護憲か、改憲か? 4人の論客の「憲法9条案」を比較する - BLOGOS編集部
※この記事は2016年06月15日にBLOGOSで公開されたものです
■松竹伸幸氏、伊勢崎賢治氏、井上達夫氏、長谷川三千子氏が登壇
憲法9条について、異なる立場の者たちで真剣に議論したいーー。そんな狙いをもったシンポジウム「公開熟議 どうする?憲法9条」が6月8日、東京・内幸町の日本記者クラブ10階ホールで開かれた。改憲を掲げる安倍政権によって、日本の平和主義の象徴である憲法9条の改正も現実味を帯びつつあるが、改憲といってもさまざまな「9条改正案」がある。シンポジウムでは、現行の憲法9条といくつかの改正案を比較しながら、それぞれの提案者たちの見解について議論した。(亀松太郎、大谷広太)登壇したパネリストは4人。元共産党安保外交部長でかもがわ出版編集長の松竹信幸氏、非戦派として「新9条論」を唱える東京外国語大学大学院教授(紛争予防・平和構築)の伊勢崎賢治氏、リベラリズムの立場から「9条削除論」を唱える東京大学大学院教授(法哲学)の井上達夫氏、保守派の論客として知られる埼玉大学名誉教授(哲学)の長谷川三千子氏が、憲法9条について自分の見解を述べるとともにクロストークをおこなった。
主催は、日本報道検証機構(楊井人文代表)とJapan In-depth(安倍宏行編集長)。楊井氏は産経新聞、安倍氏はフジテレビといずれも大手メディアの出身だが、憲法9条について考え方の異なる論者が意見を戦わせる場があまり多くない現状に危機感を抱いていたという。シンポジウムの冒頭で、楊井氏は「異なる立場の議論が少ない今のメディア状況の中で、憲法9条に独自の意見をもって論争を巻き起こしてきた4人に集まってもらった」と説明した。
今回のパネリストは、松竹氏が憲法9条維持派で、他の3人が憲法9条改正派という構成。松竹氏以外の3人はそれぞれ異なる「9条改正論」を唱えている。ここでは、4人の論者が考える、今後のあるべき「憲法9条案」を示すとともに、なぜそのように考えるのかという各自の説明を紹介したい。
なお、今回のシンポジウムには、いわゆる「護憲派」の代表的な憲法学者は参加していなかった。楊井氏によると「護憲派の論者にも10数人、声をかけたが、都合が悪いとか、辞退したいということで、今回は参加がかなわなかった」という。
■松竹伸幸氏の考える「10年後の憲法9条」
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
10年後の憲法というと、私は、現行の憲法9条が維持されているという立場だ。現行憲法の9条のもとで、いわゆる「専守防衛」という考え方が日本で生まれてきた。それを大切にしていきたい。
たしかに、専守防衛という考え方は、矛盾だらけというか、欺瞞に満ちているところがある。実際の日本は、アメリカの核抑止力に頼っている。何かあればアメリカが核兵器を使って相手に壊滅的な打撃を与えるという戦略を、日本を足場に築いている。全世界的なアメリカの活動の中で、「日本は自国周辺でしか活動しない」ということで「専守防衛」に見えているというのは、非常にまやかしの考え方だったと思う。
しかし、そうは言っても、自衛3要件など「専守防衛」に関する日本なりの考え方が生まれてきたのも事実だと思う。
1990年代にソ連が崩壊した。日本もアメリカの核抑止力から抜け出して、日本らしい防衛政策を作らないといけないという時期が生まれた。そのとき、護憲派は「憲法9条のもとでは一切、防衛政策を考えるのがよくない」という従来型の考え方を引きずったままだった。
逆に改憲派は、従来の「専守防衛」を投げ捨てて、海外に自衛隊を派遣する道を選び、集団的自衛権を堂々と行使できる国にしようという方向に進んでいった。
そういう中で、私は、護憲派も米ソ対決の時代のものではない新しい防衛政策を作れるのではないかと考えた。憲法9条のもとで、いろいろなゆがみはあるけれども、「専守防衛」という考えを大切にしながら、いまにふさわしい考え方を打ち出すべきだと考えた。
いまは、信頼性のある防衛政策を作って、政権がその防衛政策を採用して前に進む状況を作り出すことが、護憲派に求められていると思っている。そういう「専守防衛」という考え方を生んだ憲法9条を大切にしたいと思っている。
■伊勢崎賢治氏の考える「10年後の憲法9条」
第9条 日本国民は、国際連合憲章を基調とする集団安全保障(グローバル・コモンズ)を誠実に希求する。
2 前項の行動において想定される国際紛争を解決にあたっては、その手段として、一切の武力による威嚇又は武力の行使を永久に放棄する。
3 自衛の権利は、国際連合憲章(51条)の規定に限定し、個別的自衛権のみを行使し、集団的自衛権は行使しない。
4 前項の個別的自衛権を行使するため、陸海空の自衛戦力を保持し、民主主義体制下で行動する軍事組織にあるべき厳格な特別法によってこれを統制する。個別的自衛権の行使は、日本の施政下の領域に限定する。
<日米地位協定の改定>
日本の施政下のすべての在日米軍拠点(基地および空域)における日本の主権を回復する。具体的には、
・地位協定の時限立法化(更新可)、もしくは、米軍の(段階的・完全)撤退時の状況をビジョン化(日本がすべての隣国との領土、領海問題の完全解決等)
・在日米軍基地に米軍が持ち込むすべての兵器、軍事物資に対する日本政府の許可と随時の検閲権。
・在日米軍基地が日本の施政下以外の他国、領域への武力行使に使われることの禁止。
僕の新しい憲法9条案は「非戦」を貫くためのものだ。
「憲法9条のおかげで日本は戦争をしないですんだ」と言う人がいるが、それは事実誤認だ。国際法でいう「集団的自衛権」の行使を戦争と考えれば、日本はすでに戦争をやっている。いまでは、アフリカのジブチに軍事戦略基地を持っている。また、通常戦力でいうと、日本は世界でも有数の軍事大国。冷たい現実として、憲法9条は、日本の非軍事化に何も貢献していない。
問題は、戦争の定義、すなわち「武力の行使」の定義が、日本と国際法で違うことだ。このまま放っておくと大変なことになる。日本の国民には「戦争をしている」という実感がないのに、国家がしてしまう。
実際に、日本は特措法で集団的自衛権の行使を何回もやっている。国外では「日本は戦争をやっている」と理解されている。でも、国民にはその感覚がない。これが一番恐ろしいこと。つまり、知らない間に嫌われている。知らない間に敵意を持たれている。
では「戦争の定義」は、日本と国際法でどう違うのか。戦争に関する国際法には、国連憲章と、国連ができる前からの慣習法の積み上げである戦時国際法(国際人道法)がある。
国連憲章では、武力の行使の言い訳は3つしか認められていない。それは、個別的自衛権と集団的自衛権と集団安全保障。これがいったん行使されると、戦時国際法の世界になる。戦時国際法は、やってはいけないことの集積、つまり、ネガティブリストの集積。それを「交戦権」といっている。
つまり、3つの言い訳のどれかによって武力の行使が開始されると、そこからは、交戦権という認識になる。その交戦権を規制するのが戦時国際法。個別的自衛権や集団的自衛権の行使は、交戦権の行使ということ。
ところが、日本の憲法9条2項は、交戦権を否定している。つまり、日本人が行使できると思っている個別的自衛権は、実は個別的自衛権ではない。我々ができると思っているのは個別的自衛権ではなく、「自衛権」。この自衛権というのは、日本だけの定義だ。
自衛権とは何かは、どこにも定義されていない。歴代の国会の答弁の中で、ほんわかとできたもの。日本の領海内に敵が現れたら、必要最小限の反撃をする権利だ、と。反撃して敵があきらめてくれなかったらどうするかは想定していない。
つまり、戦争の定義が違う。そこを考えてほしい。
■井上達夫氏の考える「10年後の憲法9条」
第9条 (1項、2項ともに削除)
(第3章 国民の権利および義務)
第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合、および第30条の2により、兵役に服するか、良心的兵役拒否権を行使して代替公役務に服する場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
(第3章 国民の権利および義務)
第30条の2 安全保障のために戦力の保有を法律で定めた場合は、兵役に服する能力のある国民はすべて、法律の定めるところにより、一定期間兵役に服する義務を負う。第14条第1項は兵役義務にも適用される。
2 兵役に服する国民は軍事訓練に加えて、この憲法と国際法の諸原理の理解を徹底させるための研修を受けなければならない。
3 自己の良心に基づき、兵役を拒否する権利は、これを保障する。この権利を行使する者は、消防、災害救助活動、その他法律で定めるところの、これらに準じる負担を負う非武装の代替公役務に服さなければならない。
(第4章 国会)
第59条の2 安全保障のために戦力を保有するか否か、又、戦力の編成と運営および軍事裁判に関わる事項は、法律により定める。法律で戦力の保有を定めるには第30条の2にしたがって、国民皆兵制と、良心的兵役拒否の代替公役務をも法律で定めなければならない。
2 前項の法律案については第59条第4項を適用しない。
3 武力行使は、衆議院と参議院の緊急合同国会における出席議員の過半数の賛成による承認を要する。
(第5章 内閣)
第66条 内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。
2 内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならない。法律で戦力を設置する場合、内閣総理大臣は、その最高指揮官となる。武力行使は、閣議で決定した上で、第59条の2第3項による緊急合同国会の承認を事前に得なければならない。
(第6章 司法)
第76条 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
2 特別裁判所は、第59条の2第1項により法律で定められた軍事裁判を行う機関を除き、これを設置することはできない。行政機関は終審として裁判を行うことはできない。上記軍事裁判機関の判決に対しても、それに不服ある者は通常裁判所に訴えることができる。
(第8章 地方自治)
第95条 一の地方公共団体にのみ適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することはできない。
2 外国との安全保障条約により、我が国土内に外国の軍隊を駐留させる基地を設置する場合には、その外国軍隊の処遇に関する当該国との地位協定に基づく基地の設置は、当該国の基地が設置される地方公共団体の住民投票においてその過半数の同意を得なければならない。
私が言いたいのは、「憲法を守る」と誓っているはずの護憲派が憲法を無残に裏切っているということだ。世界有数の武装組織である自衛隊が「戦力」ではないというのはウソだし、もし日本が侵略されたときに、世界最強の戦力である米軍と合同して戦うのが「交戦権の行使」ではないというのはバカげている。
これは「解釈改憲」そのもの。僕が言うところの修正主義護憲派は、自分であからさまな解釈改憲をやっておきながら、集団的自衛権の行使だけは解釈改憲だと言っている。
もう一つ、「自衛隊と日米安保条約は存在することも違憲だ」「非武装中立しかダメだ」という原理主義護憲派は、「政治的には専守防衛のための自衛隊と安保は必要だ」と言っている。でも、違憲だと言い続ければ、専守防衛あるいは個別的自衛権の枠内で自衛隊を維持するのに有利だと考えている。
こちらは、修正主義護憲派以上に憲法を裏切っている。これは、エセ原理主義護憲派、あるいは、疑似原理主義護憲派と呼ぶべき。いまはピュアな原理主義護憲派が本当にいるかといえば、疑わしいと思う。
私の改正案を見てほしい。「憲法9条削除論」を唱えているが、9条を削除して終わりではない。今回登壇している長谷川さんの改正案は4行、伊勢崎さんは9行しかないが、私の改正案は2ページもある。
私の考えでは、「非武装中立か」「武装中立か」「個別的自衛権の枠内にとどまるか」「集団的自衛権か」あるいは「国連中心の集団安全保障がいいか」という安全保障政策の基本は憲法で凍結してはいけない。日々、立法過程の中で議論しつづけるべきだ。
ただ、憲法では、戦力が濫用されないように戦力統制規範を定めるべき。これを定めたのが、私の憲法改正案。だから長い。その中には徴兵制もあるが、仮にそこにいかなくても、最低限、シビリアン・コントロールを憲法で定めるべきだ。
文民である首相が軍隊の最高指揮命令権をもつということや、武力行使は国会の事前承認が必要ということすら、現行憲法では定められていない。それはなぜかというと、9条があるおかげで、日本国憲法上、戦力が存在しないことになっているから。憲法上存在しないはずの戦力を統制する規範を、憲法がもてるわけがない。
だから、私は「9条削除論」。少なくとも、伊勢崎さんの新9条のようなものを定めるべき。そのうえで、戦力に対する統制規範をはっきりと憲法条文として定めるべき。だから、私の改正案は長くなっている。
■長谷川三千子氏の考える「10年後の憲法9条」
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国際紛争を解決する手段としての戦争および武力の行使は、これを放棄する。
2 軍隊の最高の指揮監督権は、内閣総理大臣に属する。
3 軍隊の組織、および安全保障に関する事項は、法律でこれを定める。
私の改憲案はものすごく簡単。私が言いたいのはものすごく単純なこと。日本国憲法は成文憲法なので、条文は大事にしないといけない。私の意見が一番、ピュアな護憲派に近いと思う。
憲法9条2項を読むと、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」と書いてある。日本語のできる人がこれを読めば、日本は戦力がもてない、日本には交戦権が一切認められないと読める。だから、仮に自衛権というものがあったとしても、自衛権はなんの意味もない。もちろん自衛隊は違憲ということになる。
私がピュアな護憲派と一点だけ違うのは、ピュアな護憲派は「だから、これを守り続けよう」と言う。私は「だから、これはあってはいけない条項だ」という考え。これがあってはいけない条項というのは、なぜか。具体的な国防論のはるか以前に、「戦力ゼロ」「交戦権否認」という規定は、近代の成文憲法において「主権がゼロになる」ということを意味する。
主権とは。もともと最高の力という意味。主権がゼロだと、その国家は力を持ちえない。主権がないと、近代民主主義の一番の基本である国民主権主義も不可能になる。9条2項をもった憲法は、近代民主主義の成文憲法として成立しえないということになる。
これは、右とか左とか、細かい国家戦略の相違とかの、はるか以前の問題。こういう条項が憲法にあったらダメだ。
私の処方箋がものすごく簡単なのは、「とりあえず患者さんの命を救うために、ここだけは手術しておかないとダメ」と考えているからだ。そんな観点から「9条2項削減論」を唱えている。
各氏のプロフィール
松竹伸幸(まつたけ・のぶゆき)ー1955年生まれ、一橋大学経済学部・社会学部卒。全学連委員長、民青同盟国際部長、日本共産党政策委員会安保外交部長を経て、2006年に同党を退職。現在、ジャーナリスト(かもがわ出版編集長)、「自衛隊を活かす会」事務局長。「憲法九条の軍事戦略」「集団的自衛権の深層」(いずれも平凡社新書)、「9条が世界を変える」「集団的自衛権の焦点 「限定容認」をめぐる50の論点」(いずれも、かもがわ出版)など著書多数。伊勢崎賢治(いせざき・けんじ)ー1957年生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了。国連シエラレオネ派遣団武装解除部長、日本政府特別顧問(アフガニスタン武装解除担当)を経て、現在、東京外国語大学大学院教授(平和構築・紛争予防)。「自衛隊を活かす会」呼びかけ人。「新国防論」(毎日新聞出版)、「本当の戦争の話をしよう: 世界の「対立」を仕切る」(朝日新聞出版社)、「日本人は人を殺しに行くのか 戦場からの集団的自衛権入門」(朝日新書)、「武装解除」(講談社現代新書)など著書多数。
井上達夫(いのうえ・たつお)ー1954年生まれ、東京大学法学部卒。現在、同大学大学院教授(法哲学)。日本法哲学会理事長を経て、昨年創刊の研究誌「法と哲学」責任編集委員。2005年、月刊誌「論座」で論文「挑発的!9条論ー削除して自己欺瞞を乗り越えよ」を発表。「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください」「憲法の涙」(いずれも毎日新聞出版)、「世界正義論」(筑摩選書)など著書多数。「共生の作法―会話としての正義 」(創文社)でサントリー学芸賞、「法という企て」で和辻哲郎文化賞。
長谷川三千子(はせがわ・みちこ)ー1946年生まれ。東京大学文学部哲学科卒、同大学院博士課程中退(哲学)。現在、埼玉大学名誉教授、NHK経営委員。「日本会議」代表委員。「憲法改正」(共著、中央公論新社)、「九条を読もう!」(幻冬舎新書)、「民主主義とは何なのか」(文春新書)、「激論 日本の民主主義に将来はあるか」(共著、海竜社)、など著書多数。「バベルの謎―ヤハウィストの冒険」(中央公論新社)で和辻哲郎文化賞。