怒りの矛先は保育園を増やさない行政なのか? - 赤木智弘
※この記事は2016年02月20日にBLOGOSで公開されたものです
「保育園落ちた日本死ね!!!」という匿名のエントリーが話題になっている。子供産んで働いて税金払っているのに、保育園にも子供を預けられないんじゃ、少子化も当たり前だという怒りの声である。
この声に子育て支援などを行っている認定NPO法人フローレンスの代表理事である駒崎弘樹氏も応答し、行政の体たらくを批判し、怒りの声を届けようと主張している。(*2)
僕はこの問題は、あまりに現代日本的な問題であると思う。しかしそれは「保育園を増やさない行政が悪い!」という問題ではない。
そうではなく、あまりにも「会社で働く」ということが当たり前だという思い込みが激しく、他の仕事をおろそかにすることに違和感を感じていないということの問題である。もちろんここでおそそかにされているのは「子育て」という仕事だ。
そもそも「子供を親が育てる」というのは、当たり前であると言えよう。特に小学校に入るまでの期間というのは、親や周囲の人達が付きっきりで見ているべき期間である。そしてその役目を担うのに最適なのは親であろう。
それは決して、保守的な人たちが言う「三つ子の魂百までと言う、子供を産んだら母親は家に入るべきだ」などという妄想ではなく、身体のバランスも悪く、体を動かす経験も少ないことで、怪我や事故の可能性が高いことから、付きっきりで物理的に守る必要があるという話である。それは当然、子供産むという選択をして、子供を産んだ親(*3)が負うべき最低限の責任であるといえる。
だから、本当であれば子供を産んだのであれば親は子供が3歳くらいになるまで、それは「三つ子の魂百まで」ではなく、幼稚園のような場所である程度の集団生活ができるようになるまでという意味で、親がなるべく付きっきりで育てるべきであり、そのために会社で働くことから親が離れ、子供を育てるという仕事に就くべきなのである。
しかし、現代日本では「親が会社を3年休む」ことは、現実的ではない。3年も会社を休めば、親のキャリアは切断されてしまう。会社は社員に「継続的なキャリア」を要求し、そこから外れた人間を出世コースから外す。
結果として、共働きで正社員の夫婦の場合は、大抵は女性の側が子供を産むために仕方のないキャリアの切断をさらに引き継ぐ形で、子供の世話を担当することによって、夫のキャリア継続を守らざるを得ない。
その後の女性のキャリアは、正社員に付けることもあるだろうが、子育てに時間がかかることから、非正規労働を選択する場合も多い。
昭和型の「夫は働き、妻は専業主婦」という家族形態は女性の地位の低さによって生み出されたものだが、現在の「夫は正社員、妻は非正規労働兼主婦」という形は「仕事も子育ても」と考えた結果、現状での最適解として生み出されているように僕は思う。
このように考えれば、一体何が問題なのかは明らかだと思う。
問題は保育園が足りないことではなく、会社の側が「労働者のライフステージが変わる」という当たり前のことに対応せず、社員の家族に丸投げしていることこそが問題なのである。独身の社員と子供の親になった社員。私的な部分の重大な変化に対する配慮もせず、同じように長時間働くように要求することそのことが、極めて非人道的なのである。
一度入社した人間が、子育てをおろそかにしてまで会社で仕事をすることを要求したり、それに答えたりということが、全く異常だと思われず、むしろそのために保育園の増設を要求するというのは、僕から見ればトンデモなくひねくれまくった話だと思うのである。
「保育園落ちた日本死ね!!!」というエントリーを書いた増田(*4)は「一億総活躍社会じゃねーのかよ」と書くが、一億総活躍社会とは一億総社畜社会のことなのだろうか?
会社で働いてキャリアを積み上げることだけが活躍で、子供を育てることは活躍ではないのだろうか?
怒るべきは、保育園を増やさない行政だろうか?
そうではなく、子育てという時間までもを会社に捧げるようにという非人道的な要求をする会社に対してこそ、まず怒るべきである。
そして、行政に対しては会社から離れても生活できる、十分な社会保障こそ要求するべきである。
僕はそう思う。
*1:保育園落ちた日本死ね!!!(はてな匿名ダイアリー)
*3:「産んだ」という言葉が着くと、母親だけのことを指すように思われそうなのだが、「親」という言葉は、男女問わず親という立場の人を指す言葉として使っていると、念のために記しておく。あえて「両親」と書かないのは、親が二人であるとは限らないからだ。
*4:はてな匿名ダイアリーに書き込む人を指す言葉。「Anonymous Diary→アノニ“マスダ”イアリー」から来ている。