「平和」よりももっと必要で困難な道は「平等」だ。 - 赤木智弘
※この記事は2015年08月16日にBLOGOSで公開されたものです
今年も8月15日が訪れた。日本では終戦記念日とされているこの日は、日本中の人たちが「平和」のことを考えなおす機会となっている。
今年も暑い中、靖国神社や千鳥ヶ淵に赴く人がたくさんいたのだろう。僕は人混みが苦手だから、先んじて13日に千鳥ヶ淵に行き、そっと手を合わせてきた。
日本人は平和が大好きだと思う。政治談義においても右も左も平和が大好きだ。
左は集団的自衛権を「戦争法案」だと批判するが、右からすれば「平和を守るためにアメリカと強調するのだ」という主張になろう。左側の平和は消極的平和構築、右側の平和は積極的平和構築。平和のために戦力を辞すのが左なら、平和のために戦力を増強するのが右。どちらも相応に正しく、どちらも相応に間違っている。戦力が無くても付け込まれるというのはその通りかも知れないが、戦力がありすぎても周辺諸国に懸念を抱かせる。まさに右が中国に懸念を示す理由が中国の防衛費の圧倒的な増強であることからも導かれる当然の答えだ。
そのいずれにしても、右も左も「平和は良いこと」という価値観になんら違和感を感じていないということは言うまでもない。今年の8月15日も、平和を祈る人たちが、靖国神社や千鳥ヶ淵問わず、たくさん訪れたのだろう。
地上の楽園こと北朝鮮は平和な国である。
朝鮮戦争以降、38度線ではにらみ合いが続くけれども、少なくともここ60年は停戦中である。定義的には戦争状態だし平和志向の政治体制ではないけれども、実質的には平和を実現している国であると言えるだろう。
その一方で北朝鮮は全く平等な国ではない。金日成、金正日、金正恩が支配する独裁国家であり、一族に親しい者や、平常に居を構える富裕層が何の不自由もない暮らしをする一方で、末端の国民はひたすら農業を主とした労働に従事させられる。
そう考えると、北朝鮮のような愚かな国ですら平和は実現できる。しかし平等は愚かな国では実現されない。末端の国民の幸せを実現しようとしない国は愚かである。
振り返って日本は平和だが平等だろうか?
日本では右も左も平等からは目をそむけ続ける。右側はすっかりアベノミクスに夢中で、生活保護費の削減という問題には全く関心を持たない。貧しいのは自己責任であり、金持ちは努力をした結果なのだと信じ込んでいる。
一方で左も口先では再分配を主張するが、実際に行っているのは正社員を守ることばかりである。労組の強い左派では正社員の待遇を守るために非正規を食いものにするのは当たり前だという意識が蔓延している。彼らが自発的に、非正規に対して正規の得ている利益を与えることは、決してないだろう。
8月15日に平和を祈願しようと、あるいは祈願しまいと、日本は平和で在り続けるだろう。今や独裁国家でも戦争状態は得ではないと知っている。一度起きた戦争はなかなか止まないが、逆に戦争を起こすことも簡単ではない。他国と海を隔てた日本で、戦争が起こる可能性はとてつもなく低い。
しかし日本は平等な国ではない。格差が当たり前とされ、異論を唱えても自己責任と切り捨てられる。
学校を出た時の就職市場が売り手市場か買い手市場かで人生の8割が決まる。そんな愚かな国で、毎年大々的に平和を祈願し続ける意味はどこにあるのかと考えると、やるせない気持ちになる。
僕は、日本が平和よりも平等を懇願することを良しとする国であってほしいと思う。