年生から乗馬クラブに通い、中学2年生からJRAがジュニア育成を目的として設立した乗馬スポーツ少年団で週5日、腕を磨いた。

 JRAの騎手になるには厳しい試験を潜り抜けて競馬学校に入学し、3年間の騎手過程を修了する必要がある。大半は中学卒業と同時に受験。藤田も中学3年生で挑戦し、受験者153人で合格者7人、倍率21.9倍の難関を突破。見事に合格した。女子は彼女1人だった。

 しかし、晴れて門を叩いた競馬学校で初めて性別の壁にぶつかり、挫折を味わうことになる。

JRAデビューすると過熱人気 プロ野球始球式にゼッケン盗難騒動も…

 夏は午前4時に起床。騎手として必須の体重管理のため、体重測定から1日が始まる。以降、厩舎作業、実技、学科とカリキュラムがびっしりと詰め込まれる。自由時間となる午後5時以降も、消灯する午後10時までトレーニングや学科の勉強など、自習に充てられる。

 全寮制で外泊は許されない。当時は髪型も男子は丸刈り、女子もベリーショートという規定。思春期だった15歳は「自分として思い切り、髪を切って行ったんですが、それでも長いと言われて乗馬の先生にザクザクと切られました」と笑って振り返る。

 藤田が感じた壁が、騎乗訓練だ。中学生までは男女の体格差はそれほど大きくなかったが、高校生の年代になると、それが顕著に。サラブレッドをコントロールするには腕力や体幹など、全身の筋力が求められる。気性の荒い馬なら、男性でも振り落とされる。

「500キロの馬が全力で走って、みんながみんな言うことを聞いてくれる馬はいないので。みんなができることが私はできなくて、みんなが乗れる馬が私は乗れなくて、すごく悔しくて。上手くなれる気がしなくて、辞めてしまいたいと思ったこともありました」

 1年目の冬に学校を飛び出して実家に戻ったこともあった。当時は「親や先生に励まされて、もう一度、頑張ろうと思いました」。学校側の配慮もありがたかった。もともと女子は別の建物だったが、男子棟の廊下の奥に仕切りのドアをつけて藤田の部屋も並べた。

「女性というだけで孤立しないようにしていただいて……。女子が入ったのは久しぶり。先生方もどう対応したらいいか困ったこともあると思いますが、いろいろと工夫してくださってありがたかったです」。周囲の環境に恵まれ、無事に3年間で卒業できた。

 2016年3月。いざジョッキーとしてデビューが決まると、状況は一変。女性というだけで過剰に耳目を集め、戸惑うことになった。

「16年ぶりのJRA女性ジョッキー誕生」

 こんな見出しが派手に躍り、同期7人で飛び抜けて注目された。容姿もあいまって「美人ジョッキー」「アイドル騎手」という枕詞もついた。週刊誌やワイドショー、競馬の枠を飛び越えて関心の的に。勝っても負けても報道陣に囲まれ、何気ない発言や仕草も大きく報じられる。

 デビューから数日で、プロ野球の始球式を任された。騎乗する競馬場は藤田目当ての観客が増加。地方競馬場でゼッケンが盗まれる騒動もあった。“菜七子フィーバー”と呼ばれた。渦中にいる純朴な18歳はカメラを向けられるたび、自然に笑うことができなくなっていた。

「何も実績を残したわけではないのに注目され、どうしたらいいか分かりませんでした。もちろん、注目していただけることは凄くありがたいことですが、そのたびに凄く不安で。注目に見合った活躍をして、期待に応えなければいけないプレッシャーは当時ありました」

 ネットの声は見ないようにした。しかし、勝手に「被害妄想的にこうやって思われているんだろうな」と悩んだ。守ってくれたのは「根本先生」という。

 競馬界は、調教師と騎手の師弟制度がある。デビューする見習い騎手は、茨城・美浦、滋賀・栗東という2つの調教施設に分かれ、受け入れ先の調教師が管理する厩舎に所属。管理馬の調教から厩舎の雑務までこなしながら、親代わりのように調教師からイロハを学んでいく。

 藤田が所属したのは美浦の根本康広師。自身もG1を3勝した元ジョッキーである。そして、根本厩舎に所属する丸山元気、野中悠太郎という兄弟子の騎手2人も含め、彼らは女性であることを抜きにして、一人の見習い騎手として時に厳しく、時に温かく、藤田に接してくれた。

「根本先生もジョッキーをされていた当時の目線で経験を話してくださり、先輩方も1レース乗って帰ってくるたびに『もっとこうやって乗った方がいい』と教えてくださり、本当に気にかけていただきました。その分、めげていないで自分も頑張らなきゃと思わされました」

活躍で変えた「女性騎手」の見方「本当に人に恵まれました」

「本当に人に恵まれました」と言う藤田は、馬と喧嘩しない柔らかい手綱さばきで「女性騎手」の見方を変えていった。

 デビューから1か月で初勝利。女性騎手として、12年ぶりのJRA勝利となった。1年目は6勝。2年目は14勝、3年目は27勝と年を追うごとに勝ち星を伸ばし、この年に増沢由貴子が持っていた従来の女性最多勝記録の「34」を塗り替える快挙を一気に達成した。

 43勝を挙げた4年目にはG1のフェブラリーステークスにコパノキッキングで出走(5着)。JRA所属女性騎手として初のG1騎乗を果たし、同馬でG3のカペラステークスで重賞勝利を挙げた。重賞を勝てずに競馬界を去る騎手も珍しくない世界で、立派な勲章だ。

 8年目の今年までに積み重ねた勝利は148勝。勝つたびに女性騎手の歴代最多を更新している。

 忘れられない勝利を問うと「初勝利は今でも覚えていますし、デビューした頃はもちろん重賞を勝ちたい気持ちでいましたが、本当に勝てたことは夢のようでした。そういう意味では重賞を勝たせていただいたのも凄く嬉しかったです」と思い出をかみしめるように言った。

 ただ、すべてが順風満帆だったわけではない。今日に至るまでには、苦悩の日々も味わっていた。

(後編「一度は思った「男性に生まれていれば…」 女性騎手の先駆者として戦い続ける25歳の現在地」続く)

■藤田 菜七子 / Nanako Fujita

 1997年8月9日生まれ。茨城・守谷市出身。小学6年生で騎手を志し、2016年3月に16年ぶりのJRA女性騎手としてデビュー。4月10日の福島第9レースでJRA初勝利。2018年に女性通算最多勝利記録を更新し、2019年に当時の女性歴代最多年間43勝をマーク。同年2月にフェブラリーステークスでG1初騎乗、同12月にJRA重賞初制覇。2020年4月25日に通算100勝を達成。2020年から2年連続フェアプレー賞(関東)を受賞。JRA通算3330戦148勝(重賞1勝)。美浦・根本康広厩舎所属。157.4センチ、45.6キロ。

(THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara)