暴言・暴力だけが「虐待」ではない 愛情ゆえの「見えない虐待」とは?
コロナ禍の外出自粛で在宅時間が長くなった結果か、2020年の児童虐待通告は初めて10万人を超えた。
同様に増えたDVにしても児童虐待にしても、まず思い浮かべるのは暴言や暴力の類であり、それらは家族への「愛情の欠如」が連想される。ただ、愛情があれば虐待は起こらないのか、または暴言や身体的な暴力さえなければ虐待ではないのかというと、決してそうではない。
いまだに誤解があるようなのですが、虐待というのは、殴ったり蹴ったりするようなわかりやすいものだけではありません。子どもをおとなの都合で濫用することもまた、暴力であり、虐待です。(『「愛」という名のやさしい暴力』より)
精神科医の斎藤学氏は『「愛」という名のやさしい暴力』(木附千晶構成、扶桑社刊)で、「愛」というやさしげな衣でコーティングされていることで見えにくくなっている「暴力」の存在を指摘している。
■「子はかすがい」は問題を抱えた夫婦関係の裏返し?
冷めきった夫婦関係について話す時、よくあるのが「うちはもう子どもを介してしか夫婦の会話がない」という表現。夫婦で直接話すことはなく、家族で同じ場所にいても、夫と子ども、子どもと妻というように、会話に2つのラインができている状態である。
「子は鎹(かすがい)」というと聞こえはいいのだが、夫婦ともに一緒にいる必要を感じておらず、「子どものため」として結婚生活を続けているのだとしたら、それは子どもを利用して夫婦関係の不全を埋め合わせていることになる。
子どもが夫婦の葛藤に巻き込まれて、親の怒りのはけ口になったり、親の慰め役にならざるをえないのだとしたら、それはやはり一種の虐待だ。ただし、そこには子どもへの愛情の欠如というニュアンスは薄い。夫婦それぞれが子どもを愛していても起こる虐待があるのだ。
■愛情ゆえの干渉、拘束、期待、要求が暴力になる時
また斎藤氏は、愛情ゆえに子どもに干渉し、拘束し、期待し、要求することも、子どもにとっては暴力になりうるとしている。もしかすると、これらすべてを免れている家庭の方が少ないのかもしれないが、「愛」による拘束が、家族内で「暴力」といっていいような影響を与えてしまうケースは多い。
親があまりにも強く「親にとっての理想」を押しつければ、子どもは自分の欲求や感情を棚上げし、親の必要のために生きることになる。親が自分のために生活費を切り詰め、塾代や学費を捻出しているのを見たら、子どもは「ありがたい」と思わざるをえないだろう。満たされない親が、子どもを生きがいにすればするほど、子どもは親の期待に縛られて自分の人生を失っていく。
これらはいずれも親という権力者から離れて生きていけない「弱者」である子どもの濫用であり、情緒的な虐待であると斎藤氏は指摘する。
ただ、期待することも、何かを要求したくなることも、親としては自然な感情ともいえ、それが暴力になるのだとしたら、家庭や家族はそもそも「暴力装置」ということになる。それをわかったうえでないと「なぜ子どもをありのまま育てられないのか」「なぜ夫婦の問題で子どもを利用してしまうのか」を考えることはできない。
家族という当たり前に存在している集団の中で、当たり前にある愛が暴力に変わってしまうのは、単純にさじ加減や愛情の注ぎ方の問題なのか、それとも他の要因があるのか。子育てをする親はわが身を振り返らずにいられない一冊だが、今生きづらさを抱えている人にとっても、その生きづらさの原因を探るのに役立つはずだ。
(新刊JP編集部)
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いまだに誤解があるようなのですが、虐待というのは、殴ったり蹴ったりするようなわかりやすいものだけではありません。子どもをおとなの都合で濫用することもまた、暴力であり、虐待です。(『「愛」という名のやさしい暴力』より)
■「子はかすがい」は問題を抱えた夫婦関係の裏返し?
冷めきった夫婦関係について話す時、よくあるのが「うちはもう子どもを介してしか夫婦の会話がない」という表現。夫婦で直接話すことはなく、家族で同じ場所にいても、夫と子ども、子どもと妻というように、会話に2つのラインができている状態である。
「子は鎹(かすがい)」というと聞こえはいいのだが、夫婦ともに一緒にいる必要を感じておらず、「子どものため」として結婚生活を続けているのだとしたら、それは子どもを利用して夫婦関係の不全を埋め合わせていることになる。
子どもが夫婦の葛藤に巻き込まれて、親の怒りのはけ口になったり、親の慰め役にならざるをえないのだとしたら、それはやはり一種の虐待だ。ただし、そこには子どもへの愛情の欠如というニュアンスは薄い。夫婦それぞれが子どもを愛していても起こる虐待があるのだ。
■愛情ゆえの干渉、拘束、期待、要求が暴力になる時
また斎藤氏は、愛情ゆえに子どもに干渉し、拘束し、期待し、要求することも、子どもにとっては暴力になりうるとしている。もしかすると、これらすべてを免れている家庭の方が少ないのかもしれないが、「愛」による拘束が、家族内で「暴力」といっていいような影響を与えてしまうケースは多い。
親があまりにも強く「親にとっての理想」を押しつければ、子どもは自分の欲求や感情を棚上げし、親の必要のために生きることになる。親が自分のために生活費を切り詰め、塾代や学費を捻出しているのを見たら、子どもは「ありがたい」と思わざるをえないだろう。満たされない親が、子どもを生きがいにすればするほど、子どもは親の期待に縛られて自分の人生を失っていく。
これらはいずれも親という権力者から離れて生きていけない「弱者」である子どもの濫用であり、情緒的な虐待であると斎藤氏は指摘する。
ただ、期待することも、何かを要求したくなることも、親としては自然な感情ともいえ、それが暴力になるのだとしたら、家庭や家族はそもそも「暴力装置」ということになる。それをわかったうえでないと「なぜ子どもをありのまま育てられないのか」「なぜ夫婦の問題で子どもを利用してしまうのか」を考えることはできない。
家族という当たり前に存在している集団の中で、当たり前にある愛が暴力に変わってしまうのは、単純にさじ加減や愛情の注ぎ方の問題なのか、それとも他の要因があるのか。子育てをする親はわが身を振り返らずにいられない一冊だが、今生きづらさを抱えている人にとっても、その生きづらさの原因を探るのに役立つはずだ。
(新刊JP編集部)
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