※この記事は2016年02月17日にBLOGOSで公開されたものです

昨年7月、日本経済新聞社が、英国の経済紙『フィナンシャル・タイムズ』(以下、FT)を含むFTグループを教育大手ピアソン社から8億4400万ポンド(約1600億円)で買収することで合意したと発表した(11月に買収が完了したと発表)。

今回の買収は、日本の新聞業界にどのような影響をもたらすのだろうか。買収に至る経緯やFTの歴史、英国のジャーナリズムについてまとめた『フィナンシャル・タイムズの実力』を1月に上梓した在英ジャーナリストの小林恭子氏に聞いた。【大谷広太(編集部)】

FTと日経、それぞれの狙いは?

-今回の買収は、FT・日経双方にとって、ある意味で生き残りのためという観点と、規模拡大・コンテンツ拡充のためというように、いくつか理由があると思います。

小林:売却した方のピアソン社には、教育業務に専念したいという思いがありました。FTグループはピアソンの売り上げの数パーセントを占めるだけだったんです。FTグループのほうは、ジョン・リディングCEOも言っていたように、わかりやすく言うと、「お金が欲しかった」ということですよね。投資して欲しい、と。ピアソン側には、日本の会社であれば、すぐにどこかに売られたりもされないだろうという期待もあったと思います。

FTは紙の部数が約20万部、電子版の会員数を入れても75万ですが、これを2018年までにはトータルで100万にしたい。その目標を達成したい、そしてアメリカでも読者を拡大したいという思いがあるようです。アメリカには『ニューヨーク・タイムズ』や『ワシントン・ポスト』といった老舗の大手紙だけでなく、『VICE』や『Quartz』などの新興ウェブサイトもたくさんあります。こうしたメディアと戦っていくには、相当の投資を継続的に行うことが必要です。

一方、日経側には、グローバル化およびデジタル化という狙いがあります。単純に日経の記事が、FTに掲載されることを目的としているわけではないでしょう。タブレットでFTのアプリを開くたびに“A Nikkei Company”という社名が出ます。こうして、世界の知識人への間接的な影響が期待できるということだと思います。

また、FTのジャーナリズムの手法が日経に入ってくるかどうか、現時点では分かりませんが、人的交流も少しずつ始まっているようです。買収報道が出た際に、FT記者たちがTwitterで一斉に声を挙げていましたが、FTに限らず、欧米の記者はTwitterをやっているのが普通です。こうした手法が日経でも採用されるといいのですが。

「他社を買う」という発想が湧きづらい日本メディア

-小林さんは著書で、欧米におけるメディアは企業が様々な事業を展開する中のひとつであったり、それは時に買収の対象であったことが説明されていますが、今回のFT買収もそうした歴史につらなる事象だと思います。

他方、日本ではいわゆる“メディア企業”以外がメディアを持つことへの抵抗感や、“メディア企業”が他の事業をやることへの抵抗感があるように思います。


小林:確かに、新聞社が不動産業で収益を上げていると、「経営が厳しいから不動産業をやっているのか?」と叩かれてしまうことがありますね。あるいは文化事業や教育事業のような「社会的意義があることでなければダメ」といった感覚が、メディア、視聴者・読者の両方にあるようにも見えます。

「メディア企業はジャーナリズムだけで稼がなければいけない」という雰囲気があります。しかし今の時代、それは不可能ですよね。どのメディアも、死に物狂いでお金を作ってジャーナリズムを支えていかなければなりません。

例えば、日本人にも馴染み深く、評価も高いBBCも「自分たちでお金を稼ぎなさい」と政府から言われています。そのため日本版BBCのニュースサイトを開くと、広告が表示され、そうやって商業部門が得た売上をジャーナリズムに投資しているんです。

あるいは、日経に先んじてFTを買おうとしていた独アクセル・シュプリンガー社はテレビ局も持つ複合メディア企業ですが、Eコマースの企業を複数買収しています。これによって、何をどうすれば、どのように売れるのかを分析し、そのノウハウをウェブメディアの運営に活用しているのです。

ですから、もうキレイ事を言っている場合ではなく、ジャーナリズムを伸ばすためにもお金を稼ぎ続けることが重要です。要はメディア事業を続けたいのか、続けたくないか、ということです。もちろん、広告主の意向で報道が左右されるようであってはいけませんが、ジャーナリズムを守るためには、不動産業を営むのもまったく悪いことないでしょう。

ただ、日本のメディア企業の場合、こうした取り組みを実現するための人の流動性も低いし、思い切った人員削減もありませんから、他の会社を買うという発想も湧きづらいのではないでしょうか。

「海外の知識層70万人が購読」というFTの強みに鈍感

-海外では買収によるネット企業との融合もそう珍しいことではありません。ライブドアによるニッポン放送買収や、楽天によるTBS株取得が世間を賑わせてから10年以上が経過しましたが、その後の事例はほとんどなく、議論にも不慣れなのではないでしょうか。

小林:欧米の新聞社や通信社、放送局は自分たちが“デジタル・コンテンツのプロバイダー”という意識が強くなってきています。その一方、日本の新聞業界には、デジタルと紙とを分けて考える方がまだまだ多いように思います。

Amazon創業者のジェフ・ベゾスが『ワシントン・ポスト』を買収した時もそうでしたが、どこか遠い国の話という感覚がまだあるのではないでしょうか。

今回、執筆のために日経を含め複数の新聞社の方にお話を伺いましたが、「日経によるFT買収」という事象について、「もっと深く知らなくては」という意識が皆さんにあまりないように感じました。

と言いますのも、「FTって、なんか小さいよね」ということを皆さんよくおっしゃるんです。それがずっと頭に残っているのですが、重要なのは数ではなくて、「誰が読んでいるか」ですよね。数百万部という日本の大きな新聞の規模に比べれば、FTは確かに小さい。しかし、「海外の知識層70万人が読んでいる」という事実を十分に理解していないように見えました。

現在、新聞の電子版に関して言えば、ページビューではなく、“どのぐらいエンゲージしているか”、といった議論に移ってきていますよね。ページビューをベースにした広告料収入だけではダメなので、購読料を取る方向に力を入れるようになっています。そのためには、読者が何を欲しているかを考えなくてはなりません。

FTはオーディエンス・エンゲージメント・チームを編集室の中央部に置いているそうです。「オーディエンス・ファースト」がキーワードになってきました。

FTの側は、日経と一緒になることで、ジャーナリズムの面で窮屈になることを心配した人もいたと思います。現時点では「幹部は変えない」と日経側は言っていますが、将来的には不透明ですし、“編集の独立”と言っても、すぐ変えられてしまうのではないかと身構えたわけです。しかし、実際にはそうじゃなかった。

本来、やはり買収する前に、“こういう風に変えたい”というプランがあるわけですが、日経にはそれがあったのでしょうか。「グローバル化とデジタル化のため」という漠然とした目的はあったでしょうが、「内容をこう変えたい」というのは、なかったように感じます。そういう意味では、やはり日本のメディア業界には“不慣れ”な部分があるのかもしれません。

ボヤボヤしてるとFTに利用されるだけの可能性も

-本来は、従来のアセットを使って実現したいビジョンがあるからこそ買収するのが一般的ということですね。買収後の日経については、思いのほか動きが少ないということでしょうか。

小林:外から見ると、そのように見えますね。実際はいろいろなことをやっているとは思うのですが。

欧米の場合、買収をしたら、普通「変えない」といっても、必ず上の人を変えてしまいます。そういう意味で、FTは助かったと思います。アクセル・シュプリンガー社だったら、もう経営及び編集幹部の人たちを全部変えていたでしょう。

ですので、日経側がボヤっとしていたら、「このプロジェクト、絶対に必要なんですよ」と言って、FTにお金だけ使われてしまうかもしれません。記者のレベルでも、FTのジャーナリストは百戦錬磨ですから、「自分はこうしたい」というものがないと、相手のプランでどんどん物事が決まってしまうかもしれません。

現時点では、ヨーロッパでは、「日経」と言われても、多くの人は「Nikkei225(=日経平均株価)」という単語しか思い浮かばないと思います。知名度は決して高くないのです。

走りながら考える、というのでも良いと思います。ただ、日経関係者の方はもっとBBCなどに自ら出て来て、「日経のジャーナリズムはこうである」「今までこんなスクープがあったんだぞ」と、英語でどんどんアピールしていく必要があるのではないでしょうか。(次回に続く)

(こばやし・ぎんこ)1958年生まれ。1981年成城大学文芸学部芸術学科(映画専攻)を卒業後、米投資銀行ファースト・ボストン(現クレディ・スイス)勤務。読売新聞の英字日刊紙「デイリー・ヨミウリ」(現「ジャパン・ニューズ」)の記者・編集者を経て、2002年、渡英。英国をはじめとした欧州のメディア事情、政治、経済、社会現象を複数の媒体に寄稿。著書に『英国メディア史 (中公選書)』など。

・小林恭子の英国メディア・ウオッチ
・Twitter

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