2020年に菊の湯を継いだ菊地徹さん。菊のタイル絵は菊の湯のシンボルだ。浴室にはほとんど手を入れていない(筆者撮影)

銭湯、空き家、商店街から地域、社会、政治に至るまで日本のあらゆる課題の根底に1つ、共通する問題がある。継承だ。次の世代にうまくつなげられないために、銭湯は廃業、空き家は増加、商店街、地域は寂れ、世代間には分断が生じる……。

特にハードルになっているのは、店主の「子どもに継がせたい」「子ども以外には継がせたくない」など家族に継がせたい気持ちが強いこと。銭湯の場合、最近は「継ぎたい」「経営したい」という若い層が増えているものの、たいていの場合は前世代に「他人には任せられない」と拒否されて終わる。

だが、長野県松本市に赤の他人、しかも、銭湯好きでもなかった人が継承し、コロナ禍にあっても着実に客を増やしている銭湯がある。

3時前には地元の人が集まってくる

その銭湯は松本駅から歩いて10分、あがたの森通り沿いにある「菊の湯」。近くにはまつもと市民芸術館や松本市美術館などがあり、純然たる住宅地というよりは住宅も混在する市街地にある。100年ほど前に創業した菊の湯は、2020年9月末までは3代目の宮坂さんが営業を続けていた。駅から最も近いことから地元のお客さんに加え、登山客なども来訪するため、2階にはリュックを置くロッカーなども設えられていた。

菊の湯を継承したのは4車線ある通りを挟んで向かいにある、カフェ好きには有名なブックカフェ「栞日(しおりび)」を経営する菊地徹さんだ。静岡県出身で茨城県の大学に進学後、松本にやって来たのは2010年のこと。学生時代のスターバックスでのアルバイトで同社が掲げる「サードプレイス」という考え方に感銘を受け、自らもそうした場を作りたいと松本近辺で修業したことが契機となった。

2013年に個人事業として栞日をオープン、その後2016年に菊の湯の向かいに移転しており、その頃から道を挟んで向かいにある菊の湯の存在は目に入っていた。

当時の菊の湯のオープンは午後3時。春、夏にはその30分ほど前から地元のおじいちゃん、おばあちゃんたちがどこからともなく集まり、開店を待ちながら世間話をしている姿が見るとはなしに見えており、いい風景だと思っていたという。


あがたの森通りを挟んで右に菊の湯、左側の高橋ラジオ商会という看板がブックカフェ栞日(筆者撮影)

といっても菊地さんが銭湯好きだったわけではない。シャワーで育った世代で湯船にはほとんど浸からず、旅先で見かけて行ってみたことがある、あとは温泉、スーパー銭湯くらいだったとか。数は少ないが、いくつかある銭湯の親族以外への継承事例のほとんどは、銭湯好きによって継承されていることを考えると、非常に珍しい例なのである。

「銭湯を閉じることにした」

その菊地さんに「相談に乗って欲しいことがある」というメールが送られてきたのは2020年5月。宮坂さんは以前に一度栞日を訪れており、その後、2018年に菊地さんが栞日のマンスリーレターのために宮坂さんを取材するという縁があった。


栞日店内。この店を目的に松本を訪れる人も多いが、コロナ禍で観光客に頼りすぎてはいけないと猛省したと菊地さん(筆者撮影)

「お目にかかってみると、銭湯を閉じることにした、でも、取り壊して更地にするのではなく、建物を残して何か違う用途で使えないかと考えており、相談に乗ってもらえないか、という話でした。栞日は以前の電気店の看板、外装をそのままの状態で使っているので、そうした使い方ができないかと思われたのでしょう」と菊地さん。

土地、建物は所有しており、水は湧水を利用、家族経営で人件費はかかっておらず、日常の大きな経費はガス代のみ。とりあえず目の前の経営は続けていけるものの、新規の客が増えるわけではなく、設備の修理や更新を考えると先行きは明るくはない。いつか損益分岐点を割る前に決断しなくてはと長年悩み続けてきたというのだ。

それに対して菊地さんは即答した。「自分がやるから銭湯として続けましょう」。その時、菊地さんの頭の中にあったのは開業前の、おじいちゃん、おばあちゃんが集まる菊の湯の前ののどかな風景だった。

「市内には他にも銭湯はあります。だから、ここがなくなってもヨソに行く手はある。でも、ここに来ている人たちには、ここが自分にとっての風呂なんだろう、一人暮らしのお年寄りにはここだけが外出の機会、社会のすべてという人もいるだろう、だとしたら、ここがなくなるのはよくない。一瞬のうちにそんなことを思いました」。

宮坂さんは驚いた。当然だ。収益の上がっている、将来性のある仕事ならいざ知らず、現在はなんとかやっていけているものの、顧客の大半は高齢者で先が見えない仕事を家族でもない他人が継ぐ。建物転用のアイデアを期待していたのに、そんな思いもよらぬ答えが返ってくるとは思わなかったのだ。   

菊地さんの活動に注目していた

「いやいや、続けるのは難しい。きつくて儲からない仕事を継いでもらうわけにはいかない」という宮坂さんに、菊地さんは収支計画書を作って説得をした。

リノベーションをしてデザイン、場の雰囲気を変えて子育て世代の若い層を新規に呼び込む、化粧水その他を用意して手ぶらで利用できるようにする、オリジナルグッズを作る、イベントやフェアをするーー。現在の菊の湯で行われているあの手この手を盛り込み、問答を繰り返した。そのうちに宮坂さんが折れ、8月には菊地さんが銭湯を継承することが決まった。

と、ここまでの話を聞いて不思議に思ったのは、そんなに大事な相談を2度ほどしか会ったことがない、この街で店を出して10年と経っていない菊地さんにするのはずいぶん唐突ではないかということ。聞いてみると宮坂さんは最初にカフェを出して以来、ずっと菊地さんの活動に注目をしてきたそうだ。

菊地さんは、現在地に移転後、旧店舗の2階から上を松本への移住希望者が中長期滞在できる宿「栞日INN」として改装して運営し、2019年には蔵を改装したギャラリー「栞日分室」をオープン。また2014年から開催している木崎湖畔でのイベント「ALPS BOOK CAMP」はいまや長野の夏の風物詩に(2020年は中止)と開業以来、活動は年々広がっており、多くの人たちに支持されている。

宮坂さんは菊地さんのインスタグラムやフェイスブックなどSNSの発信をフォロー。栞日INN開業時のクラウドファンディングを支援してきており、この人ならきっといいアイデアを出してくれると思って相談したのだ。

それが一転、銭湯継承ということになり、そこからは急展開である。

まずは常連さんや、地域の人たちに報告をしようと町内の回覧板で報告したほか、銭湯内への掲示を出した。8月にはSNSでも発表し、番台をお願いする人を募集。9月からは改修費用を賄うためクラウドファンディングもスタートした。常連さんがいる場でもあり、改装のための休業は短期に、費用を抑えてやる必要があり、わずか2週間で行われることになった。

幸い、クラウドファンディングでは1カ月ほどで500万円余が集まり、新生菊の湯は2020年10月15日に無事リニューアルオープンを迎える。

常連さんに加え、若い世代が来るように

それから1年余り。菊地さんはリノベーションによって雰囲気が変わり、昔からの常連さんが離れて行ってしまうのではないかと危惧したそうだが、ほとんどの常連さんは相変わらず通ってきている。そこに新たに20代、30代の若い利用客が加わり、V字回復とまではいかないものの、利用者数は緩やかな右肩上がりが続いている。


改装後のロビーと番台。番台を挟んで男湯、女湯の入り口を配するようにした。ロビーではオリジナルグッズや地元のアイスクリームなども売られている(筆者撮影)

「10年後、20年後を考えると利用客を代替わりさせていかなければならないと子育て世代を呼びこみたいと思っています。楽観的かもしれませんが、子どもの頃の銭湯体験が銭湯を利用する大人を育てるのではないかと考えています」。

また、銭湯という、家族に継承されることが多く、存続しにくい業種が他人の、経験のない、関心の薄かった人に継承され、成功しているということを広く伝えたいとも考えている。

この成功にはいくつかの要因がある。大きいのは事業を渡す側の問題だ。たいていはいずれ誰かに継承をと考えながらもなかなか動けず、体力、判断力が落ちてから慌てて動こうとするが、宮坂さんは50代。まだまだ動けるうちに決断しており、周囲からの反対もなかった。

一度廃業してからの継承は難しいが、営業しているうちの相談であればスムーズに引き継げる。将来の継承を考えているなら、早めに動いたほうがいいわけだ。


クラウドファンディングで支援した人たちの広告が浴室や、脱衣所などに掲げられている(筆者撮影)

コーヒーと銭湯の「共通点」

また、宮坂さんが、菊地さんが銭湯に感じた価値や将来を理解し、それを寛容に認めることができたという点も大きい。

その価値とは1杯のコーヒーが人をリセットするように、銭湯もまた人をリセットする場であり、「日常からはぐれることができる空間」であるということ。菊地さんはブックカフェや銭湯にサードプレイスとして共通するものを見ており、どんな人も裸でフラットになれる銭湯のほうがより多様性があり、地域に必要なものと考えている。


菊の湯に置かれているお客様ノートの落書き。「菊の湯はのびたくん。」言いえて妙だ(筆者撮影)

だから継承に手を挙げたわけだが、菊地さんが見ている価値を理解できない前世代もおり、その人たちには菊地さんに見えている将来も見えない。それが「銭湯には未来がない」「廃業だ」という判断につながる。だが、そう判断を急ぐ前に、「他人に託すという選択肢があることを知ってもらえれば」と菊地さんは言う。

地方にはこの1軒がなくなったら「銭湯ゼロ」になるという地域が多く存在しており、地域における銭湯の役割は大きい。菊の湯の成功を伝えることで廃業しようとする経営者の心変わりを促せたら。菊地さんの願いが広く伝わることを祈りたい。