差別の現場とはどこか - 赤木智弘
※この記事は2016年05月29日にBLOGOSで公開されたものです
5月24日に、衆議院本会議でヘイトスピーチ対策法が可決され、成立した。(*1)条文ではヘイトスピーチの定義は「公然と、生命や身体、自由や財産などに危害を加えることを告知したり、著しく侮辱したりするなど、日本以外の国や地域の出身者を地域社会から排除することを扇動する不当な差別的言動」とされているという。これには海外出身者の子孫なども含まれるようだ。そうなると、日本国内で産まれた在日の人がどうなるのかがいまいちわからない。あと、在日米軍批判も定義的にはヘイトスピーチに当たるのではないか。基地反対運動も抑圧の対象になるのではないだろうか。
本題に入る。
「在日の人のチマチョゴリが破かれる」という話を聞いたのはいつの頃だっただろうか。僕はそうした噂をネットなどで聞いて「酷いことをする人がいるものだなぁ」と思いつつも、「本当にそんなことをする人がいるのかな?」という疑問を持っていた。少なくとも、自分の生活権に朝鮮学校の生徒もおらず、情報はいつでも伝え聞く程度のものであった。
その頃に、なんだかんだと在日の人たちを糾弾する集団が現れ始めた。日の丸を掲げて愛国を名乗りながら、口々に汚い言葉を発する連中が、普通の人間であれば恥ずべき行動を、自信満々に誇っているのを見て「なるほど、こういう連中がいるくらいだから、チマチョゴリを切り裂く卑劣な輩もいるだろう」と、疑問は確信に変わったのである。
「デモ」は「迷惑な、どんちゃん騒ぎ」でしかない。デモ隊をみて「なるほど、こんなこともあるのか」と感化されたことはない。よくて無視、悪ければ嫌悪である。 そうしたデモへの視線を踏まえれば、ヘイトデモの存在とは、自己満足のためだけに愛国を名乗り、その手段として差別を行う程度の卑劣な連中の存在を、自ら自慢して誇っているマヌケの存在を明らかにすることでしかない。つまり、彼らはヘイトデモを通して自爆しまくっていたのである。彼らがいればこそ、在日に対する批難は「気持ちの悪い連中の行為」という認識が強まったといえる。
しかし今回、罰則はないながらも、ヘイトスピーチを規制するという意図が法的に示されたことにより、地方行政や警察庁などのレベルで、ヘイトデモに許可を出さなくなるということが予想される。それにより、確かにヘイトデモはなくなるかもしれない。そして反ヘイトスピーチを推進してきた人たちは、それを「我々の勝利」と思うかもしれない。
反ヘイトスピーチを推進する人たちは、ヘイトデモをなくしたことをもって「差別が減った」と考えるのかもしれない。実際に彼らはヘイトデモの現場を「差別の現場」として認識しているようだ。だが、ヘイトデモが行われる場というのはあくまでも「差別の1つ」でしかない。そして何より、デモは予告されるし、すぐに通りすぎてしまう。その時間だけやり過ごせばなんとかなる。
しかし差別と言うのは24時間365日、本人が思いもよらぬ場所で飛び込んでくるものだ。
2ちゃんねるの実況スレなどを見ていると、旅番組や情報番組で、韓国料理が登場することがある。するとそれまで和気あいあいと実況してきた人たちが突然「バ韓国」「チョン」「トンスル」「一日一韓」などと書き込み始めるのである。その酷さに、なんどか実況スレ内で批判したこともあるが、せいぜい「ネタにマジレス恥ずかしい」みたいにいなされるのが常である。やがて僕は、そうした差別者たちを批判するのをやめて、画面に韓国モノが出てきた時は、そっと2ちゃんねるブラウザを閉じて、ほとぼりが覚めた頃にまた開くようになった。
日本人である僕ですら、不意打ちに差別的な言葉が飛び交うことに対して嫌悪感を覚えるのに、在日だったりする人たちの嫌悪感はいかほどのものだろうか。
そして、そうしたネットなどでの不意打ちの差別は、ヘイトデモのように避けることなどできないのである。いつでもふとした瞬間に飛び込んでくる、むき出しの差別である。
差別の現場で行われているものは「罵倒」ばかりではない。罵倒はあくまでも差別の極端な形に過ぎない。本当の差別は、相手の後ろで少し振り向いてニヤニヤするかのような「嘲笑」「イジリ」「ネタ化」である。
ヘイトスピーチの規制は、ヘイトデモを行う気持ちの悪い醜悪な連中の姿を見えなくする一方で、差別をしたい気持ちを否定するものではない。僕はヘイトスピーチ規制という場当たり的なやり方が、差別を解消するどころか、差別をどんどん地下に潜らせ、冗談や笑いとして多くの人に共有されて消費されるだけになるのではないかと、僕は危惧している。
*1:ヘイトスピーチ解消法 衆院で可決・成立(NHKニュース)http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160524/k10010533051000.html