渋沢栄一ドラッカーの共通点から見えてくるものがあります(写真:Caito/PIXTA)

2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公である渋沢栄一。その渋沢の業績を「マネジメントの父」と呼ばれるピーター・ドラッカーは大いに賞賛し、授業でもたびたび取り上げている。ドラッカーに直接学んだことがある経営コンサルタントの國貞克則氏が、著書『渋沢栄一ドラッカー 未来創造の方法論』を基に、渋沢とドラッカーの共通点を追いながら、コロナ禍により混迷を極める現代のビジネスパーソンが身につけるべき力とは何かを解説します。

渋沢栄一ドラッカーも決して順風満帆の人生だったわけではない。時代の荒波に翻弄されながら紆余曲折の人生を送っている。しかし、2人共その紆余曲折の人生の中で、自らの使命を見定め、大きな成果を残した。

ドラッカー渋沢栄一を高く評価していた。ドラッカーが書いた本や論文の中にも渋沢栄一の名前は随所に出てくる。では何を評価していたのだろうか。ドラッカーの『マネジメント務め、責任、実践』(有賀裕子訳、日経BP)には次のような文章がある。

渋沢栄一が、誰よりも早く1870年代から80年代にかけて、企業と国家の目標、企業のニーズと個人の倫理との関係という本質的な問いを提起した。20世紀に日本は経済大国として興隆したが、それは渋沢栄一の思想と業績によるところが大きい」

渋沢の洞察力を高く評価していたドラッカー

『断絶の時代』(上田惇生訳、ダイヤモンド社)では、かなりの紙面を使って岩崎弥太郎と渋沢栄一の偉業について解説している。

「岩崎弥太郎と渋沢栄一の名は、国外では、わずかの日本研究家が知るだけである。しかしながら彼らの偉業は、ロスチャイルド、モルガン、クルップ、ロックフェラーを凌ぐ。

(中略)岩崎と渋沢は、たんなる豊かな日本ではなく、創造力のある強い日本をつくろうとした。いずれも、経済発展の本質は、貧しい人たちを豊かにすることではなく、貧しい人たちの生産性を高めることであることを知っていた。そのためには、生産要素の生産性を高めなければならなかった。資金と人材の力を存分に発揮させなければならなかった」

ドラッカー渋沢栄一を高く評価していた理由は、渋沢が500社に及ぶ会社を設立したということだけでなく、渋沢の基本的な考え方や鋭い洞察力を評価していたからだ。

渋沢栄一は西洋のカンパニーという仕組みを使って、当時の日本にはなかった新しい事業を次々に生み出し社会的イノベーションを起こした。一方ドラッカーは、「マネジメント」という言葉さえあまり使われていなかった時代に、人類史上初めてマネジメントという分野を体系化した。2人はなぜ新しい未来を創造できたのだろうか。

実は、渋沢栄一ドラッカーはよく似ている。考え方がよく似ているだけでなく、生き方までよく似ている。

まず浮かびあがってくるのは「高く広い視点で時代が要請するものを見極めていた」ということである。

渋沢にはつねに天下国家という意識があった。また、運よく西洋の地を訪れ、当時の西洋の様子を自分の目で見ていた。そして日本は西洋による植民地化を避けるために富国強兵を旗印とし、産業の育成が急務だった。渋沢は、明治という時代が求める、ありとあらゆる事業を設立していった。

渋沢の事業の設立の順番も理にかなっている。まず、経済の血流と言われる銀行を設立した。それは、事業に融資するという日本で初めての銀行だった。ちなみに「銀行」という言葉を作ったのも渋沢である。次に製紙会社を設立している。明治になって税は紙幣で納めることになった。また、全国に義務教育の学校が設立され教科書が必要になった。明治初期という時代は大量の紙が必要になった時代だったのだ。

ドラッカーの心の根底にある「人間の幸せ」

ドラッカーも同じである。ドラッカーはつねに社会全体という視点でものを考えていた。ドラッカーがなぜマネジメントの研究を始めたのか。そこには、社会の大きな変化が影響していた。

19世紀まで人類の大半は、靴職人とか農民とかといったように個人で働いていた。それが20世紀には、人類の大半が組織で働くようになった。そういう社会である以上、組織のマネジメントがうまく機能しなければ人類は幸せになれない。そういう時代の要請が、彼をマネジメントの研究に向かわせたのだ。

ドラッカーの心の根底にあるのは「人間の幸せ」である。ドラッカーは「人間はどうすれば幸せになるか」、とくに「仕事を通して人間はどうすれば幸せになるか」を考え続けた人だった。

渋沢栄一ドラッカーが変化の時代に大きな成果をあげえたのは、高く広い視点で時代が求めているものを見極め、時代が求めているものに彼らの時間を使ったからなのだ。

渋沢栄一ドラッカーに共通する2点目は、「本質を見極めていた」ということである。彼らは事業において極めて重要なのが「専門的経営者」であることを見極めていた。

渋沢は彼の著書『青淵百話』の中で、起業に関する重要な4つの注意事項を挙げているが、その1つが「事業が成立したとき、その経営者に適当な人物がいるかどうかを考えること」である。渋沢は彼が創業に携わったすべての企業の経営を行ったわけではない。渋沢は事業を起こす際に、事業が始まるはるかに前から経営者となる優秀な人材を探している。

例えば、大阪紡績という事業を立ち上げる際には、津和野藩出身で当時ロンドン大学に留学していた山辺丈夫という人物に、渋沢自身が手紙を書き、経営者になるよう依頼している。だからこそ、500社もの会社を設立することができたのだ。

一方、ドラッカーは社会生態学者として、社会の本質を見極めることに天賦の才があり、社会の本質を見極めることを仕事としていた。ドラッカーはマネジメントの全体像とその本質を整理したことによって「マネジメントの父」と呼ばれるようになった。

ドラッカーはマネジメントの全体像とその本質を整理しただけでなく、変化の本質、未来の本質、そしてその未来の本質から導き出される未来創造の本質についても整理してくれている。

渋沢の心の奥底にあった官尊民卑への憤り

渋沢栄一ドラッカーに共通する3点目は、ある時点で「だれもやっていない新しい道を歩むことを決意した」ということだ。

渋沢栄一は、ただ単に民に出て事業を始めることを決意したのではなく、論語の道徳観をベースに、民に品位と才能のある人材を育てることを決意したのだった。渋沢は若いころから高い志を持っていた。彼の志の高さは論語や陽明学といった東洋思想の影響だったと思われる。ただ、渋沢栄一の心の奥底にあったのは、官尊民卑への憤りだった。

渋沢は農民だった若いころに、地元の代官から軽蔑され嘲弄される屈辱的な扱いを受けている。この不条理に対する憤りが、彼に武士になることの想いを起こさせた。さらに、西洋を訪れたときに、官と民の人間が対等に話しているのを見て、官尊民卑を打破したいという想いを強めていった。

渋沢が民に出ることを決意した際には、民に出ても「世間から軽蔑を受けて一生役人にあごで使われるだけだ」と慰留されるが、渋沢は決意を変えることはなかった。渋沢栄一、33歳のときである。

一方、ドラッカーはマネジメントを研究することを決意する。彼をマネジメントに向かわせたのは、前述したように、人類の多くが組織で働くようになったからだった。

ドラッカーのマネジメント研究は、アメリカの大手自動車メーカーGMの調査から始まった。それはくしくも渋沢と同じ、ドラッカー33歳のときだった。その調査を基に出版した『企業とは何か』は、GMの経営陣から否定され無視され続けた。

また、ドラッカーが当時教鞭をとっていたベニントン大学の学長からは「あなたは経済学者としても政治学者としても、立派にスタートしたと思いますよ。しかし、企業を政治的機関とか社会的機関として扱う本は、学者としての経歴上はマイナスになるかもしれませんよ」と言われたという。実際にこの本が出てから、当時の経済学者も政治学者もドラッカーを胡散臭いと見るようになった。

しかし、ドラッカーは自らの方向を変えることはなく、マネジメントの研究にさらに突き進んでいった。ドラッカーのマネジメントに対する強い想いはどこからきたのだろうか。

ビジネスに関心があったわけではない

ドラッカーは『マネジメント課題、責任、実践』(上田惇生訳、ダイヤモンド社)で次のように述べている。

「組織が成果をあげられないならば、個人もありえず、自己実現を可能とする社会もありえない。(中略)自立した組織に代わるものは、全体主義による独裁である。(中略)成果をあげる責任あるマネジメントこそ全体主義に代わるものであり、われわれを全体主義から守る唯一の手立てである」

さらに、前出の『断絶の時代』では次のようにも述べている。

「そもそも私が、1940年代の初めにマネジメントの研究に着手したのは、ビジネスに関心があったからではなかった。今日でもそれほどの関心はない。しかし私は主として第2次大戦の経験から、自由な社会の実現のためにはマネジメントが必要であると確信するようになった」

ドラッカーは、第1次世界大戦と第2次世界大戦を目の当たりにしている世代である。オーストリアの貿易省事務次官の息子だったドラッカーは、第1次世界大戦後で職の見つからないオーストリアを離れ、職を転々とする。第2次世界大戦でヒトラーが実権を握ると、ヨーロッパ大陸を離れ、イギリスに移り、その後アメリカに移った。

ドラッカーはユダヤ系オーストリア人である。第2次世界大戦後、ヒトラーやスターリンが行った残虐な行為が明らかにされるにつけ、それは「私の想像をはるかに超える悪辣さだった。そして、そのあまりのことに私は人間に絶望した」(『断絶の時代』)とドラッカーは述べている。

人間存在に根ざした強い思いがあった

読者のみなさんも想像してみていただきたい。1人の独裁者のために、家族と別れ、母国を離れ、いろんな国を転々としなければならなかったことを。そして、たくさんのユダヤ人の同胞が虐殺された事実を知ったドラッカーの心情を。


ドラッカーのマネジメント研究の奥底には、人間への絶望、独裁に対する憤り、不条理に対するやり場のない感情があったことは間違いない。

渋沢栄一ドラッカーの強い想いを、志とか使命感とかといった言葉にするのは軽すぎるような気がする。人はだれも口には出さない、さまざまなものを抱えて生きている。

彼らの強い想いは、彼らのそれぞれの憤りや絶望といった人間存在に根ざしたものだったのだ。

そのような人間存在に根ざした強い想いが、その人を持続的な行動に向かわせ、成果につなげさせるのだ。強い想いがないところで人は何も生みだせないと思う。