『SASUKE』総合演出・乾雅人氏、タレントも一般出場者にリスペクト「とても平等な世界」
●出場者全員に挑戦映像を編集してプレゼント
注目を集めるテレビ番組のディレクター、プロデューサー、放送作家、脚本家たちを、プロフェッショナルとしての尊敬の念を込めて“テレビ屋”と呼び、作り手の素顔を通して、番組の面白さを探っていく連載インタビュー「テレビ屋の声」。今回の“テレビ屋”は、きょう28日(18:00〜)に放送されるTBS系特番「『SASUKE2021』〜NINJA WARRIOR〜」総合演出の乾雅人氏だ。
放送でカットされる出場者にそれぞれの挑戦映像をプレゼントしていたなど、一般参加者に喜んでもらうための取り組みを一番に考えているという同氏。その背景には、テレビマンとして最初に演出を担当した『クイズ100人に聞きました』(TBS)での経験が生きているのだという――。
○■「最高だね」って言ってもらえることが大事
――当連載に前回登場したディレクターの長沼昭悟さんが、乾さんについて「“テレビ屋の鑑”だと思うんですけど、『SASUKE』では出場者全員のVTRを作ってプレゼントしてあげるというのをやっていたんです。一般の方であっても、演者に対するリスペクトが素晴らしいです」とおっしゃっていました。
『SASUKE』ってたくさんの出場者がいらっしゃるので、編集でカットになっちゃう方が結構いるんですよ。そこで、「ファーストステージで脱落してしまった人を顔写真だけ並べて一覧で出すのはどうでしょう?」ってプロデューサーに提案したんですけど、カットになるのも了承済みで来てもらってるので、そこまでする必要はないだろうという判断になったんですね。でも、始まった当時はSNSもないので、放送でカットされたら家族や友達に「俺『SASUKE』出たんだぞ」って自慢しにくいじゃないですか。それが申し訳なくて。
私は関口宏さんが司会をやっていた『クイズ100人に聞きました』(TBS)で3年半くらい演出をやっていたんですけど、あの番組は出場者の方が家族でいらっしゃって、オーディションを毎週のようにやってたんですね。そこでプロデューサーの方に言われたのが、「オーディションに来た方もお客さんで番組を支えてくれているんだ」ということなんです。例えば、番組で不快な思いをすると徐々に広まっていって、それがボディーブローのように効いて視聴率が下がる原因にもなっていく。だから、オーディションや予選会から、皆さんを全力で楽しませる。番組に出ないところから「あの番組めちゃくちゃ楽しかったよ」「最高だね」って言ってもらえることが大事なんだというのを教えてもらって、刷り込まれていたんです。
それで『SASUKE』をやるときに、カットになった人全員に「ごめんなさい」って電話しても「俺カットなんだ…」ってなっちゃうので、カットになってしまった人たちの挑戦の部分を切り抜いて編集して、1人1人に放送当日に届くようにVHSテープで送ったんです。「これはディレクターとアシスタントディレクターが勝手にやってることなんで、番組にお礼の手紙などは書かなくても大丈夫です」と一筆添えて。お礼のハガキがTBSに届いちゃうと、「勝手に何やってるの?」って話になるので、こっちが自腹で宅急便で送るというのを始めたんですよ。
――だいたい何人分くらい作業されていたんですか?
四十数人くらいがカットになってしまうので、その分ですね。97年からその作業をこっそりやらせていただいて、2004年に番組を離れることになるんですけど、2012年にもう一度担当することになったときに、プロデューサーに「実はビデオをプレゼントするのをやってたんですけど、さすがに自腹もきついので、番組の予算でやってくれませんか?」と相談したら、「そんなことやってたんですか! じゃあ、番組予算でちゃんとやりましょう」ということで再びやらせてもらうことになって。今はParaviで全員分が配信されるようになったので、2年前までは放送当日にDVDが届くようにやってました。
――届いた人たちはうれしかったでしょうね!
テレビって、ちょっと乱暴なところもあるじゃないですか。「こっちは収録してやったんだ」「そっちが応募してきたんだからこっちの裁量でやります」って、テレビ側のロジックであって、出場していただいた方々というのは本当に楽しみに来てくれるわけですよ。
――テレビに出るって一大イベントですからね。
どこで落下しようと何しようと、「とにかく俺がSASUKEに出てきたんだ」ってみんなに言いたいし、その証が欲しいじゃないですか。出場してくれた皆さんにとっては一生残るものですからね。
○■エンドロールに全員の名前を出すことの意味
――そういった一般の出場者への気配りに加え、長沼さんにもう1つ聞いたのは、乾さんの手がける番組はスタッフの名前が流れるエンドロールが全部ゆっくりであるということです。エンドロールが流れると視聴率が下がると言われる中で、最後まで見てもらえるように作ればいいんだという考えを持って、スタッフの皆さんへの気配りも素晴らしいとおっしゃっていました。
これも『100人に聞きました』に遡るんですけど、僕、26歳で演出になったんですね。あの当時、キー局のゴールデンタイムで局制作の番組で僕みたいな制作会社の人間が演出になるというのは稀なケースで、しかも歴史のある番組なので、「俺やったぞ!」ってちょっと調子に乗ってたんですよ(笑)。で、演出になって初めての収録が終わって、そのまま編集に入ったら、編集を手伝ってくれる大ベテランで女性のタイムキーパーさんが、「ここはいらないから切りましょう」「ここは間を詰めていいわよ」ってどんどんカットしていこうと提案してくるんです。僕が「この1〜2秒は残していいです」って言うのに、「どんどん切りましょう」ってなっていって、最後のエンディングは演者さんたちが「また来週〜」って手を振るところでエンドロールが流れるんですけど、ずいぶんスピードがゆっくりなんですよ。
それで「ちょっとエンディング長すぎませんか?」って言ったら、タイムキーパーさんが「あなたの名前が演出として初めて載るのよ。1秒でもゆっくりあなたの名前が見えたほうがいいじゃない」っておっしゃったんですよ。なるほど、そのためにどんどん切って時間を稼いでくれてたんだなと知ったんです。
――素敵な話!
その女性の他に、カメラマンさんや照明さん、放送作家さんたちも、僕が局の人間じゃないのに演出になったのを喜んでくれて、「何とかあいつが失敗しないように」という気持ちで、僕の知らないところでたくさんの方が助けてくれていたことを、後から知ったんです。そういうのを聞いて、「自分の実力で演出になったんだと思ってたけど、たくさんの人たちのおかげで、今このイスに座ってるんだな」というのを体感したのが、エンドロールをゆっくり流す理由なんです。
僕、TBSさんで『ドラフト緊急生特番!お母さんありがとう』という番組を12年くらいさせていただいてるんですけど、これはスポーツ局の野球中継の担当がコアのスタッフになって作ってるんですね。野球中継って最後に「製作著作 TBS」って出るだけで、ディレクターもアシスタントディレクターも誰の名前も出ないじゃないですか。でも、このスタッフだって地元のお母さんが「うちの息子が野球中継やってるんだ」という証を一度も見られない中で、年に1回ドラフト会議の番組だけ、名前が出るタイミングがあるんです。だったら1秒でも長く名前を出して、「こんないい番組にうちの息子の名前が出た!」と思ってほしい。あの番組は生放送なので、エンディングが短くなっちゃう可能性があるんですけど、そのために1分半だけは絶対に確保する。タイムキーパーさんが「押してるからエンディング切ってもいい」と言っても絶対ダメだというのを伝えて番組を作ってきました。
――そうした愛がエンドロールに表れているんですね。
あと、2005年にTBSの50周年記念で『DOORS』という特番があったんです。幕張メッセにセットを作るのに、近くのホテルに美術さんの部屋を用意してたんですけど、スケジュールがタイトになってきて、会場の床で寝てるような美術さんが山のようにいたんですよ。1カ月くらい幕張メッセに泊まり込んで家に帰ってこない理由が、こんなすごい番組に一生懸命携わってるからだというのを知ってもらいたくて、全スタッフ300人くらいいたんですけど、エンドロールで全員の名前を出したんです。
プロデューサーの海本泰さん(現・TBSテレビ取締役)に「エンディングで全員の名前出したいです」って言ったら、「いいじゃないか。そこで視聴率が下がるような番組を僕たちは作るんですか? その余韻まで含めた素晴らしいものを作りましょう」とおっしゃっていただいて、「この人とは一生一緒にやれるな」と思いましたね。今は、エンドロールが流れると数字が下がるということで、文字が見えないスピードで流しちゃうという考え方もあると思うんですけど、最後の1秒まで面白くご覧いただける番組にさえすれば、そこを急ぐ必要はないというのを、信念として持っているんです。
――『DOORS』のエンドロールは、どのような画面構成にしたのですか?
MCの福澤朗さんとナインティナインさんがセットをバックにエンディングトークをしているのですが、その様子を左上に小さく入れて、スタッフ全員の名前を映画のエンドロールみたいに3列で流していったんです。(世帯視聴率)20%を超えるめちゃくちゃいい数字で、結果としてその時間も下がることはなかったですね。このように、何を大事にするかというのをちゃんと共有できるプロデューサーさんやディレクターさんと、たまたま運が良くてご一緒できたんだなと思います。
●アトラクションを自作するプレイヤーとの勝負
――『SASUKE』のお話を伺っていきたいのですが、緑山スタジオの大仕掛けのセットということで、TBSさんで以前放送されていた『風雲!たけし城』の流れみたいなものがあったのですか?
その流れではなくて、場所が緑山にしかなかったんです(笑)。最初は『筋肉番付』の2時間スペシャルの1コーナーとしてやったのですが、初回は浦安にあった東京ベイNKホールの中でやりました。NKホールでの一番の問題は、失敗して落ちる池が作れないということ。それで1回目の数字がそこそこ良かったので、2回目をやろうとなって、穴を自由に掘れる場所ということで、緑山スタジオの上段広場というところでオープンのセットになったという形です。
――最初の頃と現在を比べると、セットの規模もだいぶ大きくなっていますよね。
プロデューサーに「忍者みたいなセットを作ってほしい」と言われて、忍者は乗り物に乗らないし、飛んだり跳ねたりするようなものだなと思ってセット開発に入ったんですけど、第1回のNKホールは3500万円くらいのセットでした。それから緑山の屋外になると、穴掘ったり、照明のためのタワーも作らなきゃいけなかったり、お金がかかる部分が増えて、理想としていたものよりはだいぶスケールが小さい感じで始まったんですけど、徐々にグレードアップしていって、今はセット代で言うと、最初の倍のお金はかかってますね。
――セットがだんだんアップグレードしていくのは、プレイヤーたちが攻略してくることへの対策が要因としては大きいのですか?
見栄えとは別に、そういう部分がありますね。2000年くらいのときに、山田勝己さんが最初に自作のセットを作ったんですけど、そこから皆さんが苦手なアトラクションのエリアを自作して練習するというのを始めて、今は日本各地にそういう方がいらっしゃって、そこにタレントさんや他のプレイヤーの方が練習しに行くいう環境になったんです。だから、皆さんが作りにくいモーター仕掛けのようなものを取り入れるというのが、自然と始まっていきました。
――プレイヤーたちとの勝負が、そうしたところでもあるわけですね。
前回まであったセットを自作して100回練習したら100回ともできるようになったけど、それに対して緑山の本物のセットがちょっとだけバージョンアップすると、落ちてもらえるように作るという感じですね。
――新しいセットを作るのに、どれくらいの時期から準備されているのですか?
今年の収録で言うと、去年のOA前の12月には、美術さんに「こういうものを作りたい」とお願いしています。毎回収録中は、「これは来年どうするかな…」って考えながら見ているので、その考えが温かいうちに美術さんと話をして、ご提案させていただくというのが多いですね。それで、次の収録の2〜3カ月前くらいに業者さんの工場で作ってみたのを動画で送ってもらって見て、「もうちょっとこういうふうにしたほうがいいんじゃないか」といった話をして、実際にセットを組んでテストするのは収録の3〜4週くらい前ですね。
――そうやって毎年ブラッシュアップしているんですね。
ちょっとずつですが、何かしらが変わっていく感じです。ドラスティックに変えてしまうと、最初のステージで落ちすぎちゃって、「次のステージは5人だけです」みたいなことになっちゃうと、5時間番組の尺が大変なことになってしまうので、トータルのゲームバランスを今はすごく気にするようになりました。昔は2時間スペシャルだったので、そんなことは無視して「ここで全滅しちゃってもいいや」と思い切って作っていたんですけどね(笑)。今はそういうことができないので、選手たちがどういうセットを作って練習しているのかというのをリサーチして、これくらいだったらクリアできるんじゃないかと考えてセットを作るようになってますね。
○■山田勝己の天才さにいろんな人が気づいた
――いろんなプレイヤーがいる中で、先ほど名前が挙がった「ミスターSASUKE」こと山田勝己さんはやはり印象に残ると思うのですが、最初の出会いから強烈でしたか?
山田さんとは『SASUKE』からではなく、『筋肉番付』で3分間腕立て伏せで対決する企画があって、そのオーディションにいらっしゃったときに出会ったんですよ。当時から真っ黒に日焼けして髪の毛オールバックで今とあんまり変わらない感じで、見た目にインパクトがあるので「筋骨隆々のムキムキがきたぞ」と思ってたんですけど、腕立て伏せのやり方がちょっとインチキだったんですよ(笑)。手を広げてひじを曲げた状態であごを動かすというやり方で、担当プロデューサーが「あの人はインチキだから不合格だ」って僕に言ったんです。でも、見た目が面白くてキャラクターがいいので、山田さんに「収録までの間にひじが伸びるスタイルに変えてきてほしい」とお願いしたら、「分かりました」と言ってくれて。あの人はとても繊細で、「雰囲気に飲まれたくないので、どんな会場になってるのかなと思って」と、収録現場に下見に来るような人なんです。それが96年だったんですけど、腕立て伏せも3位という好成績を残して、キャラクターが付いていて実況の古舘(伊知郎)さんも気に入っていたので、翌年に始まる『SASUKE』にも参加してもらったんです。
――最初からスター性を持って参加していたんですね。
でも、こちらから何をお願いしたわけでもなく、山田さんがどんどんのめり込んでいって(笑)。あの人は鉄工所にお勤めでいらっしゃったので、両手両足で両側の壁に突っ張って前に進む「スパイダーウォーク」というエリアをベニヤのパネルで作ったのが、自作セットの最初ですね。そこから、レッカー車を借りて命綱なしで綱登りの練習を始めたりして、徐々に家族が心配するようになっていくようになっていった感じです。
――『SASUKE』ではプレイヤー人たちを追う人間ドラマも描かれていますが、そのきっかけはやはり山田さんだったのですか?
当然、山田さんがきっかけという部分もあるんですけど、フィールドアスレチックを100人やってるのを延々放送して、いろんな落ち方のバリエーションを見せても、さすがに飽きてしまうだろうと思って、どこかに浪花節コーナーみたいなものを出していかないとなかなか難しいぞというのは考えていたんです。そしたら、たまたま山田勝己さんという方が出演されていて、その他にも99年に北海道の元毛ガニ漁師の秋山和彦さんが出られたんです。この方も、山田さんと同じ腕立て伏せ企画のオーディションにいらっしゃって、そのときにご自身から弱視だということを聞いたんですが、そのことは黙っててほしいと言われて、約束したんですね。
その後、『SASUKE』に出場されるようになって、第4回大会で完全制覇したんですよ。そこで、本人に「これまで延べ400人が挑戦して誰もできなかったことを、弱視の君が達成したんだから、これは公表するときなんじゃないか」と話したら、世の中の同じようなご病気の方や、ハンデを抱えている人たちに勇気を与えることもできるはずだということを理解してもらい、その後のスタジオ収録のときに、そのことを公表したこともありました。山田さん以外にも、こういう方がいらっしゃるんだ、こういうストーリーがあるんだというのを、少しずつ織り交ぜていくというのを始めたのが、98〜99年以降で、単なるフィールドアスレチックの番組が人間ドラマになっていって、厚みが増していった感じですね。
――山田さんは近年、『水曜日のダウンタウン』でもご活躍されています。
あの人は天才ですから(笑)。僕らが「ここでダメになるんじゃないか?」って思っていたところと全然違うことを始めるような人なので、全然読めなかったんですよね。天才ってある種天然だったりするじゃないですか。彼も狙って面白くしようとしてるわけじゃなくて、全力で言われたとおりにやった結果が『水曜日のダウンタウン』だったりすると思うので、彼の天才さにいろんな人が気づいて、面白がってくれているのはありがたいなという感じです。
――『SASUKE』の外に出ていくことによって、新たなファンを獲得して返ってくるというのもありますよね。
実はマイナス面もあるかなと思ったんですよ。バラエティに出てカラオケ歌ったりして「こんなことしないでいいのに…」と思ったりしたですけど、『水曜日のダウンタウン』で山田さんを見て、こんなに情熱があってもらい泣きできるキャラクターなんだと興味を持って『SASUKE』を見たら、また他のキャラクターを気に入ってくれるなんてもことも結構多いので、ありがたいですよね。
――『SASUKE』のYouTubeチャンネルを立ち上げたことで面が広がり、いろいろなプレイヤーを紹介できるようになったということもありますか?
そうですね。年に1回の特番になると、収録から収録までの間が結構空いてしまうので、YouTubeのロケで「実はあの人とあの人が一緒に練習を始めたんだ」ということを知るのも増えてきて、出場者との関係性が密になりました。番組が始まったばかりの頃は、「最近どうしてます?」ってたまに電話で聞くくらいだったので、「実は離婚したんです」とか「子供が生まれたんです」なんて情報はなかなか教えてもらえないじゃないですか。こうして距離が近くなったのはいいですね。
――それにしても、『SASUKE』のYouTubeチャンネルは、他の番組に比べても再生回数が安定して高いなと思います。海外からの視聴も多いのですか?
海外の方もかなり見てくれているようです。『SASUKE』って海外にマニアがいて、漁師の長野誠さんなんて絶大な支持者から「ミスターナガノ」って呼ばれてるくらいなので、そういう方が長野さんの過去の挑戦をYouTubeで見てくださることも多いみたいです。
●海外への普及「こんなに楽しい仕事はない」
――今や海外でも広く見られている番組ですが、最初から海外展開というのは想定していたのですか?
海外進出とかを目論んで作るというのは一切なかったですね。アメリカのケースで言うと、あの国の番組ってこういうドキュメントでもコンテストでも、必ず勝った人と負けた人がいるというのがベースにないとダメだというんです。でも『SASUKE』って全員負けるということが多い番組だし、4時間の番組を放送するというのもあり得ないことなので、海外に売るには非常にマイナス要素が多いと言われていました。そんな中で、最初にアメリカのG4というケーブルネットワークが『Ninja Warrior』というタイトルにして1本30分の細切れにして放送したら爆発的なヒットになったんです。
――そこからどんどん広がって、これまでに165以上の国と地域で放送されています。現地版が制作されている国には、乾さんも行ってアドバイスされているんですよね。
アメリカの現地版はレギュラー放送なので、セットをツアートラックに載せて各都市を回るんですけど、ヨーロッパで制作するときは、欧州制作用の別セットを国境を越えて移動させ、各国で組み立てるんですね。一方、アジアの国では鉄骨からクッション材から全部自分の国で賄うので、TBSの美術さんと一緒にコンサル業務としてご協力しに行かせていただく感じです。一応日当は頂いてるんですけど、日本の『SASUKE』の緑山のアルバイトより安い金額でやってます(笑)
――それでも現地に行ってアドバイスされるのは、『SASUKE』を少しでも多くの国に広げたいという思いからですか?
広げたいという思いとはちょっと違うんです。例えば、ベトナムで『SASUKE』をやることになると、現地のプロデューサーとかディレクターが緑山の収録を見学するんですけど、現地の美術さんやカメラマンさんは編集された映像しか見ないわけですよね。その方たちがいざセットの建て込みを始めると、“テレビショーのセット”として見るので、細かい部分が分からないんですよ。そこで、僕らが「ここに出てる木材の角は丸くしなきゃいけない」とか「ここにクッション材が必要」とか「じゅうたんはホチキスで止めないで全部のり付けで」とか事細かに説明するんですけど、やっぱり最初は「テレビのセットだろ」と言って理解できないんです。そんな状況で軍の方とか体操の経験者がテストをやって転んだり落ちたりするのを見ると、どこが危ないのかが分かって、「そうか、イヌイが言ってたのはこれだったのか」って安全に対して理解が深まるんです。
そしていざ本番の収録が始まると、今まで日本版やアメリカ版で見てた『SASUKE』『Ninja Warrior』を、自分の国の人たちがやって、どんどん転げ落ちて失敗するのを目の当たりにして、みんなゲラゲラ笑うんです。その面白さが共有できたときの皆さんの顔が本当に素晴らしくて。日本で生まれたものが海外に行って、その国の方がものすごく楽しんでいるのを見られるって、こんなに楽しい仕事はないんですよ。
――プライスレスの喜びですね。ただ、新しく現地版を作り始める国がだんだん限られてきてしまうと、その感覚が味わえなくなって寂しいのでは?
アトラクションを新しくするというタイミングでもコンサルに行くんです。最初から今の日本と同じアトラクションを持っていくとレベルが高くて難しすぎるので、現地版がどんどん成長していくのにつれて、その国に合ったものを持っていきます。でも、現地の人はやっぱり最新のバージョンをやりたいんですよ。一昨年、モンゴルに行ったら「日本の逆流するプールのエリアをやりたい」ってチーフディレクターが言い出して、地面に穴掘ってプールを作ったんですけど、いざテストしたら、モンゴルの人って海がないし、川も激流だから、みんな泳げないんです(笑)。それでも「どうしてもやりたい」と言うんで、水流を弱くしてみたり。
――何で泳げないのにやりたがったんですかね(笑)
何か刺さったみたいなんですよね(笑)。あと、ベトナムに行ったときに、日本でトランポリンを跳んで掴まるというエリアがあるんですけど、それをやりたいんだと。ところが現地に行ったら、トイザらスで売ってるようなおもちゃのトランポリンしかなくて、実際に跳んでみたら網が床についちゃって(笑)。じゃあかさ上げすればいいんじゃないかとなって、木材で脚を足したら今度はその木が折れちゃって、結局日本のトランポリンを空輸して使ったというのもありました。
―― 一方で、海外版のアトラクションを日本に逆輸入するということもありますよね。
アメリカで作ったものを日本バージョンに改良させてもらって導入することが、ここ数年で増えてきましたね。アメリカの『Ninja Warrior』って国民性なんでしょうけど、飛び移るというのが好きなんですよ。だから日本版と違って最初のステージから空中戦がすごく多くて進化しているんです。日本では、重りの入った箱を押しながら進む「タックル」というエリアがあるんですけど、アメリカでは全く考えられないんです。あれは、その後に待ってる「そり立つ壁」に挑むのに、重いものを押して脚にどれくらいダメージが効いてるのかをイマジネーションするための7秒くらいの時間なんですけど、アメリカでは「7秒間何も起きないじゃないか」って耐えられない。とにかく、どんどん飛び移る、ぶら下がるというのがないと飽きちゃうんですよね。
――そこが進化してバリエーションがいっぱいあるんですね。
アメリカは番組オリジナルグッズが幅広い層に爆発的な人気があって、アパレルはもちろん、トレーニンググッズやゲームまで、200種類以上も関連商品があるんですよ。アメリカのマーケットはすごいなと思いますね。
○■視聴者参加番組が衰退する中での自負
――かたや日本は『パネルクイズ アタック25』(ABCテレビ)が長年の歴史に幕を下ろしたのを象徴に、視聴者参加番組が減ってきています。その中で『SASUKE』の存在はとても貴重だと思うのですが、その自負というはありますか?
僕は演出としてのスタートが『クイズ100人に聞きました』だったので、視聴者参加番組にこだわっていきたいというのはずっとあるんですよ。田舎育ちなので、長沼さんとV6さんみたいに芸能人と仲良くするのには苦手意識があって(笑)。有名な司会者とかタレントの方とご一緒しても、なかなか「こういうふうにやってほしい」というのが通りにくいんですけど、一般の人だったら僕がキャラクターを付けられるんですよ。その自由度にスケール感を入れて放送している番組が『SASUKE』なんです。視聴者参加番組って、企画のベースが優れていることが求められるので、そこで頑張っているという自負はありますね。
今、Snow Manの岩本照さんが『SASUKE』にご出演されているんですけど、彼が「ここではステージをクリアする人がカッコいいのであって、売れてるタレントやアイドルがクリアしてないのに『カッコいい』という番組ではないんです。クリアする電気屋さんのほうが僕よりカッコいいというのが『SASUKE』の魅力なんです」と名言をおっしゃって、「はぁ〜なるほど」と思いました。そこには、職業も年齢も容姿も一切介在せず、とても平等な世界なんだと。A.B.C-Zの塚田僚一さんも「これは部活。山田さんたちOBが作ってくれて、僕たちみたいな後から来たやつは『先輩、よろしくお願いします!』という姿勢であって、『SASUKE』と戦うためにOBもひっくるめて全員で倒しに行くから、とても楽しいフラットな場所なんです」とおっしゃっていただいて。
出場者の皆さんがそういう意識になるなんて、僕は全然意図していたわけじゃなくて、皆さんがあの緑山で作っていったものなんです。よく「どういう演出をしているんですか?」と聞かれるんですけど、当然出場者はオーディションで選ばせてもらいますが、僕らはセットを用意しているだけで、収録が始まったら何もやることはないんですよ。「場所を用意したんで後は勝手にやってください」というのが唯一の演出方法で、その中で有名アイドルと一般の人が勝手にSNSで連絡先交換して練習仲間になっていくんです。そんな番組、他にないですよね(笑)
――マネージャーさんが止めることもないんですね。
一切ないんですよ。僕の意図してないことがいろんなところでどんどん起きているので、そこに制限をかけることなく、自由にやっているのを撮らせてもらってるだけなんです。本当に不思議な空間ですよね。
――『100人に聞きました』での経験がいろんなところで生きていますね。
そこで根本から鍛えられましたからね。自分が演出で入るとき、すでに十数年やってる長寿番組で、30分番組だし、若いディレクターとしてはとんがった面白バラエティをやりたかったのに、「何でこの番組なんだよ」ってちょっとバカにしてたんですよ。でも中に入ったらノウハウだらけで、関口宏さんにも相当いろいろ教えていただきました。例えば「登場が一番大事だから、司会者やゲストの登場に汗をかけ」と。その人に対して、思い入れを持ってくれるような演出をしないとダメだから、タイミングから照明からセットの配置から、とにかく計算しろと教えられましたね。だから『SASUKE』でも、登場のときのテンションは相当こだわっていて演出しているんです。
――『サンデーモーニング』を取材したとき、関口さんがいろいろアイデアを出されるという話を伺いました。
それがまた全てごもっともなんですよ。ディレクターやプロデューサーが気づかないところを、丁寧に教えてくださるんです。テレビは時代によってどんどん変わっていくので、その時代に合わせていかなきゃいかないんですけど、根本論は変わらないので、関口さんの教えを守って『SASUKE』でも相当その部分を出しています。
――今年の『SASUKE』の見どころは、いかがでしょうか?
去年、大阪のシステムエンジニアの森本裕介くんが完全制覇を成し遂げて、1つの締めくくりができたかなと思っています。そういう意味で、今年は『SASUKE』が生まれ変わる年なので、いろんなところが新しくなっています。また、コロナ禍で一般参加のオーディションができていないんですけど、タレントさんのオーディションだけはさせてもらったので、過去最高に100人の挑戦者が豪華布陣だと思います。めちゃくちゃ面白い収録だったので、5時間堪能していただけるかなと思います。
――収録が終わり、編集中のところ取材を受けていただいているわけですが、カメラの台数から収録素材はものすごい量になるのではないでしょうか。
カメラはGoProとかも入れると30台以上で、素材は8テラのハードディスク15台になります。それを全部パソコンにつないでオフライン(=仮編集)するので、全然動かなくなっちゃうときもあります(笑)。渋谷のウィークリーマンションに1カ月半くらいこもって編集するんですけど、これを5時間の番組にするのは、今までのノウハウと経験値があって何とかできているという感じなので、ある日突然「『SASUKE』やってくれ」と言われた人は結構厳しいと思いますよ。
●海外に持ち込んで番組を作りたい
――今後こういう番組を作っていきたいというものはありますか?
たまたま『SASUKE』で海外にいろいろ行かせてもらったりしたので、海外で番組を作ってみたいなと思いますね。日本の番組のフォーマットを海外にセールスするというのはたくさんありますけど、制作会社がまるごと違う国行って、現地のスタッフを集めて作るというのはなかなかないので、そういうケースを作ってもいいんじゃないかなと思うんです。『SASUKE』や『DOORS』というゲームアトラクション番組って言語が必要ないものなので、そういうコンテンツをこちらから持ち込んで制作するというのをやってみたいなと、ずっと思っています。
――NetflixやAmazonプライム・ビデオといった配信プラットフォームをイメージされていますか?
配信も当然あると思いますが、結局“日本バージョン”を作ることになるじゃないですか。そうではなく、現地のプロデューサー、美術さん、カメラマン、照明さんと一緒に、向こうの地上波のゴールデンタイムで放送する番組を作ってみたいというのがありますね。いつかそういうことができるように、準備しています。
――ご自身が影響を受けた番組を挙げるとすると、何ですか?
最初はドキュメンタリーをやりたいと思ってたんですけど、『100人に聞きました』のプロデューサーに「向いてない」と言われてやめちゃって(笑)。その後、テリー伊藤さんの下でやらせてもらったときに、やっちゃいけないことなんて何もないんだって衝撃を受けたんです。それは『花王名人劇場』(カンテレ)でやった『とんねるずの人生・歌のとおり生きてみました』という番組だったんですけど、規制がないところまで1回企画を考えてみるというやり方が衝撃でしたね。
あと、AD時代にくすぶっていて、この先どうしようと思っていたときに、フジテレビの深夜で『カノッサの屈辱』という番組を見て、これを作ってる総合演出の方はすごいなあと思ったら、当時作っていた田中経一さんと杉本達さんは、僕より1つ上だったんですよ。それを知って、自分にはなんて才能がないんだというのを思い知って、いつかあんなふうに世の中が「すごいぞ」ってなる番組を作りたいなと、焦らされた番組です。
――田中さんは後に『料理の鉄人』を当てられて、乾さんも『SASUKE』を作って、いずれも世界でヒットする番組になりました。
いやいや。お会いする機会があったので、ノウハウが欲しくて「下でディレクターをさせてください!」ってお願いしましたから。それくらい尊敬しています。
――いろいろお話を聞かせていただき、ありがとうございました。最後に、気になっている“テレビ屋”をお伺いしたいのですが…
ジーヤマの水野達也さんです。有吉(弘行)さんと櫻井(翔)くんの『究極バトル“ゼウス”』という番組でご一緒したことがあったんですけど、素晴らしいディレクターです。有名なバラエティをいっぱいやっていて、ジーヤマの取締役でもいらっしゃるんですけど、ディレクターとして話を聞いてみたいですね。
次回の“テレビ屋”は…
『世界さまぁ〜リゾート』『櫻井・有吉 THE夜会』『さまぁ〜ずチャンネル』水野達也氏
注目を集めるテレビ番組のディレクター、プロデューサー、放送作家、脚本家たちを、プロフェッショナルとしての尊敬の念を込めて“テレビ屋”と呼び、作り手の素顔を通して、番組の面白さを探っていく連載インタビュー「テレビ屋の声」。今回の“テレビ屋”は、きょう28日(18:00〜)に放送されるTBS系特番「『SASUKE2021』〜NINJA WARRIOR〜」総合演出の乾雅人氏だ。
○■「最高だね」って言ってもらえることが大事
――当連載に前回登場したディレクターの長沼昭悟さんが、乾さんについて「“テレビ屋の鑑”だと思うんですけど、『SASUKE』では出場者全員のVTRを作ってプレゼントしてあげるというのをやっていたんです。一般の方であっても、演者に対するリスペクトが素晴らしいです」とおっしゃっていました。
『SASUKE』ってたくさんの出場者がいらっしゃるので、編集でカットになっちゃう方が結構いるんですよ。そこで、「ファーストステージで脱落してしまった人を顔写真だけ並べて一覧で出すのはどうでしょう?」ってプロデューサーに提案したんですけど、カットになるのも了承済みで来てもらってるので、そこまでする必要はないだろうという判断になったんですね。でも、始まった当時はSNSもないので、放送でカットされたら家族や友達に「俺『SASUKE』出たんだぞ」って自慢しにくいじゃないですか。それが申し訳なくて。
私は関口宏さんが司会をやっていた『クイズ100人に聞きました』(TBS)で3年半くらい演出をやっていたんですけど、あの番組は出場者の方が家族でいらっしゃって、オーディションを毎週のようにやってたんですね。そこでプロデューサーの方に言われたのが、「オーディションに来た方もお客さんで番組を支えてくれているんだ」ということなんです。例えば、番組で不快な思いをすると徐々に広まっていって、それがボディーブローのように効いて視聴率が下がる原因にもなっていく。だから、オーディションや予選会から、皆さんを全力で楽しませる。番組に出ないところから「あの番組めちゃくちゃ楽しかったよ」「最高だね」って言ってもらえることが大事なんだというのを教えてもらって、刷り込まれていたんです。
それで『SASUKE』をやるときに、カットになった人全員に「ごめんなさい」って電話しても「俺カットなんだ…」ってなっちゃうので、カットになってしまった人たちの挑戦の部分を切り抜いて編集して、1人1人に放送当日に届くようにVHSテープで送ったんです。「これはディレクターとアシスタントディレクターが勝手にやってることなんで、番組にお礼の手紙などは書かなくても大丈夫です」と一筆添えて。お礼のハガキがTBSに届いちゃうと、「勝手に何やってるの?」って話になるので、こっちが自腹で宅急便で送るというのを始めたんですよ。
――だいたい何人分くらい作業されていたんですか?
四十数人くらいがカットになってしまうので、その分ですね。97年からその作業をこっそりやらせていただいて、2004年に番組を離れることになるんですけど、2012年にもう一度担当することになったときに、プロデューサーに「実はビデオをプレゼントするのをやってたんですけど、さすがに自腹もきついので、番組の予算でやってくれませんか?」と相談したら、「そんなことやってたんですか! じゃあ、番組予算でちゃんとやりましょう」ということで再びやらせてもらうことになって。今はParaviで全員分が配信されるようになったので、2年前までは放送当日にDVDが届くようにやってました。
――届いた人たちはうれしかったでしょうね!
テレビって、ちょっと乱暴なところもあるじゃないですか。「こっちは収録してやったんだ」「そっちが応募してきたんだからこっちの裁量でやります」って、テレビ側のロジックであって、出場していただいた方々というのは本当に楽しみに来てくれるわけですよ。
――テレビに出るって一大イベントですからね。
どこで落下しようと何しようと、「とにかく俺がSASUKEに出てきたんだ」ってみんなに言いたいし、その証が欲しいじゃないですか。出場してくれた皆さんにとっては一生残るものですからね。
○■エンドロールに全員の名前を出すことの意味
――そういった一般の出場者への気配りに加え、長沼さんにもう1つ聞いたのは、乾さんの手がける番組はスタッフの名前が流れるエンドロールが全部ゆっくりであるということです。エンドロールが流れると視聴率が下がると言われる中で、最後まで見てもらえるように作ればいいんだという考えを持って、スタッフの皆さんへの気配りも素晴らしいとおっしゃっていました。
これも『100人に聞きました』に遡るんですけど、僕、26歳で演出になったんですね。あの当時、キー局のゴールデンタイムで局制作の番組で僕みたいな制作会社の人間が演出になるというのは稀なケースで、しかも歴史のある番組なので、「俺やったぞ!」ってちょっと調子に乗ってたんですよ(笑)。で、演出になって初めての収録が終わって、そのまま編集に入ったら、編集を手伝ってくれる大ベテランで女性のタイムキーパーさんが、「ここはいらないから切りましょう」「ここは間を詰めていいわよ」ってどんどんカットしていこうと提案してくるんです。僕が「この1〜2秒は残していいです」って言うのに、「どんどん切りましょう」ってなっていって、最後のエンディングは演者さんたちが「また来週〜」って手を振るところでエンドロールが流れるんですけど、ずいぶんスピードがゆっくりなんですよ。
それで「ちょっとエンディング長すぎませんか?」って言ったら、タイムキーパーさんが「あなたの名前が演出として初めて載るのよ。1秒でもゆっくりあなたの名前が見えたほうがいいじゃない」っておっしゃったんですよ。なるほど、そのためにどんどん切って時間を稼いでくれてたんだなと知ったんです。
――素敵な話!
その女性の他に、カメラマンさんや照明さん、放送作家さんたちも、僕が局の人間じゃないのに演出になったのを喜んでくれて、「何とかあいつが失敗しないように」という気持ちで、僕の知らないところでたくさんの方が助けてくれていたことを、後から知ったんです。そういうのを聞いて、「自分の実力で演出になったんだと思ってたけど、たくさんの人たちのおかげで、今このイスに座ってるんだな」というのを体感したのが、エンドロールをゆっくり流す理由なんです。
僕、TBSさんで『ドラフト緊急生特番!お母さんありがとう』という番組を12年くらいさせていただいてるんですけど、これはスポーツ局の野球中継の担当がコアのスタッフになって作ってるんですね。野球中継って最後に「製作著作 TBS」って出るだけで、ディレクターもアシスタントディレクターも誰の名前も出ないじゃないですか。でも、このスタッフだって地元のお母さんが「うちの息子が野球中継やってるんだ」という証を一度も見られない中で、年に1回ドラフト会議の番組だけ、名前が出るタイミングがあるんです。だったら1秒でも長く名前を出して、「こんないい番組にうちの息子の名前が出た!」と思ってほしい。あの番組は生放送なので、エンディングが短くなっちゃう可能性があるんですけど、そのために1分半だけは絶対に確保する。タイムキーパーさんが「押してるからエンディング切ってもいい」と言っても絶対ダメだというのを伝えて番組を作ってきました。
――そうした愛がエンドロールに表れているんですね。
あと、2005年にTBSの50周年記念で『DOORS』という特番があったんです。幕張メッセにセットを作るのに、近くのホテルに美術さんの部屋を用意してたんですけど、スケジュールがタイトになってきて、会場の床で寝てるような美術さんが山のようにいたんですよ。1カ月くらい幕張メッセに泊まり込んで家に帰ってこない理由が、こんなすごい番組に一生懸命携わってるからだというのを知ってもらいたくて、全スタッフ300人くらいいたんですけど、エンドロールで全員の名前を出したんです。
プロデューサーの海本泰さん(現・TBSテレビ取締役)に「エンディングで全員の名前出したいです」って言ったら、「いいじゃないか。そこで視聴率が下がるような番組を僕たちは作るんですか? その余韻まで含めた素晴らしいものを作りましょう」とおっしゃっていただいて、「この人とは一生一緒にやれるな」と思いましたね。今は、エンドロールが流れると数字が下がるということで、文字が見えないスピードで流しちゃうという考え方もあると思うんですけど、最後の1秒まで面白くご覧いただける番組にさえすれば、そこを急ぐ必要はないというのを、信念として持っているんです。
――『DOORS』のエンドロールは、どのような画面構成にしたのですか?
MCの福澤朗さんとナインティナインさんがセットをバックにエンディングトークをしているのですが、その様子を左上に小さく入れて、スタッフ全員の名前を映画のエンドロールみたいに3列で流していったんです。(世帯視聴率)20%を超えるめちゃくちゃいい数字で、結果としてその時間も下がることはなかったですね。このように、何を大事にするかというのをちゃんと共有できるプロデューサーさんやディレクターさんと、たまたま運が良くてご一緒できたんだなと思います。
●アトラクションを自作するプレイヤーとの勝負
――『SASUKE』のお話を伺っていきたいのですが、緑山スタジオの大仕掛けのセットということで、TBSさんで以前放送されていた『風雲!たけし城』の流れみたいなものがあったのですか?
その流れではなくて、場所が緑山にしかなかったんです(笑)。最初は『筋肉番付』の2時間スペシャルの1コーナーとしてやったのですが、初回は浦安にあった東京ベイNKホールの中でやりました。NKホールでの一番の問題は、失敗して落ちる池が作れないということ。それで1回目の数字がそこそこ良かったので、2回目をやろうとなって、穴を自由に掘れる場所ということで、緑山スタジオの上段広場というところでオープンのセットになったという形です。
――最初の頃と現在を比べると、セットの規模もだいぶ大きくなっていますよね。
プロデューサーに「忍者みたいなセットを作ってほしい」と言われて、忍者は乗り物に乗らないし、飛んだり跳ねたりするようなものだなと思ってセット開発に入ったんですけど、第1回のNKホールは3500万円くらいのセットでした。それから緑山の屋外になると、穴掘ったり、照明のためのタワーも作らなきゃいけなかったり、お金がかかる部分が増えて、理想としていたものよりはだいぶスケールが小さい感じで始まったんですけど、徐々にグレードアップしていって、今はセット代で言うと、最初の倍のお金はかかってますね。
――セットがだんだんアップグレードしていくのは、プレイヤーたちが攻略してくることへの対策が要因としては大きいのですか?
見栄えとは別に、そういう部分がありますね。2000年くらいのときに、山田勝己さんが最初に自作のセットを作ったんですけど、そこから皆さんが苦手なアトラクションのエリアを自作して練習するというのを始めて、今は日本各地にそういう方がいらっしゃって、そこにタレントさんや他のプレイヤーの方が練習しに行くいう環境になったんです。だから、皆さんが作りにくいモーター仕掛けのようなものを取り入れるというのが、自然と始まっていきました。
――プレイヤーたちとの勝負が、そうしたところでもあるわけですね。
前回まであったセットを自作して100回練習したら100回ともできるようになったけど、それに対して緑山の本物のセットがちょっとだけバージョンアップすると、落ちてもらえるように作るという感じですね。
――新しいセットを作るのに、どれくらいの時期から準備されているのですか?
今年の収録で言うと、去年のOA前の12月には、美術さんに「こういうものを作りたい」とお願いしています。毎回収録中は、「これは来年どうするかな…」って考えながら見ているので、その考えが温かいうちに美術さんと話をして、ご提案させていただくというのが多いですね。それで、次の収録の2〜3カ月前くらいに業者さんの工場で作ってみたのを動画で送ってもらって見て、「もうちょっとこういうふうにしたほうがいいんじゃないか」といった話をして、実際にセットを組んでテストするのは収録の3〜4週くらい前ですね。
――そうやって毎年ブラッシュアップしているんですね。
ちょっとずつですが、何かしらが変わっていく感じです。ドラスティックに変えてしまうと、最初のステージで落ちすぎちゃって、「次のステージは5人だけです」みたいなことになっちゃうと、5時間番組の尺が大変なことになってしまうので、トータルのゲームバランスを今はすごく気にするようになりました。昔は2時間スペシャルだったので、そんなことは無視して「ここで全滅しちゃってもいいや」と思い切って作っていたんですけどね(笑)。今はそういうことができないので、選手たちがどういうセットを作って練習しているのかというのをリサーチして、これくらいだったらクリアできるんじゃないかと考えてセットを作るようになってますね。
○■山田勝己の天才さにいろんな人が気づいた
――いろんなプレイヤーがいる中で、先ほど名前が挙がった「ミスターSASUKE」こと山田勝己さんはやはり印象に残ると思うのですが、最初の出会いから強烈でしたか?
山田さんとは『SASUKE』からではなく、『筋肉番付』で3分間腕立て伏せで対決する企画があって、そのオーディションにいらっしゃったときに出会ったんですよ。当時から真っ黒に日焼けして髪の毛オールバックで今とあんまり変わらない感じで、見た目にインパクトがあるので「筋骨隆々のムキムキがきたぞ」と思ってたんですけど、腕立て伏せのやり方がちょっとインチキだったんですよ(笑)。手を広げてひじを曲げた状態であごを動かすというやり方で、担当プロデューサーが「あの人はインチキだから不合格だ」って僕に言ったんです。でも、見た目が面白くてキャラクターがいいので、山田さんに「収録までの間にひじが伸びるスタイルに変えてきてほしい」とお願いしたら、「分かりました」と言ってくれて。あの人はとても繊細で、「雰囲気に飲まれたくないので、どんな会場になってるのかなと思って」と、収録現場に下見に来るような人なんです。それが96年だったんですけど、腕立て伏せも3位という好成績を残して、キャラクターが付いていて実況の古舘(伊知郎)さんも気に入っていたので、翌年に始まる『SASUKE』にも参加してもらったんです。
――最初からスター性を持って参加していたんですね。
でも、こちらから何をお願いしたわけでもなく、山田さんがどんどんのめり込んでいって(笑)。あの人は鉄工所にお勤めでいらっしゃったので、両手両足で両側の壁に突っ張って前に進む「スパイダーウォーク」というエリアをベニヤのパネルで作ったのが、自作セットの最初ですね。そこから、レッカー車を借りて命綱なしで綱登りの練習を始めたりして、徐々に家族が心配するようになっていくようになっていった感じです。
――『SASUKE』ではプレイヤー人たちを追う人間ドラマも描かれていますが、そのきっかけはやはり山田さんだったのですか?
当然、山田さんがきっかけという部分もあるんですけど、フィールドアスレチックを100人やってるのを延々放送して、いろんな落ち方のバリエーションを見せても、さすがに飽きてしまうだろうと思って、どこかに浪花節コーナーみたいなものを出していかないとなかなか難しいぞというのは考えていたんです。そしたら、たまたま山田勝己さんという方が出演されていて、その他にも99年に北海道の元毛ガニ漁師の秋山和彦さんが出られたんです。この方も、山田さんと同じ腕立て伏せ企画のオーディションにいらっしゃって、そのときにご自身から弱視だということを聞いたんですが、そのことは黙っててほしいと言われて、約束したんですね。
その後、『SASUKE』に出場されるようになって、第4回大会で完全制覇したんですよ。そこで、本人に「これまで延べ400人が挑戦して誰もできなかったことを、弱視の君が達成したんだから、これは公表するときなんじゃないか」と話したら、世の中の同じようなご病気の方や、ハンデを抱えている人たちに勇気を与えることもできるはずだということを理解してもらい、その後のスタジオ収録のときに、そのことを公表したこともありました。山田さん以外にも、こういう方がいらっしゃるんだ、こういうストーリーがあるんだというのを、少しずつ織り交ぜていくというのを始めたのが、98〜99年以降で、単なるフィールドアスレチックの番組が人間ドラマになっていって、厚みが増していった感じですね。
――山田さんは近年、『水曜日のダウンタウン』でもご活躍されています。
あの人は天才ですから(笑)。僕らが「ここでダメになるんじゃないか?」って思っていたところと全然違うことを始めるような人なので、全然読めなかったんですよね。天才ってある種天然だったりするじゃないですか。彼も狙って面白くしようとしてるわけじゃなくて、全力で言われたとおりにやった結果が『水曜日のダウンタウン』だったりすると思うので、彼の天才さにいろんな人が気づいて、面白がってくれているのはありがたいなという感じです。
――『SASUKE』の外に出ていくことによって、新たなファンを獲得して返ってくるというのもありますよね。
実はマイナス面もあるかなと思ったんですよ。バラエティに出てカラオケ歌ったりして「こんなことしないでいいのに…」と思ったりしたですけど、『水曜日のダウンタウン』で山田さんを見て、こんなに情熱があってもらい泣きできるキャラクターなんだと興味を持って『SASUKE』を見たら、また他のキャラクターを気に入ってくれるなんてもことも結構多いので、ありがたいですよね。
――『SASUKE』のYouTubeチャンネルを立ち上げたことで面が広がり、いろいろなプレイヤーを紹介できるようになったということもありますか?
そうですね。年に1回の特番になると、収録から収録までの間が結構空いてしまうので、YouTubeのロケで「実はあの人とあの人が一緒に練習を始めたんだ」ということを知るのも増えてきて、出場者との関係性が密になりました。番組が始まったばかりの頃は、「最近どうしてます?」ってたまに電話で聞くくらいだったので、「実は離婚したんです」とか「子供が生まれたんです」なんて情報はなかなか教えてもらえないじゃないですか。こうして距離が近くなったのはいいですね。
――それにしても、『SASUKE』のYouTubeチャンネルは、他の番組に比べても再生回数が安定して高いなと思います。海外からの視聴も多いのですか?
海外の方もかなり見てくれているようです。『SASUKE』って海外にマニアがいて、漁師の長野誠さんなんて絶大な支持者から「ミスターナガノ」って呼ばれてるくらいなので、そういう方が長野さんの過去の挑戦をYouTubeで見てくださることも多いみたいです。
●海外への普及「こんなに楽しい仕事はない」
――今や海外でも広く見られている番組ですが、最初から海外展開というのは想定していたのですか?
海外進出とかを目論んで作るというのは一切なかったですね。アメリカのケースで言うと、あの国の番組ってこういうドキュメントでもコンテストでも、必ず勝った人と負けた人がいるというのがベースにないとダメだというんです。でも『SASUKE』って全員負けるということが多い番組だし、4時間の番組を放送するというのもあり得ないことなので、海外に売るには非常にマイナス要素が多いと言われていました。そんな中で、最初にアメリカのG4というケーブルネットワークが『Ninja Warrior』というタイトルにして1本30分の細切れにして放送したら爆発的なヒットになったんです。
――そこからどんどん広がって、これまでに165以上の国と地域で放送されています。現地版が制作されている国には、乾さんも行ってアドバイスされているんですよね。
アメリカの現地版はレギュラー放送なので、セットをツアートラックに載せて各都市を回るんですけど、ヨーロッパで制作するときは、欧州制作用の別セットを国境を越えて移動させ、各国で組み立てるんですね。一方、アジアの国では鉄骨からクッション材から全部自分の国で賄うので、TBSの美術さんと一緒にコンサル業務としてご協力しに行かせていただく感じです。一応日当は頂いてるんですけど、日本の『SASUKE』の緑山のアルバイトより安い金額でやってます(笑)
――それでも現地に行ってアドバイスされるのは、『SASUKE』を少しでも多くの国に広げたいという思いからですか?
広げたいという思いとはちょっと違うんです。例えば、ベトナムで『SASUKE』をやることになると、現地のプロデューサーとかディレクターが緑山の収録を見学するんですけど、現地の美術さんやカメラマンさんは編集された映像しか見ないわけですよね。その方たちがいざセットの建て込みを始めると、“テレビショーのセット”として見るので、細かい部分が分からないんですよ。そこで、僕らが「ここに出てる木材の角は丸くしなきゃいけない」とか「ここにクッション材が必要」とか「じゅうたんはホチキスで止めないで全部のり付けで」とか事細かに説明するんですけど、やっぱり最初は「テレビのセットだろ」と言って理解できないんです。そんな状況で軍の方とか体操の経験者がテストをやって転んだり落ちたりするのを見ると、どこが危ないのかが分かって、「そうか、イヌイが言ってたのはこれだったのか」って安全に対して理解が深まるんです。
そしていざ本番の収録が始まると、今まで日本版やアメリカ版で見てた『SASUKE』『Ninja Warrior』を、自分の国の人たちがやって、どんどん転げ落ちて失敗するのを目の当たりにして、みんなゲラゲラ笑うんです。その面白さが共有できたときの皆さんの顔が本当に素晴らしくて。日本で生まれたものが海外に行って、その国の方がものすごく楽しんでいるのを見られるって、こんなに楽しい仕事はないんですよ。
――プライスレスの喜びですね。ただ、新しく現地版を作り始める国がだんだん限られてきてしまうと、その感覚が味わえなくなって寂しいのでは?
アトラクションを新しくするというタイミングでもコンサルに行くんです。最初から今の日本と同じアトラクションを持っていくとレベルが高くて難しすぎるので、現地版がどんどん成長していくのにつれて、その国に合ったものを持っていきます。でも、現地の人はやっぱり最新のバージョンをやりたいんですよ。一昨年、モンゴルに行ったら「日本の逆流するプールのエリアをやりたい」ってチーフディレクターが言い出して、地面に穴掘ってプールを作ったんですけど、いざテストしたら、モンゴルの人って海がないし、川も激流だから、みんな泳げないんです(笑)。それでも「どうしてもやりたい」と言うんで、水流を弱くしてみたり。
――何で泳げないのにやりたがったんですかね(笑)
何か刺さったみたいなんですよね(笑)。あと、ベトナムに行ったときに、日本でトランポリンを跳んで掴まるというエリアがあるんですけど、それをやりたいんだと。ところが現地に行ったら、トイザらスで売ってるようなおもちゃのトランポリンしかなくて、実際に跳んでみたら網が床についちゃって(笑)。じゃあかさ上げすればいいんじゃないかとなって、木材で脚を足したら今度はその木が折れちゃって、結局日本のトランポリンを空輸して使ったというのもありました。
―― 一方で、海外版のアトラクションを日本に逆輸入するということもありますよね。
アメリカで作ったものを日本バージョンに改良させてもらって導入することが、ここ数年で増えてきましたね。アメリカの『Ninja Warrior』って国民性なんでしょうけど、飛び移るというのが好きなんですよ。だから日本版と違って最初のステージから空中戦がすごく多くて進化しているんです。日本では、重りの入った箱を押しながら進む「タックル」というエリアがあるんですけど、アメリカでは全く考えられないんです。あれは、その後に待ってる「そり立つ壁」に挑むのに、重いものを押して脚にどれくらいダメージが効いてるのかをイマジネーションするための7秒くらいの時間なんですけど、アメリカでは「7秒間何も起きないじゃないか」って耐えられない。とにかく、どんどん飛び移る、ぶら下がるというのがないと飽きちゃうんですよね。
――そこが進化してバリエーションがいっぱいあるんですね。
アメリカは番組オリジナルグッズが幅広い層に爆発的な人気があって、アパレルはもちろん、トレーニンググッズやゲームまで、200種類以上も関連商品があるんですよ。アメリカのマーケットはすごいなと思いますね。
○■視聴者参加番組が衰退する中での自負
――かたや日本は『パネルクイズ アタック25』(ABCテレビ)が長年の歴史に幕を下ろしたのを象徴に、視聴者参加番組が減ってきています。その中で『SASUKE』の存在はとても貴重だと思うのですが、その自負というはありますか?
僕は演出としてのスタートが『クイズ100人に聞きました』だったので、視聴者参加番組にこだわっていきたいというのはずっとあるんですよ。田舎育ちなので、長沼さんとV6さんみたいに芸能人と仲良くするのには苦手意識があって(笑)。有名な司会者とかタレントの方とご一緒しても、なかなか「こういうふうにやってほしい」というのが通りにくいんですけど、一般の人だったら僕がキャラクターを付けられるんですよ。その自由度にスケール感を入れて放送している番組が『SASUKE』なんです。視聴者参加番組って、企画のベースが優れていることが求められるので、そこで頑張っているという自負はありますね。
今、Snow Manの岩本照さんが『SASUKE』にご出演されているんですけど、彼が「ここではステージをクリアする人がカッコいいのであって、売れてるタレントやアイドルがクリアしてないのに『カッコいい』という番組ではないんです。クリアする電気屋さんのほうが僕よりカッコいいというのが『SASUKE』の魅力なんです」と名言をおっしゃって、「はぁ〜なるほど」と思いました。そこには、職業も年齢も容姿も一切介在せず、とても平等な世界なんだと。A.B.C-Zの塚田僚一さんも「これは部活。山田さんたちOBが作ってくれて、僕たちみたいな後から来たやつは『先輩、よろしくお願いします!』という姿勢であって、『SASUKE』と戦うためにOBもひっくるめて全員で倒しに行くから、とても楽しいフラットな場所なんです」とおっしゃっていただいて。
出場者の皆さんがそういう意識になるなんて、僕は全然意図していたわけじゃなくて、皆さんがあの緑山で作っていったものなんです。よく「どういう演出をしているんですか?」と聞かれるんですけど、当然出場者はオーディションで選ばせてもらいますが、僕らはセットを用意しているだけで、収録が始まったら何もやることはないんですよ。「場所を用意したんで後は勝手にやってください」というのが唯一の演出方法で、その中で有名アイドルと一般の人が勝手にSNSで連絡先交換して練習仲間になっていくんです。そんな番組、他にないですよね(笑)
――マネージャーさんが止めることもないんですね。
一切ないんですよ。僕の意図してないことがいろんなところでどんどん起きているので、そこに制限をかけることなく、自由にやっているのを撮らせてもらってるだけなんです。本当に不思議な空間ですよね。
――『100人に聞きました』での経験がいろんなところで生きていますね。
そこで根本から鍛えられましたからね。自分が演出で入るとき、すでに十数年やってる長寿番組で、30分番組だし、若いディレクターとしてはとんがった面白バラエティをやりたかったのに、「何でこの番組なんだよ」ってちょっとバカにしてたんですよ。でも中に入ったらノウハウだらけで、関口宏さんにも相当いろいろ教えていただきました。例えば「登場が一番大事だから、司会者やゲストの登場に汗をかけ」と。その人に対して、思い入れを持ってくれるような演出をしないとダメだから、タイミングから照明からセットの配置から、とにかく計算しろと教えられましたね。だから『SASUKE』でも、登場のときのテンションは相当こだわっていて演出しているんです。
――『サンデーモーニング』を取材したとき、関口さんがいろいろアイデアを出されるという話を伺いました。
それがまた全てごもっともなんですよ。ディレクターやプロデューサーが気づかないところを、丁寧に教えてくださるんです。テレビは時代によってどんどん変わっていくので、その時代に合わせていかなきゃいかないんですけど、根本論は変わらないので、関口さんの教えを守って『SASUKE』でも相当その部分を出しています。
――今年の『SASUKE』の見どころは、いかがでしょうか?
去年、大阪のシステムエンジニアの森本裕介くんが完全制覇を成し遂げて、1つの締めくくりができたかなと思っています。そういう意味で、今年は『SASUKE』が生まれ変わる年なので、いろんなところが新しくなっています。また、コロナ禍で一般参加のオーディションができていないんですけど、タレントさんのオーディションだけはさせてもらったので、過去最高に100人の挑戦者が豪華布陣だと思います。めちゃくちゃ面白い収録だったので、5時間堪能していただけるかなと思います。
――収録が終わり、編集中のところ取材を受けていただいているわけですが、カメラの台数から収録素材はものすごい量になるのではないでしょうか。
カメラはGoProとかも入れると30台以上で、素材は8テラのハードディスク15台になります。それを全部パソコンにつないでオフライン(=仮編集)するので、全然動かなくなっちゃうときもあります(笑)。渋谷のウィークリーマンションに1カ月半くらいこもって編集するんですけど、これを5時間の番組にするのは、今までのノウハウと経験値があって何とかできているという感じなので、ある日突然「『SASUKE』やってくれ」と言われた人は結構厳しいと思いますよ。
●海外に持ち込んで番組を作りたい
――今後こういう番組を作っていきたいというものはありますか?
たまたま『SASUKE』で海外にいろいろ行かせてもらったりしたので、海外で番組を作ってみたいなと思いますね。日本の番組のフォーマットを海外にセールスするというのはたくさんありますけど、制作会社がまるごと違う国行って、現地のスタッフを集めて作るというのはなかなかないので、そういうケースを作ってもいいんじゃないかなと思うんです。『SASUKE』や『DOORS』というゲームアトラクション番組って言語が必要ないものなので、そういうコンテンツをこちらから持ち込んで制作するというのをやってみたいなと、ずっと思っています。
――NetflixやAmazonプライム・ビデオといった配信プラットフォームをイメージされていますか?
配信も当然あると思いますが、結局“日本バージョン”を作ることになるじゃないですか。そうではなく、現地のプロデューサー、美術さん、カメラマン、照明さんと一緒に、向こうの地上波のゴールデンタイムで放送する番組を作ってみたいというのがありますね。いつかそういうことができるように、準備しています。
――ご自身が影響を受けた番組を挙げるとすると、何ですか?
最初はドキュメンタリーをやりたいと思ってたんですけど、『100人に聞きました』のプロデューサーに「向いてない」と言われてやめちゃって(笑)。その後、テリー伊藤さんの下でやらせてもらったときに、やっちゃいけないことなんて何もないんだって衝撃を受けたんです。それは『花王名人劇場』(カンテレ)でやった『とんねるずの人生・歌のとおり生きてみました』という番組だったんですけど、規制がないところまで1回企画を考えてみるというやり方が衝撃でしたね。
あと、AD時代にくすぶっていて、この先どうしようと思っていたときに、フジテレビの深夜で『カノッサの屈辱』という番組を見て、これを作ってる総合演出の方はすごいなあと思ったら、当時作っていた田中経一さんと杉本達さんは、僕より1つ上だったんですよ。それを知って、自分にはなんて才能がないんだというのを思い知って、いつかあんなふうに世の中が「すごいぞ」ってなる番組を作りたいなと、焦らされた番組です。
――田中さんは後に『料理の鉄人』を当てられて、乾さんも『SASUKE』を作って、いずれも世界でヒットする番組になりました。
いやいや。お会いする機会があったので、ノウハウが欲しくて「下でディレクターをさせてください!」ってお願いしましたから。それくらい尊敬しています。
――いろいろお話を聞かせていただき、ありがとうございました。最後に、気になっている“テレビ屋”をお伺いしたいのですが…
ジーヤマの水野達也さんです。有吉(弘行)さんと櫻井(翔)くんの『究極バトル“ゼウス”』という番組でご一緒したことがあったんですけど、素晴らしいディレクターです。有名なバラエティをいっぱいやっていて、ジーヤマの取締役でもいらっしゃるんですけど、ディレクターとして話を聞いてみたいですね。
次回の“テレビ屋”は…
『世界さまぁ〜リゾート』『櫻井・有吉 THE夜会』『さまぁ〜ずチャンネル』水野達也氏