「抑えるの諦めていた」 日米通算234Sの守護神が戦った2000年代の強打者は?
元ロッテ守護神・小林雅英氏は和田、カブレラ、松井稼…当時の西武打線を回想
ロッテ、米大リーグ・インディアンスなどで守護神として活躍し日米通算234セーブを挙げた“幕張の防波堤”こと小林雅英氏にも、「抑えるのを諦めた」という打者がいた。それほどの“超苦手”がいても傷口を広げず、失点を最小限にとどめるための独特の思考法があった。
「対戦成績が悪かったのは西武時代の和田さんでしたが、『凄い』と思ったのはカブレラです」。小林氏は現役時代に名勝負を繰り広げた数々のライバルたちを振り返り、まず2人の名前を挙げた。
通算2025安打の和田一浩氏と日本で通算357本塁打を放ったアレックス・カブレラ氏は、ともに2000年代に西武打線の主軸を務め、ロッテのクローザーの小林氏とは何度も対戦。特にカブレラ氏には、来日1年目の2001年、西武ドーム(現メットライフドーム)での初対戦で衝撃的な本塁打を浴びた。
小林氏は内角低めに投じた150キロ超のシュートで詰まらせたが、打球は左翼ポールを直撃。小林氏は「それまで、右打者にあのコースのシュートを初見で打たれたことはありませんでした。当てられたとしても必ずファウルになるので、カウントを稼げると計算していました。詰まらせたボールをあそこまで飛ばされたのも初めてでした」と振り返る。
そもそも試合前のフリー打撃でも、西武ドームのバックスクリーンの上を超えていく特大弾を連発。小林氏は「うわ〜、こいつスゲー! こんなバッター、見たことない」と仰天した。
そんな舶来砲と対戦する時、小林氏が心がけるようにした鉄則は「腕が伸びる所には投げない」だった。普通は窮屈な打ち方になる内角であっても、腕が伸びる低めは危険ゾーンであることは、初対戦の衝撃で痛感していた。狙い目は「内角の高め。もしくは、スライダーの“くそワンバン”を振らせる」というものだった。
和田氏にしてもカブレラ氏にしても、対策がないわけではなかった。しかし、当時の西武にはもう1人、「抑えるのを諦めた。抑えようとする努力が無駄だったので……」と完全に白旗を掲げた打者がいた。1歳下のスイッチヒッターで日米通算2705安打を記録した松井稼頭央氏(現西武2軍監督)である。俊足、確実性、長打力まで兼ね備えていた。
「内角低めのワンバウンドになりそうなスライダーを、クルッと回ってライト線に打たれた時、諦めがつきましたよ。あのボールをあそこに打つんだったら、投げるボールがないや、と」と肩をすくめる。
現役引退後は投手コーチ、見つけたメンタル弱者の“共通点”
手を抜くわけではないが、「彼に力を注ぐより、どうせ打たれるなら、注がないで打たれた方が次の打者に集中できる。一生懸命投げずに、抑えられればラッキー。最初からあきらめていれば、ヒットを打たれても苦にならない」と考えるようにした。松井氏は足も速いので「どうせ盗塁もするよね? ランナー二塁から始めましょ」とまで覚悟していたという。松井氏に打たれた上に走られ、心を折られた状態で中軸のカブレラ氏や和田氏を迎える方が、“被害”が大きくなると考えていた。
重要なのは小林氏が、打たれてもやむをえない打者と、比較的抑えやすい、絶対に抑えなければならない打者を明確に分けて認識していたことだろう。小林氏は現役引退後にオリックスで3年間、ロッテで4年間コーチを務め、「『僕、メンタルが弱いんです』と言う投手には共通点がある。1、自分なりのプランがない 2、失敗の許容範囲をつくっていない──の2点。だから四球を1つ出しただけで、次の打者に向かう時に、どうしよう、どうしようとバタバタする」と気づいた。
そして、ピッチングの極意を「何かしら『こうしよう』とはっきりした考えを持って打者と対戦していくこと。『どうしよう』というマイナス思考はダメ。『こうしよう』と『どうしよう』は、1字違いで大違いです」と表現する。
「どうしよう」ではなく「こうしよう」……体格、能力に恵まれながら殻を破れずにくすぶっている数多くの選手たちに、小林氏の思考法を教えてあげたい気がする。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)