私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第15回
初めての日本代表で経験した「ドーハの悲劇」〜 三浦泰年(1)

「今までドーハのことを話すのも、思い出すのもイヤでした」

 三浦泰年は少し思い詰めた表情で、そう語った。

「ドーハの悲劇」から27年、日本はW杯に6大会連続で出場し、ベスト16を三度達成した。今やすっかりW杯常連国となったが、三浦の心の中には今も爪で抉(えぐ)られたような傷が残っている。だが、過去を引きずったままでは前には進めない。進むためには、辛い経験を振り返り、検証することが必要になる。

「そろそろ、ドーハを語る時期が来たのかもしれませんね」

 三浦は、27年ぶりに、その記憶の扉を開けようとしていた――。


アジア・アフリカ選手権に弟・カズ(上段右)とともに出場した三浦泰年(下段右から2番目)photo by Shinichi Yamada/AFLO

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 1993年、清水エスパルスで主将を務め、プレーしていた三浦に日本代表招集の声がかかったのは、9月25日だった。

 最初は、「えっ、このタイミングで」と思ったという。

 日本代表は、9月10日から25日まで、アメリカW杯アジア最終予選を戦うためにスペイン合宿をこなしていた。柱谷哲二はウイルス性の風邪で入院して参加できなかったが、彼以外でここに呼ばれていない選手は、普通に考えれば最終予選の出場は、ほぼノーチャンスだった。

 だが、9月29日、三浦はいきなり、しかも初めて日本代表に招集されたのだ。

「スペイン合宿に呼ばれていなかったので、その時点でアメリカW杯最終予選を戦う代表入りはないという認識でした。チーム(清水エスパルス)のレオン監督から代表入りの話を聞いた時はやれる自信はあったけど、タイミング的にも選手の層を見ても自分がいなくても大丈夫なチームなんじゃないかと思っていました」

 三浦は、ハンス・オフト率いる日本代表に特別な思い入れを持って応援していた。

 92年に読売クラブから清水に移籍したが、日本代表には弟のカズ(三浦知良)をはじめ、ラモス瑠偉や堀池巧ら両チームから多くの選手が招集され、プレーしていたからだ。

 1次予選を戦っていた頃、三浦は甲状腺の機能亢進症になり、入院生活を送っていたが、代表の試合が気になって仕方なかった。病院のテレビは衛星放送が映らないので、試合中継の日は病院近くのホテルに部屋を取り、応援するほどだった。

「代表の試合は自分の試合以上にドキドキして、勝ち負けにこだわりながら見ていた。その頃は、別に代表に入れなくて悔しいとかはなかったです。選ばれていなくてもチームの一員のつもりで戦う気分でした。だから代表に呼ばれた時は、本当にうれしかった。僕の夢はコレだったんだと実感したし、夢が叶ったんだと思った。『代表でできるだけ多くの試合に出たい、このチームに1日でも長くいたい』と思っていました」

 チームに合流した三浦は、最初の紅白戦で本職であるボランチとしてプレー。だが、10月4日に開催されるアジア・アフリカ選手権前の最後の紅白戦では、左サイドバック(SB)に入っていた。

「(左サイドバックを)やるんだろうなって思っていました。オフトから左サイドバックをやる可能性が高いと言われていたし、カリオカ(ラモス瑠偉)からもそう言われていた。攻撃的なチームの左サイドバックなら読売時代にやっていたので得意だったのですが、国際試合では守備がかなり要求される。これは簡単な役割ではないと思っていました」

 日本代表に呼ばれ、左SBに起用された理由としては、レギュラーの都並敏史の左足首の状態が悪く、W杯の最終予選の初戦は累積警告で出場停止だったからだ。

 その代役として、スペイン合宿で試された選手もいたが、オフトの御眼鏡にはかなわかった。三浦は、88年から89年にかけて読売クラブで左SBとしてプレーしていた。その時、一緒にプレーしていたラモスの「ヤスがいい」という進言もあり、三浦に白羽の矢が立ったのだ。

「都並さんの左足首のことは知っていました。でも、(都並さんが)抜けるのは最終予選の最初の1試合だけで、すぐに戻ってくると信じていました。それに自分が左サイドバックとして相手が嫌がる試合ができるのは、1、2試合だけ。相手にすぐにウィークポイントを見つけられてしまうのはわかっていたので、都並さんが復帰するまで自分の役割を果たし、なんとか持ちこたえられたらいいなと思っていました」

 初めての試合となるアジア・アフリカ選手権、コートジボワール戦で左SBとして出場した三浦は、オフトやラモスの期待に応えた。相手を完封し、決勝点となるゴールの起点になったのだ。

アメリカW杯アジア最終予選を振り返った三浦泰年

「カリオカ(ラモス瑠偉)を攻撃で活かす。左サイドからゲームを作る。その仕事はできたかなと思います」

 三浦は、芽生えた自信を持ってドーハへと旅立った。

 1993年10月15日、日本はアメリカW杯アジア最終予選、サウジアラビア戦を迎えた。

 三浦にとって、大きな責任を背負って戦うのは初めての経験だったが、そのことよりも守備のことが気になって仕方なかったという。


アメリカW杯アジア最終予選を振り返った三浦泰年

「最終ラインの真ん中の哲(柱谷哲二)さんと井原(正巳)、右サイドバックの堀池(巧)のバックラインは完成度がめちゃくちゃ高かったんです。だから、自分がそこに入って強い相手と戦った時にどうなるのか。例えば、ラインを上げてオフサイドを取るとき、そのアップ&ダウンの呼吸をキチッと合わせられるのか。守備のところで自分が機能するのか。チームに良い影響を与えられるのか……。日本の期待を背負っているというプレッシャーや緊張感よりも、その心配の方が強かったですね」

 三浦は本職がボランチなので対人の守備には自信があったが、SBはそれだけではなく、スペースを守ったり、スライドしたり、幅広い守備力が必要とされるポジションだ。オフトが「ディフェンスに冒険はいらない」と言ったように、守備のところでどれだけ貢献できるか。三浦はそれがチームの勝敗をも左右すると思っていた。
 
 サウジアラビア戦は0−0のドローに終わった。

 初戦ゆえに堅い試合になったが、当時アジアでは強豪国だったサウジアラビアに勝ち点1は、悪くはないスタートだった。三浦自身のプレーもラモスに絡み、いいリズムで攻撃が出来ていた。攻撃で上がったスペースを相手に突かれたことはあったが無難にこなし、無失点に抑えることができた。

「ヤス、よかったぞ」

 試合を終えた三浦は、都並からそう声をかけられた。

「都並さんは、いつも褒めてくれるんですよ。読売クラブで都並さんと左サイドバックのポジションを争っていた時も『おまえの左サイドバックは最高だ』っていつも言ってくれていたんです。でも、僕からするとまだまだなんで、『どこが最高なんですか?』って思っていた。だって、都並さんは自分の師匠みたいな人ですからね。サウジ戦後、都並さんから褒められましたけど、僕自身は良くも悪くもない、そこそこって感じでした」

 続くイラン戦も、三浦はスタメン出場を果たした。

 サウジアラビア戦で三浦は自分の役割を果たし、試合は引き分け。結果が出ていたので、セオリーどおり先発メンバーを変える必要はなかったのだ。

 試合が始まってすぐ、その期待に応えるように三浦は前線に攻め上がり、吉田光範のシュートをお膳立てした。だが、イランはラモス封じを徹底し、徐々に三浦のいる左サイドから圧力をかけ始めた。三浦はラモスにパスを預けたあと、すぐに上がって攻撃しようとしたが、そこを狙われ、逆に空いたスペースを突かれるシーンが増えた。この時、三浦は大会前に恐れていたことが現実になりつつあることに身が震えた。

「相手に威圧感を与えられる試合は1、2試合。必ずウィークポイントを見つけられてしまう」

 イランは、日本の左SBの弱点を見抜き、執拗に攻撃を仕掛けてきたのだ。火消しに追われれ、三浦の持ち味は消されていった。

(つづく)