今から半世紀前の沖縄はアメリカ統治下にあったため、自動車は左ハンドルがメインでした。そのためパトカーもアメリカ製が多用されていたそう。日本警察とは異なる外観の琉球警察パトカーを見てみます。

救急車もアメ車? 琉球警察とは

 いまから50年前の1972(昭和47)年5月15日、沖縄は本土復帰し、新生沖縄県として歩み出しました。それまでの沖縄は、本土から切り離され、アメリカの統治下に置かれ続けました。そのため、沖縄はアメリカ本土と同様、通貨はドル建てで、道路は右側通行でした。

 当時の沖縄は治安維持にあたる警察も独特で、アメリカの警察制度を参考にした「琉球警察」とよばれる独自組織を設け、日本本土の警察とは異なり救急業務(初期は消防業務も)も担うなどしていました。


琉球警察のアメリカ製パトカー(画像:沖縄県公文書館)。

 警察の維持運営に関する諸経費は琉球政府が基本的に負担していましたが、アメリカの統治機構として、琉球政府の上位にあった琉球列島米国民政府(USCAR)も経費を補助していたそうで、その割合は約4分の1にも上ったといいます。

 ゆえに、パトカーや消防車両などをアメリカ政府が供与することもあったようで、たとえば本土復帰3年前の1969(昭和44)年3月には琉球列島米国民政府の資金4万ドルで購入されたパトカー6台および白バイ14台が、琉球警察本部に提供されています。

 ほかにも当時の資料などを見てみると、アメリカ製のステーションワゴン(2ドアワゴン)タイプの救急車が警察局に配備されていたことが確認できます。

50年前から漢字と英語を併記

 このように、当時の沖縄ではアメリカ製の公用車が数多く用いられており、パトカーや救急車などの外観もまた独特でした。

 たとえばパトカーは、日本本土では、すでに1955(昭和30)年にはボディの下半分が黒、上半分が白というツートン塗装で全国的に統一され、パトカーとして共通化が図られていたのに対し、琉球警察のものは、アメリカ本土のパトカーに見られるような、黒主体でルーフ部分のみ白というパターンが多く用いられていたようです。

 加えて、サイドミラーについては早い段階でドア取り付けタイプが普及していたほか、車種によってはボンネット上部やピラー部分にサーチライト(探照灯)が設置されたものまで。赤色灯やスピーカー形状など含め、それらはアメリカ本土のパトカーがそのまま使えたからこその特徴といえるのかもしれません。


琉球警察の救急車(画像:沖縄県公文書館)。

 なお、車体側面の所属表記は英語と日本語(漢字)の併記で、乗務する警察官の服装も日本警察に近いものであったことから、一種独特の雰囲気を醸し出しています。

 ちなみに、白バイは比較的早い段階から日本製が多用されていたようで、1962(昭和37)年4月の交通安全週間パレードの写真などではアメリカ製パトカーと日本製白バイが一緒に走る姿を見ることができます。

 琉球警察は、1972(昭和47)年5月15日の本土復帰に伴う新生沖縄県の発足により、新たに組織された沖縄県警察に改組され、消滅しています。そして1978(昭和53)年7月30日、右側通行から左側通行へ交通方法変更により、左ハンドル車の必要性もなくなったことで、ほぼアメリカ製パトカーは姿を消しました。

 いまや沖縄県内をアメリカ製パトカーが走り回っていたことは、ほとんど知られていませんが、振り返ってみると、ある意味アメリカ統治の象徴でもあったと言えるのかもしれません。

※一部修正しました(2022年5月21日9時30分)