五輪中止なら「新国立競技場」はどうすべきか
オリンピック後の新国立競技場の利用計画はどうなっているのでしょうか?(写真:矢作真弓/PIXTA)
世界のスポーツ用品市場で第3位の売り上げを誇り、日本でも年々認知度が高まっているアンダーアーマー。その日本総代理店として日本市場の開拓を一手に担うドーム社の安田秀一CEOは、業務の傍ら世界のスポーツビジネスの調査を続け、アメリカ、ヨーロッパのスポーツビジネスの「稼ぐ力」の強さを目の当たりにしてきた。
そんな安田氏の新刊『スポーツ立国論――日本人だけが知らない「経済、人材、健康」すべてを強くする戦略』が刊行された。
日本のスポーツビジネスの問題点とその改善策、およびスポーツをてこにした日本復活戦略を説く本書の中から、本記事ではオリンピック後の「新国立競技場」のあり方について解説してもらった。
何も行われず赤字を垂れ流すだけのスタジアム
新型コロナウイルスの蔓延によって、2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催が危惧されています。IOC(国際オリンピック委員会)のディック・パウンド委員が「事態が終息しなければ、東京オリンピックの中止を検討するだろう」として、5月までの判断が必要と語ったと報道されました。
多くの方が力を合わせて準備されてきたオリンピックです。何とかウイルス蔓延が収束し、無事に開催にこぎ着けることを願ってやまないのは、僕も読者の皆さんと同じ気持ちです。
ですが、楽観視してばかりはいられません。時には「最悪の事態」を想定し、あらかじめ対策を考えることも必要です。
「オリンピック中止」ともなれば本当にさまざまな問題が生じますが、ここではそのうちの1つ、オリンピックのメインスタジアムとして建設した「新国立競技場」をどうするか、という問題を考えたいと思います。
新国立競技場の総建設費は約1529億円。東京オリンピック・パラリンピックが中止になった場合、これだけの投資が「ムダ」になってしまいます。財政赤字に苦しむわが国としては、こんなムダだけは何としても避けなければなりません。
「オリンピックに使わなくてもスタジアム自体は残るのだから、『ムダ』は言いすぎなのではないか」
そんな声が聞こえてきそうですが、実はこの新国立競技場、オリンピック後にどのように使うか、「後利用」の計画が現時点でまったく見えてきません。
民間なら常識の「投資を回収する」発想がゼロ
新国立競技場については、計画段階から、政府をはじめとする関係者の方々へ直接提言をさせてもらったり、建設が着工されてからは、諸々の相談を受けたりしてきました。ただ、設計コンペの段階で「投資」という感覚、つまりは「資金を回収する」という感覚が関係者の誰にもまったくなかったため「オリンピック用のスタジアム、終わったらどうしたらいいでしょうか? 誰か何とかしてくれないでしょうか?」という、そのくらいの意思しか感じられない「相談」でした。
担当の役人の方も、そもそも新国立競技場の建設に主体性があったわけではなく「上からつくれって言われたから仕方ない。それを何とかしろ、って言われているから仕方ない」という雰囲気でしたし、完成後も何人かの関係者とお会いしましたが、「つくってしまったんだから仕方ない。それをどうするか考えよう」という調子でした。
僕の感覚から言えば「仕方ない、だから次の策」では何の蓄積にもならないので、とにもかくにも「どこで、なぜ、こうなってしまったのか」とういう振り返りを明確にすべきだと思っています。
新国立競技場の年間維持費は24億円と言われています。このままでは、これがまるまる赤字となります。1529億円の建設費の減価償却費も加味すると、50年で償却したとしても年間約30.6億円ですから、本来は合計54億円が毎年目指すべき収益となるはずです。
この新国立競技場、2015年までは故ザハ・ハディドさん設計による2500億円を超える巨大なスタジアムの建設が計画されていました。そもそも、このザハ案が白紙撤回されたことで、ザハ・ハディドさんへのデザイン料約14億円の支払いを含めて、約67億円の整備計画費が無駄になっています。ですので、本来はこの金額も新国立競技場のトータルコストに盛り込むべきでしょうし、この67億円の責任は誰がどう負うべきだったのか、ここも明確にすべきだと思います。
さらにさかのぼれば、2012年からこの新国立競技場計画はスタートしたのですが、ザハ案を採用したときの建設費用見積もりは約1300億円という計画でした。このときの選考審査委員の方々の名簿も明確に残っておりまして、当然のことながら建築の専門家の方もいらっしゃいました。
にもかかわらず、徐々にコストが膨れ上がって、最終的には計画の約2倍近い2500億円以上もの建設費がかかると判明。国民の非難を浴び、政府により白紙撤回されるに至りました。その後、隈研吾氏設計の現・新国立競技場に決定しましたが、建設費用としては1530億円と、ザハ案を採択した当時の金額よりも230億円も高い建設費で決着しました。
反省すべき点としては、そもそもこの建設計画に「スタジアム建設のグローバルスタンダード」がなかったことがあげられます。日本に由来するお寺や神社を宮大工がつくるのではないのです。欧米諸国を起源とするスポーツでありスタジアムです。
その欧米において当時はすでに「スタジアム」は最先端のスポーツビジネスモデルの1つでしたが、その専門家が1人も選考メンバーには存在していませんでした(話は少しそれますが、女性も1人もいませんでした)。
スタジアム「後利用」のお手本となったアトランタ
1990年代からアメリカにおいて、またヨーロッパにおいては2006年にドイツで行われたサッカーワールドカップ以降、世界のスポーツ先進国では「スタジアム改革」がグングンと音を立てるように進んできました。
国立競技場を運営する独立行政法人日本スポーツ振興センター(JSC)が新国立競技場の国際コンペを開いた2012年時点において、欧米では「スタジアムは儲かる」は常識ともいえる状態で、実際にたくさんの「ドル箱」のような収益力の高いスタジアムが新設されています。
日本においてもその「常識」は、特にプロ野球においては「とっくに」立証されていました。例えば、メジャーリーグのスタジアムを徹底的に研究し、2009年に開場した「MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島」です。このスタジアムの総建設費は約110億円です。そもそも1桁違うことに驚きますが、これは誤植ではありません。
もっと驚くべきはその収益力です。広島カープの2019年の総動員数は約222万人です。チケットや飲食などが1人単価5000円としたら、年間で111億円の売り上げです。その他、グッズの売り上げ、ネーミングライツ、球場内を埋め尽くす広告などなど、その収益源は多岐にわたります。「スタジアムはドル箱」が、日本でも実現されているのです。
そもそもプロ野球は年間142試合と興行機会が多く、プロ野球機構の定めるルールとして人工芝が可能ですので、メンテナンス費用を軽減することも、ドーム型にしてコンサート需要をつかむことも可能になり、収益幅はかなり大きいといえます。
そのうえで、「プロ野球とオリンピック」の関係で言えば、1996年の「アトランタオリンピック」におけるオリンピックスタジアムの事例は、世界のスポーツビジネスの常識として、海外では広く知られています。
アトランタオリンピックでは、オリンピックスタジアムをオリンピック終了後にメジャーリーグのアトランタブレーブスのスタジアムに改築することを前提に設計・建設されました。ですので、本来は楕円形であるはずの陸上競技場の一角が、ダイヤモンド型の野球場の形状をしています。
野球場への改築を前提に建てられたアトランタオリンピックのメインスタジアム。上は改築前。下は改築後(写真:(上)Simon Simon/Getty Images (下)Scott Cunningham/Getty Images )
それまでは1984年のロサンゼルスオリンピックのように、既存の競技場を改装して「2週間のお祭り」を行うことで、開催都市の経済的な負担を減らす、というのが成功の法則でした。このアトランタオリンピックにより、「スタジアムの後利用」という新しい成功事例が誕生したのです。
ちなみに、このアトランタオリンピックのスタジアムはアトランタブレーブスの使用する野球場になったのち、2017年にジョージア州立大学に売却され、アメリカンフットボールのスタジアムに再度改装されました。
アメリカンフットボールのスタジアムになっても、オリンピックスタジアムの際につくられたダイヤモンド型のスタンドの形状は残ったままです。「レガシー」を思いのままにしゃぶり尽くす。実需に合わせ、躊躇することなく大胆な改装を行うことで収益の最大化を目指す。アメリカのスポーツビジネスの奥深さ、逞しさを実感します。
日本においても「オリンピックスタジアムを国費で建設する」のであれば、これら海外の成功事例は当然ながら検討すべきであったと思います。しかし当時の資料を見ても、そういった議論がなされている様子はうかがえませんでした。
なぜ日本は「世界の常識」を学ばなかったのか
僕の個人的な話で恐縮ですが、今から約5年ほど前に「新国立競技場は大問題なんだけど……」と、同級生で友人である国会議員の後藤田正純君に話しました。もちろん、僕ごときが、こんな大きな話に関われるとはまったく思っていませんでしたが、あまりにも世界の常識とかけ離れたコンセプトと、建設費がどんどん上がっていく様子にいたたまれなくなって、友人に愚痴るような感覚でした。
ただその後藤田君、MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島とアトランタオリンピックの具体例があまりにも衝撃だったらしく、「これはすぐに動かないとダメだ」と、覚悟とともに相当な使命感を感じたようでした。
僕は後藤田君に言われるがまま、世界の事例を記載したよりわかりやすい資料を用意しました。内容は、ザハ案は破棄して、野球場に改造する前提でオリンピックスタジアムを建設する「アトランタオリンピックモデル」で行くべきだ、というものです。それを官邸、閣僚の方々をはじめとする数多くの政治家や官僚の方々に説明して歩きました。
ですが結果は、文字通りけんもほろろで「若造が何を勝手なことを……」という状態でした。「間に合うわけないだろ」「これ、XX先生が担当だからそっちに話してみてよ」と、ただただ煙たがられて終わりました。
とはいえ、一部マスコミの方々には響いたようで、当時、後藤田君を取材した記事は今でもネット上にたくさん掲載されています(「後藤田 新国立競技場」で検索すれば、当時の模様が読み取れると思います)。
「新国立競技場」の立地条件は破格
このプラン、新国立競技場が完成した現在でも、まだまだ可能性があります。それくらい「新国立競技場」の立地条件は破格です。
・経済と文化が融合する世界的大都市
・その大都市のど真ん中
・スタジアム建設可能な面積と環境
・世界トップの集客力を誇る「プロ野球チーム」の存在
東京には、これらすべての条件がそろっているのです。
道路の拡張工事さえ数十年かかってしまう大都市において、これだけの完璧な条件は、ポーカーで言えば「ロイヤルストレートフラッシュ」、麻雀で言えば「九蓮宝燈」とも言える「夢の確率」がすでに実現している状態と言えるでしょう。むしろ「天和」に近い状態かもしれません。
僕は、たいへん残念ではありますが、負のレガシーをつくらないために、解体に近い根本改装、つまりは「野球場」に改装するのが、国家、国民にとって最善の策だと思います。そしてそれが「真のオリンピックレガシー」になりうると思っています。
せっかくつくったスタジアムです。もちろん、僕ももったいないとは思います。でも、毎年24億円の赤字を垂れ流すほうが「もったいない」はずです。
以前から提言しているのですが、プロ野球チームを招致すればすべてのコストの回収はもちろん、「ドル箱化」は確実でしょう。シートやトイレ、建設資材などなど転用できるものも徹底して再利用して、新しいレガシーをつくること。アメリカが先行して実行しているスタジアム改装による収益化は、オリンピック開催が危ぶまれている今だからこそ、真剣に考えうる案件だと思います。
1940年にも「東京オリンピック」がありました。いや、あったはずでした。ただその当時は日中戦争の真っ只中で、当時の日本の組織委員会が自主的に大会自体を返上しました。
1980年のモスクワオリンピックでは、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻に抗議した西側諸国に連動、政府の決定事項として日本選手団はオリンピックを辞退しました。開催の約1カ月半前の出来事でした。
現在も、コロナウイルスの影響がどこまでオリンピックに及ぶのか、予断を許さない状況です。過去においても、不慮の事象により夢の舞台に立てなかったオリンピックアスリートがたくさんいました。昔も今も、若者たちの心の痛みに大小はありません。
困難の中だからこそ、考えるべきことがある
世界的な困難に直面している現在の状況下、人生をかけて出場権を勝ち取ったオリンピックアスリートの皆さんに置かれましては、本当に苦しい日々を送っていることだと思います。
実際には、オリンピックだけでなく、多くのスポーツイベント、大会、最後の引退試合などスポーツのみならず、卒業式、結婚式、お葬式ですら満足に行えないのが現在の状況です。
経済的な基盤を奪われ生活すら困難になっている方々、そもそも感染してしまった方々……地球は今、大きな苦しみを分かち合い、一丸となってこの難局の克服を目指している真っ最中だと思います。アスリートであればこそ、勇敢に、そして利他精神をもって、冷静に現状を受け入れ、オリンピック後、そして引退後も続くであろう自分の人生計画を改めて考える、そんな機会にすべきかもしれません。
アスリートはもちろん、すべての日本人が、東京オリンピックにおいて、起こりうるすべてのシナリオのシミュレーションをしておくことにデメリットは1つもありません。
近代オリンピックの大きなテーマに「都市のサスティナビリティ」があります。僕にとっても、巨額の資金をすでに投入してしまった今般の東京オリンピックにおいて、「都市のサスティナビリティとはいったいなんだろう」そんなことを、もう一度真剣に考え直すひとつのきっかけになっています。
上の画像をクリックすると、「コロナショック」が波及する経済・社会・政治の動きを多面的にリポートした記事の一覧にジャンプします
すなわち、「仕方ないでは済まされない」ということ。そして「スポーツの真の価値を開放する」ということです。スポーツは「金食い虫」などではなく、「金の生る木」なのです。
スポーツ界にはたくさんの言い伝えがありますが、その中に「チャンスはピンチの顔をしてやってくる」というものがあります。さまざまな課題が顕在、潜在する現在の地球において、スポーツがどんな役割を果たせるのか、スポーツを愛する皆さんともに真剣に考え、果敢に実行していかなければと思っております。