出会いと別れのシーズン。突然の辞令で転勤による引越しや、夫の単身赴任がスタートしたという家庭も少なくないのでは。夫が転勤になった場合、家族でついていくのか、単身赴任を選ぶのか大きな選択をすることになると思います。

新型コロナウイルス禍で最初の緊急事態宣言措置が実施された2020年5月に、単身赴任中の夫(当時56歳)が突然死するという経験をされたライターの佐藤由香さん(当時52歳)は、夫婦2人家族で夫と離れて暮らす生活を9年続けられていました。2拠点生活を送ることになった背景やその影響についてつづっていただきました。


単身赴任の夫が岩手でひとり暮らしをしていたアパート

40代で夫が初の地方転勤。妻の仕事はどうする?



昨年の5月、56歳で突然死(死因は致死性不整脈)した夫のことを記事にしたとき、思いがけず反響が多かったのが、単身赴任先での出来事だったことでした。

単身赴任といえば、子どもの学校や介護、持ち家などの事情がある場合が一般的ですが、わが家は子どもがいない夫婦2人家族で、家も賃貸住まい。なぜ単身赴任なのか、不思議に思う人も多いのかもしれません。

●40代夫婦2人家族。仕事を捨てることは簡単ではなかった




夫が暮らしていたアパートからの眺め

転勤の内示が出たのは2010年。夫は47歳、私は43歳。結婚12年目に入る春でした。

夫「ついに転勤だよ。引っ越しだ!」
私「えーっ! どこどこ?」
夫「岩手!」
私「東北〜! 遠いね!」
その時点では、夫は私と一緒に行くものだと思い、私もついていくつもりでした。ライターの仕事は、フリーの立場を生かせばなんとか続けられるかなと思っていたのです。

しかし、物事はそう甘くありません。赴任先で家探しを始めてみると、仕事のたびに東京と岩手を往復するのは時間も経費もかかりすぎるし、40歳すぎでは現地で新規の仕事をとるのも容易じゃない。今ならリモート取材ができ、オンライン上で完結するライティングの仕事もたくさんありますが、当時は外で行う仕事が大半でした。

40代という、仕事がおもしろくなってきた年齢でのターニングポイント。どうしても、簡単に諦めることができません。

●夫が折れる形で、2拠点生活がスタート



「やっぱりついていくの難しいかも…」
転勤の準備で忙しく動いていた夫とは、夜な夜な話し合いをするたびに大ゲンカ。仕事を続けたい意思は尊重してくれるものの、当時の時代背景的に「妻の仕事の都合で単身赴任なんて、聞いたことない」という感じで、話はいつまでも平行線でした。


散々話し合って2拠点生活のルールを決めることに

悩んで悩んで話し合った結果、折れたのは夫のほう。別居婚に近い単身赴任という形をとることにしたのです。会社員の夫が東京に帰ってくるのではなく、時間の自由が利く私が毎月岩手に行く。家も、2人で暮らせる広さを借り、1回の滞在を長くいられるように仕事のスケジュールを調整することにしました。夫が出張で東京にきたら、もちろん家に泊まってもらう。それぞれの家をお互いに行き来し合う、別居婚スタイルの2拠点生活です。

●自分たちに合っていた別居婚スタイル。夫婦の関係も徐々に変化




夫が好きだった東北の桜

いざ、別居生活がはじまってみると、当初の心配や不安はどこへやら。美しく豊かな自然に癒され、夫は岩手の単身生活がとても気に入ってしまったのです。

「こっちはいいよ〜! のんびりするよ〜。早くおいでよ」
「車通勤って最高だな。もう東京の満員電車に乗りたくないよ」
「あそこの温泉は気持ちいいぞ〜。おまえも絶対行ったほうがいいよ」

と、電話をするたび、新天地での暮らしをじつに楽しそうに教えてくれるのです。夫も40代後半で、東京のサラリーマン生活に多少疲れた部分もあったのでしょう。初めてのひとり暮らし、初めての地方生活。なにもかもが新鮮でワクワクしたのかもしれません。そのうち、趣味のスポーツのクラブチームに入って心許せる仲間もでき、すっかり東北ライフを満喫していました。


東北赴任時代に出かけた青森旅行

私と夫の関係も、少しずつ変わっていきました。端的にいうと、一緒に暮らしていたときよりいい関係になってきたのです。東京では近くにいるのが当たり前で、お互い忙しくよくも悪くも無関心になっていましたが、別居生活になれば会う時間は限られています。月に1週間前後の滞在時は名所や温泉めぐり、食べ歩き、お祭りなど、東北6県を積極的に楽しみ、家事も協力しあうように。

その後夫はさらに2度転勤をすることに。1年目より2年目。3年目より4年目と、年数を重ねるごとに慣れ、10年目を迎える頃にはすっかり成熟した別居生活が成り立つようになっていました。

「会える時間は、楽しく過ごそう」
それは、口に出さずともお互いが考えていたことで、今思うと遠距離恋愛のような日々でした。

●2拠点生活を送った9年間の幸せな思い出が生きる力に



その後、東日本大震災や他県への転勤、私と夫の入院手術、親の介護、看取りなど、さまざまな出来事がありながらも幸せに暮らせた9年間。3か所めの単身赴任先の自宅で夫は急死してしまい、楽しかった2拠点生活は突然終わりを迎えました。


夫が最後に赴任した土地での思い出の写真

もし、この運命を知っていたなら、単身赴任は選択しなかった…。でも、人生に「たら」「れば」はありません。最後に夫に会ったとき、こんなことを言っていました。

「俺たちには、単身赴任生活は大正解だったな!」

あまり事情を知らない人に「別々に暮らすなんて、夫婦でいる意味あるの?」と言われたこともありました。でも、夫婦一緒だからいいとも限りません。私たちの場合は、物理的な距離があったからこそ、思いやりがもてた。夫も、私も、自分の人生をそれぞれ楽しく過ごせた。

東京の居場所を残してくれたおかげで、夫亡きあと途方にくれずにすんだ。たくさんのすばらしい思い出がつくれたのだから、後悔はしません。私たちなりに、ベストを尽くしたかたちだったのです。

距離が必要なのは親子も同じ。離れることで良好になった母との関係



「離れていい関係になる」のは、夫婦だけでなく親子でも同じだと感じています。

90歳になる私の母は、85歳から施設に入居しているのですが、ひとり暮らしをしていた頃はそれなりに元気だと思って、たまにしか顏を出していませんでした。でも、母が私たちのことも考えて自ら高齢者施設に入ると言い出したとき、やっと母のことに思いをはせるようになったのです。

もっと話をしなくては。施設で退屈しないように、快適に過ごせるように考えなくては。直接的な介護をしない分、それ以外のこと。居室を居心地よく整えたり、おいしいものや暇つぶしのものを差し入れたり、生活のサポートをできる限りしてあげたいと思いました。

幸い母はパソコンが使えたので、iPadを渡し、LINEやメールの使い方、お気に入りサイトの登録の仕方など入居前に猛練習。そのかいあって、コロナ禍で月に1回しか会えない今も、LINEのビデオ通話で顏を見ながら世間話ができています。


90歳の母と交わすLINEも日々の楽しみに

子どもの頃は、厳しい母とはあまり会話もしなかったのに、この年になって、母が好きな氷川きよしさんの新曲情報をLINEで話す日がくるとは夢にも思いませんでした。もしも同居などしていたら、きっとけんかばかりで優しくできなかったと思うと、母の決断には感謝しかありません。

●50歳をすぎて、家族の形や暮らし方について思うこと



夫婦や親子は、距離や形式、思い込み、世間の常識などに縛られて「こうあるべき」と考えがちです。でも、50歳すぎて、つくづく思います。夫婦や家族の形、暮らし方や絆のもち方は人それぞれ。自分たちにとって幸せならば、それでいいはず。

単身赴任自体は、リモート、オンライン化の流れにのって今後減っていくと思いますが、逆に、辞令ではない自由意志で2拠点生活を選ぶ夫婦もいるでしょう。ちなみに、私の姉夫婦は介護別居で2拠点生活を実践中ですが、毎日LINEを送り合い、励まし合いながら楽しく暮らしているようです。形を変えながら続いていくのが、家族なのかもしれない。夫を見送り、母を見守る年になって、そんなことをしみじみと感じています。

【佐藤由香さん】



生活情報ライター。1968年埼玉県生まれ。編集プロダクションを経て、2011年に女性だけの編集ユニット「シェルト・ゴ」を立ち上げる。料理、片づけ、節約、家事など暮らしまわりに関する情報を中心に、雑誌や書籍で執筆。