紛争地帯の「遺体」を報道すべきか? イスラム国人質事件で露わになった「日本メディア」の特異性 - BLOGOS編集部
※この記事は2015年07月25日にBLOGOSで公開されたものです
今年1月から2月にかけて日本全体を大きく揺さぶった「イスラム国」(IS)による日本人人質殺害事件。身代金を要求された政府の対応と同時に、紛争地帯における取材と報道のあり方も問題になった。事件から半年後の6月22日、新聞・テレビなどの報道機関でつくるマスコミ倫理懇談会全国協議会は「イスラム国による日本人人質事件と報道」と題した公開シンポジウムを、東京都千代田区のプレスセンターホールで開いた。パネリストとして登壇したのは、イスラム問題の専門家である日本女子大学の臼杵陽教授と朝日新聞東京本社国際報道部長の石合力氏、TBSテレビ外信部長の井上洋一氏、そして、フリーランスのジャーナリストである土井敏邦氏だった。ファシリテーターは、日本大学の福田充教授が務めた。
シンポジウムではまず、4人のパネリストがそれぞれ、人質事件報道を振り返りながら、取材のあり方やメディアの責任についての見解を述べた。それを受けてパネルディスカッションが行われ、紛争地帯での取材と報道をめぐる白熱した議論が展開された。(取材・岸田浩和)
日本人がトラブルに巻き込まれたときだけ「過熱報道」する?
パネルディスカッションでは「国際ニュースに関する日本のメディアの特異性」が問題となった。進行の福田教授は最初に、次のような質問を投げかけた。「日本人が海外の紛争地域で拘束されたり、トラブルに巻き込まれたときだけ、過熱報道におちいる現状について、世界的に見ても、日本はかなり特異なメディア環境と視聴者意識になっているとの指摘があるが、どうお考えか」
朝日新聞・石合:私は、同感する部分が多いです。一方で、それがマスメディアの姿だと括られてしまうことには、違和感も感じます。ぼくらは、組織ジャーナリズムのなかで、そういったものを打破しようと、必死に挑んでいる途上です。
日本の新聞社なので、自国のニュースが、あるていど中心になることは否定しません。ただ、すべてがそうだとは言えません。
たとえば、2013年7月、日本の参議院選のスタートの日にエジプトで、「アラブの春」以降の選挙で選ばれたムスリム同胞団出身のモシル大統領が、軍によって排除されるという事態が起きました。
参院選も日本にとっては大切なニュースですが、エジプトの事態は世界的な関心事です。それで、当日の夕刊の編集長に「世界的なニュースが起こってますよ。どっちを一面トップにしますかと」いうことを申し上げました。
結果的に、うちの紙面では、エジプトのクーデターが一面トップになって、参議院選はいわゆる肩という、二番手の扱いになりました。これはおそらく政治部からすると、ありえない判断でした。今までであれば、日本の選挙の初日のニュースは、自動的に一面トップだという意識が、おそらくあったんだと思います。
この時の一面掲載については、当時の政治部長と「これはやっぱり大事な話だから、お互い議論して、しっかりした扱いにしよう」と、相当な議論を行いました。同様の議論が日々あり、要望が通ったり通らなかったりというのを繰り返しています。
取材でも、うちは、シリアのアレッポという、きわめてイスラム国の支配地に近いところに記者を出しました。イスラム国での人権侵害の実像、あるいは、そこに暮らすシリア人の生活状況を、直接取材できる機会、チャンスと考えたからですね。
そのときの読者の反応は、きわめて好意的でした。 日本人の意識事態が国際化してきている。私たちが旧来的な思考で、「日本人は日本のニュースにしか関心がない」と思って球を投げていると、ストライクゾーンを外してしまうなという感覚を強く持ちました。「日本のメディア、あるいは日本の読者が、日本のニュースを強く求めている」という発想自体も、幻想なのかもしれないということを、日々感じています。
私自身は、本質はフリーランスの方たちと同じように、世界意識的な観点と、一人の人間として、中東の人々の悲しみや苦しみを伝えたいという思いで、これまで取材を行ってきました。うまくいくときも、いかないときもあるんですけれども、こうした意識の変化と改革を、私は自分の所属する組織の中でやっていきたいと取り組んでいます。
組織ジャーナリズム対個人の構図で判断するのではなく、それぞれの組織や個人の特長を生かした取材を、紙面や報道に繋げていきたいと考えています。
「テレビのニュース枠は1つなので、集中砲火的になりやすい」
進行・福田:会場からも、視聴者、読者の平均値を低く置きすぎていないかという指摘があり、まさにご指摘のとおりと感じています。TBS・井上:新聞とテレビで決定的に違う構造があると感じています。新聞の場合、一面、政治面、経済面、国際面、社会面というふうに分かれて、それぞれの人が担当しているわけですけれども、テレビの場合、ニュース枠は1つしかありません。30分の番組の中で、1つの話題を25分やったりすることもあるので、どうしても、集中砲火的になる傾向ができてしまう。
今回の報道のなかで、我々としては、イスラム国というのが、なぜこのイスラム社会のなかで生まれてきたのか、今どういう状態になっているのか、そこに暮らす人々の意識はどういったものかなどについて、できるだけ多面的な情報を伝える努力を行っています。
ただ、結果として、インパクトの強い映像を報じることによって、湯川遥菜さんと後藤健二さんを取り上げたニュースの印象が、圧倒的に強くなったと部分もあると推測しています。
今年の1月には、フランスの週刊新聞のシャルリー・エブドが襲撃された事件がありました。これは日本人がまったく絡んでいない事件だったのですが、我々は伝える必要があるという判断で、かなり大きく扱いました。
実際にこのニュースを流すと、視聴率が下がる場面がありました。ムハンマドの風刺画が、イスラム教徒にとって、どんな侮辱の意味を持つのか、欧米の社会とイスラムの関係など、日本人には理解が難しいポイントがあったのが、原因ではないかと考えています。また、難しい問題だからこそ説明に多くの時間を費やしてしまい、結果的に放映のハードルが上がってしまうことも、いつもの課題です。
だから、日本に関係のない国際ニュースや難しいテーマは流さないというのではなく、どうすれば視聴者にうまく届けられるのかを考えるのが、我々のこれからの仕事であると認識しています。
「テロ」という言葉を安易に使っていないか?
フリー・土井:ひとつ、問いかけたい問題があります。これは、石合さんにも、井上さんにもおうかがいしたいんですけれども、我々は、非常に安易に「テロ」という言葉を使いますが、「テロ」というのは、いったいどういうことなのか。私は、去年のイスラエルによるガザ攻撃のとき、一ヶ月間ガザにいました。F16戦闘機や近代兵器によって、2150人が殺されました。そのうち、1400人は一般人です。うち、子供は500人、女性は260人でした。みなさん、この状況を、なんと呼びますか? 一般住民ですよ。
これが「テロ」でなくてなんでしょうか。我々は、ISの行動を「テロ」と簡単に言うけど、国家によるテロ行為のことを、なぜ放置するんでしょうか。以前、朝日新聞では、ハマスのことを「過激派ハマス」と、ずっと呼んできました。では、イスラエルのやってることを、どうして「過激国家イスラエル」と呼ばないんでしょうか。どうして、「テロ」ということを、我々は安易にISとか、特定の集団だけに限定するんでしょうか。我々はもっと、真剣に議論するべきだと、私は思います。
進行・福田:テロリズムという「名付け」によってラベリングされる、ということですかね。構造の、フレームづけが、行われているということですね。これは、メディア研究でも、テロリズム研究でも、研究されているところなんですけれども、なかなかジャーナリズムの現場のみなさんと、意見交換ができないということなんですね。
議論は難しい部分がありますけれども、「テロリズム」もしくは「テロリスト」という表現をすることに関連して、たとえば「イスラム国」という呼称の問題など、言葉の使い方に関して、どういう問題があり、どういう考えがあるのか、お聞かせいただければ幸いです。
朝日新聞・石合:「テロ」という言葉ですけれども、これは、中東報道に関わった者からすると、やはり、常に「みずからに、問いかけられる言葉」なんですね。さっき、土井さんが説明していたように、国家による暴力は「テロ」ではないのか、アメリカに立ち向かう組織や反キリスト教的な組織のみが「過激派」なのか、「テロ」なのか、ということです。この問いかけについて、私は、報道のなかで「テロ」という言葉をできるだけ限定的に使いたいと考えている一人です。
土井さんの問いに対するキャッチボールのようになりますけれど、「組織ジャーナリズムのみが、イスラエルや国家による暴力を『テロ』と認めていない」という指摘であるとすれば、そうではないとお答えしたいです。この問題については、われわれ自身が読者といっしょに考えていかなければいけないということを、いろんなかたちで提示しています。
今、土井さんがお話しされたガザの人道状況についても、弊社の特派員が現地に入って、取材を行っています。この記者は「民間の家屋が多数失われている。また、民間人、子供、女性が死んでいる」という話を、現地から伝えてきました。
中東報道に関わった人間であれば、アメリカによる中東政策の理想と現実の乖離にだれもが直面していると思います。自由や民主主義の保護者としてアメリカが介入したという立場と、現地の状況があまりに違っていると。
それはおそらく、日本のメディアが、自ら現地に足を運んで取材を行うことのひとつの理由になるんじゃないかと思います。どういう組織に身を置こうとも、こういった問題を報じていく姿勢というのは、当然、必要なことなんじゃないかと考えています。
TBS・井上:今年1月、うちの中東駐在だった記者が、シリアに取材に入りました。そのとき、彼に伝えたのが「なぜそもそも、シリアや中東が、今の状況になってるのかというのを、一から伝える必要があるんではないか」ということでした。
すると、どうしても、欧米との関係に触れなきゃいけません。イスラム国の誕生については、誰が悪いのかというよりも、なぜこういうふうになったのかを紐解く必要があるんじゃないかと考えて、中東の目線で欧米がこれまで何をやって来たのかという点にも、ことあるごとに、触れようと努力はしています。
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「ネットメディア」との兼ね合いをどう考えるべきか?
進行・福田:「抑制的な映像報道が、結果的に、国民の受け止め方に、マイナスの影響を与えているのではないか。現実の厳しさから目をそらせることになっていないか」という側面も、ご指摘いただいています。それについて、井上さん、いかがお思いでしょうか。TBS・井上:重く受けとめたいと思います。テレビが報じなくても、ネットの社会では、首を切断された遺体の映像が、そのまま流通しているという現実があります。また、少年事件にそういったネット映像が影響を与えたケースもあるという指摘もあります。そういう状況を考えると、どこまで我々が抑制的にしなければいけないのかとという疑問があります。今後、ネットメディアとの兼ね合いというのをどう考えていくのか、本格的な議論をたくさんしてかなければいけないと思っています。
進行・福田:ありがとうございます。これ、テレビの問題だけじゃなくて、新聞報道も同じ問題があるかと思うんですけれども、石合さん、いかがでしょうか。
朝日新聞・石合:そうですね。まさに、新聞にもデジタル戦略というものがあります。そうすると、今ペンを持っている、私たち新聞記者も、取材で動画を撮るし、取材の過程で必要な動画の資料を、デジタルサイトにアップすることもあります。
この問題については、もう完全に、新聞もその当事者であるという思いです。私たちも日々、かなり議論している最中です。
視聴者に「不快感」を与えてはいけないのか?
フリー・土井:さきほどの井上さんのお話を聞いてて、とっても気になったことがひとつあります。それは、「視聴者に不快感を与えてはいけない」という言葉です。現場は、不快感どころじゃないわけでしょう。実際、日本でも、子供が誰かの首をちょん切った凶悪事件なんて起こっているわけでしょう。それを隠して、口当たりのいい伝え方をすること自体が、やっぱり、日本人が国際感覚を見失うひとつの大きな原因だと思います。死体は死体なんですよ。こんな残虐なことが起こってるということを、日本人はやっぱり知らなくてはいけないし、それをオブラートしてはいけない。残忍に切られた首根っこを映すことは、人権侵害にあたるという話もありましたが、人権というんだったら、もっと、伝えなきゃいけない人権があるはずです。
そういうレベルの議論じゃなくて、やっぱり、現場をきちんと伝えていく。石合さんがおっしゃったように、視聴者はそんなに馬鹿じゃないですよ。視聴者はそんなに子供じゃないですよ。視聴者はやっぱり、現場を、ほんとのことを知りたいんだと思いますよ。
現場の現状をきちっと日本人に認識してもらう。戦争とはこういうもんだ、いうことを、日本人は知らないから、戦争を美化したり正当化した見方が出てくるんです。戦争って残虐なものですよ。そういう現状を、私たち日本人がもっと、目の当たりにしなくちゃいけないと、私は思います(拍手がおこる)。
進行・福田:残酷な映像、残酷なメッセージがあふれているなかで、マスメディアとして、それをどういうふうに伝えるかというマスコミの倫理とモラルの側面もあるかと思います。社会的責任の部分ですね。今までなかなか、テレビ局とか新聞社の社を越えた議論というのは難しい問題がありました。こういう問題について、これから、どう捉えるべきなのか。いかがでしょうか。
朝日新聞・石合:まさに一筋縄ではいかない議論だということを重々承知した上で、申し上げます。メディアとテロの共生関係という言葉があります。ある組織のテロ行為を、メディアがニュースで報じることによって、結果的にある組織の主張がマスメディアを通じて「マス化」してしまい、多くの視聴者や読者に共有されてしまう状況です。
一方で、現実を直視すべきだという土井さんの指摘。これをどういうふうに線引きするかというのは、かんたんな答えではないと思います。
おそらく、日本のメディアは、遺体をうつさない、見せない、ということについて、ある種のコンセンサスを持って、いままでやってきました。
たとえば、欧米のメディアは、ニュースキャスターが「今からお見せする映像は、きわめて刺激の強い映像です」とアナウンスします。「ですから、子供さんがいる方は、見せないでください」と言って、視聴者に注意を与えつつ、放送を行う方法です。
これもひとつの対応方法じゃないかと思うんですけれども、日本ではそういうことは、今のところは、なされていない。新聞社はどうかと言われれば、新聞社もまったく同じで、そこは、遺体を出すことができない。
一例だけ、自分が関わった例があるのですが、イラクで、アメリカの兵士が惨殺されて、遺体がつるし上げられるという悲惨な事件が、イラク戦争の直後にありました。
アメリカの新聞は、そのつるし上げられた米兵の遺体を、一面トップで使ったんですね。私はそのとき、ワシントンに駐在していまして、これをどう伝えようかと思って検討しました。ギリギリの選択肢として行ったのが、遺体を掲載している米国紙の表紙を撮って、自社の新聞の写真として伝える、ということです。
つまり、「アメリカの新聞が、こういうふうに報じてる」と、その新聞の一面の写真を載せるという試みです。これも非常に妥協的と言われればそうなんですけれども、そういうことも試みたことがあります。
TBS・井上:「お茶の間」という言葉がありますが、テレビの視聴環境を示す重要な言葉です。あくまで、一般生活の中に入り込んでいるのがテレビなので、報道という観点とは別に、テレビというメディアの置かれた環境として、そこに遺体を映すのかどうかという議論があります。
議論を放棄しているとか、止めている訳ではないのですが、私たちは、他のメディアや研究者の方とこうした話し合いや議論を行う場が、意外と少なかった現実があります。だから、メディアのありかたがドメスティックな見方におちいらないように、今後はこういった機会を、より多く持ちたいと感じています。
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最後に進行役の福田教授は「戦争やテロリズムという問題が発生したときに、メディアが大本営発表的な、発表ジャーナリズム機関におちいらないためにも、政府や国家権力というモノに対して、平素から具体的な議論をしていく必要もあるんではないかと思っております」と述べた。
また、この日の白熱した議論に対し「まだ、解決すべき課題がたくさん残っていますし、答えはまだ出ませんけれども、今日のこの場が議論のスタートラインになれば、非常に嬉しい」と締めくくった。