「デビュー3戦連続KO」野村監督が18歳田中将大を「無視」した深い理由
*本稿は、野村克也『頭を使え、心を燃やせ 野村克也究極語録』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■初登板、57球6失点でKO…
箸にも棒にもかからない段階、すなわち三流のうちは無視。少し見込みが出てきたら、つまり二流と呼べるようになったら賞賛。そして組織の中心を担うようになったら、すなわち一流は非難する──。
これは、野球にかぎらず、すべての世界で「一流」と呼ばれる人間を育てる際の原理原則だと私は思っている。監督として私は、つねに選手にそのように接してきた。
ニューヨーク・ヤンキースのエースともなった田中将大が楽天に入団してきたのは、私が監督になって2年目のときだった。高校を出たばかりの18歳だった田中を、私はいきなり先発でデビューさせた。相手は強力打線を誇った福岡ソフトバンクホークス。しかも舞台は敵地である。
結果から述べれば、田中はめった打ちにあった。2回もたず、6安打6失点、57球でKOされた。それはある程度予想されたことだから、かまわなかった。私が見たかったのは、KOされた彼が、どんな顔をしてマウンドから降りるかということだった。
■人間は「無視」「賞賛」「非難」の順で試される
その選手の将来性を判断するひとつの基準として私は、三振したり、KOされたりしたとき、どんな顔をしてベンチに帰ってくるかに注目していた。
照れ笑いなのか、恥ずかしさを隠すためなのかは知らないが、へらへら笑顔で戻ってくる選手。これはまったく見込みがない。悔しさを前面に押し出した表情を浮かべている選手、「このくらいで負けてたまるか」という闘争心をたぎらせている選手は、大いに期待できる。私の経験上、まず間違いはなかった。
田中はどうだったか。むろん、後者だった。顔を真っ赤にしてベンチに戻ってくると、悔し涙さえ見せた。それこそ私が彼に期待していたことだった。悔し涙に濡れる彼を見て、私は確信した。
「この子は楽天を、いや球界を代表するピッチャーに成長する」
■3連続KOの18歳を「無視」したワケ
田中将大がデビューから3試合連続でKOされたとき、実は私は怒りもしなければ、なぐさめもしなかった。無視した。
初勝利をあげ、先発ローテーションの座を確固たるものにすると、「マーくん、神の子、不思議な子」ともちあげたりして賞賛した。しかし、2年目以降、完全に楽天のエースとなってからは、めったにほめることはなかった。むしろ苦言を呈することが増えた。
選手の側からこれを見れば、無視されたとき、賞賛されたとき、非難されたとき、それぞれどのように受け止め、いかなる行動をとるかによって、一流になれるかどうかが決まるということだ。この3つの段階で、人は試されるのだ。
■「一流」になる人間の分岐点
実力が伴(とも)なわない状態のとき、監督に無視された。それでふてくされたり、「自分を認めない監督が悪い」と逆恨みするようではまったくお話にならない。認められないのはなにが原因なのかを探り、認められるためにはなにをしなければならないかを考え、試行錯誤することから人の成長ははじまるのだ。
そうした努力が結実し、存在を認められ、与えられた仕事で結果を出したことで賞賛されたとしよう。ほめられればうれしいから、もっとがんばろうと思うだろう。監督やコーチも意欲をさらに引き出そうとして、もっとほめるに違いない。
しかし、ほめられているうちはしょせん二流である。ほめられたことで満足してしまえば、その人間は二流止まりなのだ。ましてや「おれはできるのだ」と自惚(うぬぼ)れたり、いい気になって勘違いをするなどもってのほか。
ほめられても「自分はまだまだなのだ」と自戒し、「もっとやらなければいけない」という謙虚な気持ちでもって、さらなる努力に勤しむ。さもなければ、それ以上の成長、すなわち一流になることは望めない。
■期待の裏返しの厳しい言葉にどう応えるか
そうしていよいよ組織を背負って立つ人材になったとする。すると、ほめられることは少なくなり、逆に叱責されることが増えるだろう。「ちくしょう」と思うかもしれない。しかし、その非難こそ一流になった証(あかし)なのである。むしろ喜ぶべきだ。
なぜなら、一流になれば当然求められるレベルは高くなる。それまでと同じ結果を出すだけでは、周囲は満足しない。だから叱責する。叱責されるのは「もっとできるはずだ」という期待の裏返しなのである。
したがって、非難されたからといって、「もうダメだ」と気落ちしている場合ではない。「悪いのはおれじゃない」と不平を口にするのは、もっといけない。「いまに見ていろよ」「見返してやる」と考えることができれば、その人間はさらに伸びる。
繰り返すが、無視されているうちは三流、ほめられるようになってようやく二流、非難されてはじめて一流といえる。段階ごとにいかなる反応を示すかで、その人間の評価は決まるのだ。
■勝利の女神は「言い訳」が嫌い
勝利の女神がもっとも嫌うものはなにか。長年、勝負の世界で生きてきた私はこう思う。
「言い訳である」
失敗したとき、自己弁護したり、他人に責任を転嫁したりするのを、勝利の女神はもっとも嫌っているように私には見えるのだ。
「言い訳をするは易く、言い訳を聞くは腹立たしい」というが、私も同感だ。人間は自分がかわいいから、つい言い訳をしたくなるものだ。しかし、言い訳ほど聞いていて見苦しく、腹が立つものもない。
失敗を認めるのがつらいのは私とて同じだ。できることならそのまま見過ごしたいし、叱責されれば原因と責任を自分以外に転嫁したくなる。
しかし、失敗を認め、現実ときちんと向き合い、反省し、取り組み方を変えなければ、同じ失敗を繰り返すことになる。そんな人間とは、誰も一緒に仕事をしたいとは思わない。そして、どうやら勝利の女神はとりわけその傾向が強いようなのだ。
■悪い結果は「自分の責任」
実際、私の知るかぎりでは、言い訳をした選手は伸びたためしがない。
たとえば、ホームランを打たれて、「どうしてインコースを投げさせたんだ」とキャッチャーが監督から問い詰められたとする。そのとき、「アウトコースを要求したのにコントロールが悪くてインコースに行ったんです」と、ピッチャーの責任にするようなキャッチャーは、ピッチャーの信頼を得られないし、遅かれ早かれチームの信用も失うだろう。それ以上成長することもない。
たとえ、それが事実であっても、コントロールが悪いなら、それなりのリードのしかたがある。自慢ではないが、私はいつも、「打たれたらキャッチャーである自分の責任」と考えていた。監督に怒られても、言い訳しなかった。
結果を自分の責任として受け入れれば、「二度と同じ失敗はしたくない」とみな思うから、おのずと別の方法を考えることになる。置かれた状況のなかで、どうしたら成功する確率が高くなるかを考えることで創意工夫が生まれ、キャッチャーとして成長するのである。
■「疑問を持つ力」と「学ぶ力」
打たれたことをピッチャーのせいにしてしまえば、それ以上思考することはないし、したがって行動が変わることもない。みずから成長を拒否しているようなものである。失敗しても決して弁解せず、「なぜ」という疑問をより多く抱いて、失敗から学び取る能力にすぐれた者を一流と呼ぶのである。
勝利の女神はとびきりいい耳をしているらしく、ちょっとでも言い訳めいたことを口にした人間には、二度と近づかない。
半世紀以上、勝負の世界で生きてきた私の実感である。
それでも、どうしても言い訳したくなったときはどうするか。即座に「ごめんなさい」と謝ることだ。「ごめんなさい、すみません」という言葉は、言い訳を自動的に断ち切る効用をもっているからである。
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野村 克也(のむら・かつや)
野球評論家
1935年、京都府生まれ。54年、京都府立峰山高校卒業。南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)へテスト生として入団。MVP5回、首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回、ベストナイン19回などの成績を残す。65年には戦後初の三冠王にも輝いた。70年、捕手兼任で監督に就任。73年のパ・リーグ優勝に導く。後にロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)、西武ライオンズでプレー。80年に現役引退。通算成績は、2901安打、657本塁打、1988打点、打率.277。90〜98年、ヤクルトスワローズ監督、4回優勝。99〜2001年、阪神タイガース監督。06〜09年、東北楽天ゴールデンイーグルス監督を務めた。
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(野球評論家 野村 克也)