一流ランナーの足を守る、世界一メダルに近い「シューズ職人」のこだわり
2020年東京五輪イヤーを迎えようという2019年11月。都内で開催予定だった花形競技の男女マラソンが、国際オリンピック委員会(IOC)の意向で突如、札幌開催へと変更されてしまった。
【写真】瀬古選手の練習に付き合う三村さん、高橋尚子選手との食事会
'84年ロサンゼルス、'88年ソウルの両五輪に出場している日本陸上競技連盟マラソン強化戦略プロジェクトリーダー・瀬古利彦(63)は記者会見で「IOCという組織の前ではどうにもできない。もし“東京でやらなきゃ困ります”と言ったら、“五輪でマラソンはやらなくていい”と言われるのではないかという思いがあった」と苦渋の表情で語った。
まさに『陸王』のシューフィッター
有森裕子、高橋尚子、野口みずきなど数々の五輪マラソン・メダリストの“勝負靴”の製作を担当し、2006年には黄綬褒章も受章した競技スポーツ用シューズの職人・三村仁司(71)は、長くサポートし良好な関係を築いてきた瀬古の胸中を慮った。
「東京開催を睨んで、瀬古が中心となってわざわざ暑い時期の9月にマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)を実施するなど入念に準備してきたのに……。涼しい札幌開催になったら、アフリカ勢も走りやすくなるし、地元の利でメダルを狙っている日本勢にとっては明らかに不利になるよね……」
神妙な面持ちで語る三村は現在、『M.Lab(ミムラボ)』というシューズ工房を兵庫県加古川市で運営している。2018年1月からニューバランスの専属アドバイザーに就任し、同社の契約選手である神野大地(セルソース)、今井正人(トヨタ自動車九州)ら五輪を目指すランナーをサポートする側に立っている。仮に彼らが来年3月の代表選考レースで好記録を出し、3枚目の代表権を手にしたとしても、会場変更によってシューズ作りや調整の難易度は格段に上がる。
靴職人というのは、事前にコースを下見し、路面状態や気温、環境を事細かくチェックし、どんな素材がベストなのか、いかに選手の足にフィットさせるか徹底的に突き詰める。そのうえで、大一番に挑む1足のシューズを作る。三村はまさに池井戸潤原作の人気ドラマ『陸王』に登場するシューフィッターの先駆け的存在なのである。
「ひとつの商品を作るのには1年以上、ソールから作れば2年もの時間を要します。これまで私は五輪や世界陸上に合計11回行っていますけど、メダルをとったランナーでもすべての物事がスムーズに運んだ人はいないと言っても過言ではありません。
'92年バルセロナ五輪では有森が本番4日前に“足が痛い”と言ってきて、短時間で調整して走れる状態に直しましたし、2000年シドニー五輪でも足のサイズが左右微妙に違う高橋の靴のことでものすごく神経を遣いました」
急転直下、札幌開催となった東京五輪のマラソンで、日本勢が躍進し、お家芸復活を果たせるのか。選手個人の能力や環境適応による部分も大きいが、シューズのよしあしも非常に重要なポイントと言っていい。
世界で数えるほどしかいない靴職人・三村が生まれたのは、戦後間もない1948年8月。妹2人がいる3人きょうだいの長男として印南郡志方町(現・加古川市)で育ち、田んぼや畑を駆け回る活発な少年時代を過ごした。
ナンバーワンへの強いこだわり
池で泳いだり、大好きなソフトボールのピッチャーとしても鳴らしたが、いちばん得意だったのは駆けっこ。志方西小学校時代は毎年のようにリレーの選手として活躍し、志方町にある3つの小学校の対抗戦でも優勝するほどの存在感を誇った。
志方中学進学後は1か月だけ野球部に入ったものの、練習が厳しすぎて断念し、すぐに陸上部へ転籍。駅伝大会にも出場した。校内のマラソン大会も当然優勝できると本人も信じていたが、3年連続でまさかの2位。この屈辱感が生来の闘争心に火をつけた。
「当時は戦後のベビーブームで1学年350人もいましたから、そこで1番になれば、スターになれると思っていました。ところが、野球部の同級生に負け続けた。本当に腹が立ってしかたがなくて“この後の人生では1番になるんや”と決意したんです」
ナンバーワンへの強いこだわりが進路にも影響した。学業優秀だった三村は進学校を周囲からすすめられたが、「勉強より、陸上で1番になる」と県内随一の強豪校である飾磨工業高校を選択。姫路市内まで片道1時間半かけて通う日々が始まった。陸上部には県内のトップランナー20人が集結。下から2番目のブービーだったが、先輩たちの厳しい説教としごきが災いして1学期で3分の1が退部。2年に進級するときには半分に減り、同年秋にはわずか4人になってしまったという。
「私もきつくて心が折れそうになりましたけど、“親や先生の反対を押し切って飾磨へ行ったんだから高校の中では1番にならなアカン”という思いが強くて、絶対にやめることはできなかった。朝は6時に家を出て朝練をこなし、午後練をやって帰宅した後、21時ごろからまた家の近所を走ることもありました」
同じ釜の飯を食った同期メンバー、中川広信(71)も「三村は夏休みになると自宅から約30kmの距離を走ってきていました。キャプテンも務めましたけど、本当に負けず嫌いの男でした」と語る。
最終的に陸上部では1番になれたものの、高校総体は故障で欠場し、真の意味で「1番になる」という目標はかなわずじまい。その野心は社会人時代へと持ち越された。
三村は大学に進まず、スポーツメーカーへの就職を決意。親戚のツテを頼って神戸市内にあるオニツカ(現・アシックス)を受けに行くことになった。オニツカは'64年東京五輪で体操、レスリング、バレーボール、マラソンなどの競技で金メダル20個、銀メダル16個、銅メダル10個の合計46個を獲得している一流企業。そこに採用されたのは幸運に違いなかった。
「当時のグラウンドはどこも小石がいっぱいで、主流だった綿素材の靴がすぐに破れてしまう環境でした。私の場合は2週間で右足の外側が破れて継ぎ当てをして走っていましたけど、どうしても年間15〜20足は必要。1足880円だから年間1万〜2万円はかかります。教員の初任給が1万6000円の時代ですから、“ホントに靴を何とかせなアカン”という思いが強かった。“研究所でいい靴を作りたい”と目標を持って入りました」
自宅から会社まで40km走る
入社したのは高度成長期真っただ中の1966年。新入社員は150人で、7割方が中卒の工場勤務要員だった。高卒の三村は研究所に行けると期待したが、配属されたのは第2製造課。多品種少量生産の部署で、1種類あたり50〜100足を手作業で作る仕事だ。靴型に合わせてアウトソール、足型に合わせてインソールを手で裁断し、糊で貼る作業は非常に繊細で神経を遣う。「ナイフひとつ研ぐのに1〜2年かかる」とさえ言われていて、作業の難易度は高く、ひとつひとつ覚えていくのは大変だったというが、持ち前のガッツとド根性でぶつかった。
「“職場で1番になるんや”という気持ちは常に自分の中にありました。中学時代に万年2番だったことの反骨心が大きかったんでしょう。多少の失敗もありましたけど“また作り直したらええねん”と前向きな気持ちで働きましたね。怒る上司もいなかったですし、同じ職場のおばちゃんたちも“あんた、これ食べなさい”と毎日、昼飯を持ってきてくれた。職場環境には恵まれたね。6年いたけど、あそこで靴作りの基本を叩き込んだからこそ、その後の人生があったと思います」
6年後の'71年には念願の研究所へ異動。ゴムの配合やスポンジの強度など素材の研究を進めると同時に、クッション性・摩耗性・軽量性のバランスを見ながら強度をテストするなど、あらゆる角度から靴を徹底的に学ぶチャンスに恵まれた。
「加古川の自宅から会社まで40kmあったんですが、試作品をはいてその距離を走ることも頻繁にやりました。ソウル五輪のときに瀬古や新宅雅也、中山竹通がはいた靴は100gだったんですが、それだとマラソン2レースしかもたない。軽量化を追求すると耐久性に支障が出てしまう。そういうよしあしを実際に自分の足で確かめなければいけないと思って、よく走ったものです」
三村が学んだ「いい靴」というのは、以下の8条件が備わっているものだ。
耐久性、フィッティング性、通気性、軽量性、安定性、グリップ性、クッション性、衝撃吸収性。
これらすべてを備えた靴を作るのは至難のワザだが、ひとつの要素も欠いてはいけない。それを脳裏に刻み込んだうえで、3年後には開発部へ赴き、別注シューズの開発をスタート。同時に鬼塚喜八郎社長(当時)から直々に「『走る広告塔』になってくれる選手を探してこい」と指示を受け、トップランナーの開拓も任された。
地方の陸上大会をはじめ、全日本大学選手権や大学駅伝、実業団駅伝、全日本選手権など主要大会に通い詰めた三村は、'64年東京五輪でマラソンを走った君原健二、寺沢徹ら超一流選手とも親交を深めた。
さらに'76年モントリオール五輪の際には、宇佐美彰朗、宗茂、水上則安という男子マラソン代表3人の靴作りに携わるチャンスを得た。トップランナーもプロだが、三村も靴作りのプロ。単に「この靴はどうですか」「足に合いますか」「直すところはないですか」と御用聞きのように対応したらベストな走りは引き出せない……。そう考え、彼らが納得できるアドバイスや意見を口にできるよう努力を重ねた。
「足というのは中・高生の成長期や体重の増減があったとき、選手の走力がアップしたときに大きく変化します。足の特徴やケガの有無、走り方など個人差もあります。そういう知識を頭に叩き込んでいないと的確なアドバイスはできない。そうなるまでに5年くらいはかかったのかな。モントリオールのころはまだその領域には達していなかった気がしますね」
家にいない父、家族の支え
男ばかり70人の開発部に新入社員として入ってきた11歳年下の妻・美智子さん(60)と結婚したのは'77年のこと。後に3人の子どもにも恵まれた。
「もともとやり投げの選手だった私は、入社して陸上部に入り、主人に靴を作ってもらったのが最初の接点でした。部署も一緒でしたが、出張が多くて会社にはほとんどいない。結婚後も夫は多忙で子どもの授業参観や運動会にもほとんど来たことがない状態でしたが、家では仕事の愚痴ひとつこぼさず、子どもたちを可愛がる子煩悩な父親でした」
長女と長男は現在、『M.Lab』で一緒に働いている。
長女の由香里さん(40)は、「ウチは母子家庭みたいなものでした」と言う。
「小学生のとき、テレビでマラソンや陸上の大会を見ていると“今、お父さんはここに行ってるんだよ”と母に言われることがよくありました。仕事をしている姿を見たのは一緒に働き始めてから。朝から夜遅くまでご飯も食べずに靴の調整をする父の熱心な様子を見て、靴作りへの情熱を知り、初めて尊敬しましたね」
長男・修司さん(36)は子どものころの父親との数少ない思い出をこう打ち明ける。
「小学校のマラソン大会前の朝のランニングですね。朝食前に父が“一緒に走るぞ”と言って僕と姉を連れ出すのが日常茶飯事で、距離的には1〜2kmとそれほどでもなかったですけど、“自分が靴の仕事をしているから子どもたちは上位じゃないとダメ”というふうに考えている様子だった。そのプレッシャーを感じながら僕らも走りました」
瀬古にいい靴を作らなアカン
家族に支えられ、三村はより仕事に精を出した。その過程で絆を深めた選手は少なくなかった。筆頭が瀬古だ。早稲田大学時代に知り合い、'88年のソウル五輪で現役を退くまで10年以上サポートに回ってくれた三村のことを誰よりも慕っていた。中村清監督が当時60代半ばと年齢が大きく離れていたこともあり、年の近い靴職人は兄のような存在だったのだろう。
「大学に入るまで僕は市販のシューズをはいていたんですが、中村清監督に“別注のシューズを作ろう”と提案されて、紹介してくれたのが三村さんでした。第一印象は関西のぶっきらぼうなお兄ちゃん(笑)。三重出身の僕にとっても播州弁はキツく感じますからね。
その後、足型を取ってもらったりして完成した別注のシューズは本当にピッタリきた。三村さんの作ったスパイクでヨーロッパの大会に出て5000mと10000mで勝ち、'78年福岡国際も同じく三村さんのマラソンシューズで優勝したんです。福岡のときは5足くらい試作品をもらって、白と赤のラインのシンプルなデザインのものを選びましたけど、ソールやクッションの感覚もすごくよかった。それ以降、信頼関係がより深まり、ほかのシューズははけなくなった。やっぱり感性が全く違うんですよね」
三村にとっても瀬古は家族に近いものがあった。だからこそ、'80年モスクワ五輪のマラソンで金メダルをとらせたいと切望。彼のバランスのとれた走りと足裏の柔らかさを加味して、スポンジ底の布製の靴を用意していた。ところが、ソ連のアフガニスタン侵攻を受けて日本オリンピック委員会(JOC)はボイコットを決定。金メダルは幻と消えた。
三村はしみじみ悔しさを吐露した。
「本人も言ってますけど、あのとき走っていたら優勝は間違いなかった。瀬古と宗茂・猛兄弟で金銀銅とれた可能性も高かった。金メダルをとっていたらその後の人生も変わっていたやろうし、本当に悔やまれますね」
この悔しさを晴らすべく、瀬古本人は中村監督とともに気持ちを切り替え、'84年ロサンゼルス五輪に向かった。
三村もエスビー食品のニュージーランド合宿に毎年帯同。1か月をともに過ごし、ときには練習にも付き合った。
「いちばんの思い出は、オークランドのドメイン公園でやった5000m×8本のインターバル走。瀬古に“タイムを計ってほしい”と言われ、1本を14分45秒で走り、20分の休憩を挟みつつ8回繰り返すので、10時開始でも終わるのは夕方近くなる。自分も瀬古に付き合って紅茶と食パン1枚で粘りましたね。彼らはそこまで節制して記録を追求していた。トップランナーの地道な努力を見るたび、自分もいい靴を作らなアカンと感じましたね」
周囲の思いに応えるように瀬古は'83年の東京国際・福岡国際の両マラソン大会に優勝。ロス五輪イヤーを迎えた。だが、過度な練習がたたったのかコンディションが上がらず苦しんだ。本番直前には血尿が出るアクシデントも発生。女子マラソンに出場する同じエスビー食品の佐々木七恵のレースのため、ひと足先に現地入りしていた中村監督から事実を打ち明けられた三村は、ロスに到着した瀬古の青白い顔を見て「これは難しいな」と実感したという。
結局、ロスは14位。翌年5月に中村監督が急逝し、瀬古を取り巻く環境はガラリと変わったが、三村は相談相手として要所要所で傍らに寄り添い、9位でフィニッシュした'88年ソウル五輪まで後押しし続けた。
瀬古は改めて感謝の言葉を口にした。
「三村さんの存在は僕のランナー人生そのものという感じ。ランナーはシューズがないと始まりませんし、365日ともに過ごすもの。合うか合わないかは極めて重要ですし、三村さんとは本音で意見をぶつけ合うことができた。
大正生まれで元陸軍士官だった中村監督は厳格な人で、選手には厳しい態度で接していましたけど、三村さんには愚痴を言ったり、たわいもない話ができたんでしょう。心のオアシスというか、クッションのような役割になってくれたのかな。ありがたい存在でしたね」
有森が痛みを訴えた
昭和から平成へと時代が移り、三村の活躍の場はさらに広がった。'90年代に入ると日本のマラソンはさらにレベルアップし、'91年世界陸上(世陸)では男子マラソンで谷口浩美が優勝し、女子マラソンでも山下佐知子が2位に入るなど、優れたランナーが続々と頭角を現す。中でも特筆すべきなのが、'92年バルセロナ五輪の女子マラソンで銀メダルを獲得した有森裕子である。
「三村さんの別注シューズを作ってもらえるのは日本代表選手だけ。私は'91年世陸でマラソン代表になったときに初めてお願いできるようになりました。それまで市販のシューズをはいていたと伝えたら怒られましたね(苦笑)。バルセロナのときは三村さんにじっくり時間をかけて作っていただきました。本番前は、その靴と別メーカーの靴の2足で練習していて、レース4日前にボルダーからバルセロナに入ったんですけど、足が痛くてどうにもならなかった。すがるようにして“三村さん、何とかしてください”とお願いしたのをよく覚えています」
当時、三村はアシックスの拠点に詰めていた。小出監督から「話がある」と呼び出されて行ってみると、メダル有力候補の有森が右足甲の痛みを訴え、ゆっくりとしたジョギングしかできない状態だと告げられた。
15時に現物を受け取って2時間後には修理したものを渡さなければいけない。第2製造部や研究室で培った技術を駆使してアウトソールを剥がして底を取り換え、インソールを剥がして衝撃吸収材を入れ、糊で貼りつけた。会社には接着器があるから、さまざまな素材をすぐ貼りつけられるが、バルセロナにはない。目の前にあるハンマーで打ったり、体重をかけながら強引に接着し、太陽光のある場所に置いて乾かし、本人に渡したという。
有森は率直な思いを明かす。
「修理してもらったものをはいたら“イケる”と直感的に思いました。シューズを信じられなかったら、42・195kmは走れない。三村さんがいなかったらたぶんシューズもダメで、本番を迎えられなかったと思います」
彼女の走りを見て、自然と流れた涙
迎えた当日。三村は自らがシューズ製作を手がけた有森、山下佐知子らのスタートを見守り、その足でバルセロナのオリンピックスタジアムに向かった。到着後、電光掲示板に映し出されていたのは、有森とワレンティナ・エゴロワがモンジュイックの丘でデッドヒートを繰り広げている姿。4日前の状態を考えれば10km前後で棄権していてもおかしくないと考えていた彼女の渾身の走りを目の当たりにして、自然と涙がこぼれ落ちた。
「数々のランナーやアスリートと付き合ってきたけど、泣いたのはあのときが最初で最後。感動のあまり胸が詰まって言葉も出ませんでした。最後に振り切られて金メダルはとれなかったけど、本当によく戦ったと思います」
有森が'96年アトランタ五輪で連続メダルを獲得した際のシューズも三村が手がけたもの。ただ、このときはもうひとりのメダル候補・浅利純子にかかりきりで、有森のフォローはほとんどしていないという。
その浅利が足のマメで血だらけになり、17位に惨敗したことで三村は窮地に立たされた。浅利は日ごろから靴下をはいて走っていたが、「この靴は靴下をはかなくても走れる」という三村のひと言に左右されたのか、素足で本番に臨む決断をしたのである。
これについて何人ものランナーが「普段自分がやっていないことを五輪の大舞台で実行するなんて信じられない」と疑問視したが、所属先のダイハツ・鈴木従道監督は「靴のせいで負けた」と真っ向から批判。翌日には契約メーカーを変えるという大胆行動に出た。事業部長にもクレームが入り、直接の担当者である三村も叱責される事態になったのだ。
「マラソンランナーというのは繊細なもので、練習と全く同じ状態で今までどおりのシューズで走ってもマメができることはありえます。そのすべてを靴のせいにされるのは、やはり腑に落ちないところがありました。人間、感情的になって行きすぎる言動をとってしまうこともあるし、私もメーカーの担当として言われるのもしかたない部分は否めなかった。割り切るしかなかったですね」
ロス五輪のときにも増田明美(解説者)が惨敗したことで「不調は本番前夜の怪電話のせい。“それはライバルの佐々木をサポートしていた三村だ”と話した関係者がいた」と週刊誌に報じられ、嫌疑をかけられたことがあったが、浅利の事件はそれ以上にショッキングなものだったという。
それでも、妻・美智子さんが「その話は知りませんでした」と言うほど、彼は家族に心配をかけまいと苦境を一切話さなかった。そうやって自らの仕事に邁進できたのは、信じてくれる数多くの選手の存在があったから。会社も別部署に異動させなかった。30年近い靴職人人生でそれだけ絶大な信頼を勝ち得ていたのである。
だからこそ、2000年シドニー五輪でも、2004年アテネ五輪でも金メダリストの靴作りを任され、高橋尚子と野口みずきが結果を出した。
高橋にとって三村は「憧れの靴職人」だったという。
「'97年のアテネの世陸に5000mで出たときは、まだ三村さんにシューズを作ってもらえる立場じゃなかったです。この大会の女子マラソンで優勝した先輩・鈴木博美さんの担当をされていたので、“私にも作ってください”とお願いしたら“強くなったらな”と返されたのが印象的でしたね(笑)」
辞表を用意して作った高橋尚子の靴
シドニー代表権を獲得してからは、合計50足の試作品が届けられた。会社の担当者が現地の路面やコース設定、気象条件などを徹底調査し、それを踏まえて三村が少しずつ長さや強度、素材を変えながらひとつひとつ手作りしたシューズを高橋は日々の練習で心を込めてはき、本番1週間前に4足まで絞り込んだ。最終的にはフィット感のいい白と赤のラインのシューズを選んだが、三村が「絶対にこれがいい」と強く推したものでもあった。
実はこの1足には、靴職人としての強い覚悟と決意が込められていたという。
「高橋は左足が1cm長くて、大会前の体重変動も大きいんで、感触が変わりやすい選手。最も多くの試作品を渡した選手だといっても過言ではなかった。本番2か月前の7月にボルダーに行ったときに“靴、どうや”と聞いたら“最高ですよ”と笑顔で返してきたのに、“でも本番はやっぱり左右同じ厚さにしてほしい”と言い出したもんやから、正直、面食らいましたね。
40〜50分議論したけど“左右は全く同じじゃないと前向きな気持ちで走れない”と一歩も引かず、困り果てました。“お前の言うとおりにしたるわ”と言って会社に戻ったものの、どうしても妥協できなかった。辞表を書いて机にしのばせて、左右のインソールの厚さが数ミリ違う靴を作り、本人に渡すことにしたんです」
この事実を小出監督が知っていたらストップをかけていたかもしれない。三村はそれを承知で監督にも高橋本人にも黙って靴を渡した。結果的にそれが最高の走りを引き出し、金メダルをもたらした。ゴール地点で待ち構えていた三村が渡した国旗で彼女がウイニングランをしたことが、最高の思い出になったという。
「三村さんがプロ魂を込めて作ってくださったから、私もそれを選んだと思います」と高橋は力を込める。日本女子マラソン界初の快挙は彼女と小出監督の不断の努力、そして三村さんらスタッフのプロフェッショナルらしいサポートによって生まれたのだ。
2004年のアテネで野口みずきが金メダルを獲得した5年後の2009年、三村はアシックスを定年退職し、M.Labの設立に踏み切る。自らが代表取締役、同じくアシックス勤務だった長男・修司さんが常務取締役にそれぞれ就任して約10人体制でスタート。2010年1月からアディダスジャパンと専属アドバイザー契約を締結し、ヤクルトの青木宣親や香川真司など他競技のトップアスリートのシューズも担当する機会に恵まれた。
妻・美智子さんは「この年齢からまた事業を始めるの?」と不安に思ったが、息子夫婦を含めた家族会議で本人たちが「やりたい」と話すのを聞いて「頑張ってください」と後押しする言葉をかけたという。
三村は当時の思いを打ち明ける。
「ありがたいことに退職前からいくつかの会社に“うちでアドバイザー契約を”と声をかけてもらい、行けるところまで行ったらええやんという気持ちになって会社を作ったんです。最初借りたのは600坪もある建物。アディダスと意見を交換しながらいい仕事ができて、まずまず順調な滑り出しでした」
やっぱりマラソンで勝負したい
長男・修司さんも自分なりに靴作りを学び、力をつけてきた。
「僕はアシックスで4年間働きましたが、専門店の営業担当だったので、靴作りに携わったことがなかったんです。M.Labに入ってから父の仕事を横目で見つつ、元同僚やOBにアドバイスをもらいながら、自分なりに木を削って足型を作るなど独学で靴作りを学んでいきました。父の時代はすべて手作業だったと思いますけど、今はコンピューターで設計も可能ですし、さまざまな技術を駆使しながら靴作りができる。そういうメリットも生かしながら、父とは違ったアプローチで仕事をしていこうと努力しています」
2年前には長女・由香里さんも夫とともに東京から故郷へ戻って会社に勤務。縫製15年の専門家にゼロから仕事を教わり、ミシンの技術を習得。別の角度から父と弟を支える。
「スピードスケートの小平奈緒さんや箱根駅伝のランナーなど、自分が製作に携わったシューズで活躍している選手を見ると本当に胸が熱くなりますよね。ここで働くようになって父の気持ちがよくわかるようになりました。これまで家では仕事のことをほとんど話したことがなかったですけど、父の技術や経験が多くのアスリートのプラスになっていたことも深く理解できた。同じ会社で働けてよかったと思います」
こうやって家族や多くのスタッフに支えられたから、2017年春にアディダスと契約解消に至った苦しい時期も乗り切れた。M.Labとしては「日本のアスリートを強くするため、自分たちが作った靴は日本市場だけで販売してほしい」と再三お願いしていたが、本社が納得しなかった。素材に関しても「これは使わないでほしい」というものを使用して商品化してしまった。契約金を上げる話も出たが、三村は「ワシは金では動かん」と一蹴。ニューバランスと契約するまでの約1年間はオーダーメードのシューズだけを扱うことになった。
「学生や実業団の選手は1足1万8000円と原価より安い値段で受注していたので、当然、赤字になりますよね。その間は私の個人資産でやりくりするしかなかった。会社も2017年末に現在の加古川に土地を買って移転したので、本当に借金生活になってしまいました(苦笑)。それでも“現状維持ではなく、未来に挑戦したい”という思いは変わらなかった。息子たちもスタッフもついてきてくれました。彼らのためにもこの先、もっともっといい靴を作りたいと思っています」
71歳になっても気力は衰えるどころか増す一方だ。50年来の親友である中川は「三村は勇気のある男ですよ」と太鼓判を押す。
「若いころからビッグマウスで“1番になる”と言い続けてきましたけど、本当にスポーツシューズの世界でオンリーワンになった。素材や性能に対しての研究に熱心で、五輪や世陸のコースにも足繁く通っていましたから、選手たちも頼るんでしょうね。黄綬褒章をもらったときのパーティーに新宅さんや瀬古さんといった有名選手が出席しているのを見て本当に誇らしく感じました。つらいこともあったんでしょうけど、三村からは悩み事を聞いたことがないし、常に前向きでいる。そんな彼にはいつまでも健康で仕事を続けてほしいですし、息子の修司には親父を超えるくらいの靴のスペシャリストになってほしいです」
ニューバランスが2018年末に発表した三村モデルのランニングシューズ「NB HANZO」シリーズは、昨今の厚底ブームに反し、薄底のシューズで話題となっている。マラソンランナーの疲労を少しでも軽減し、選手を故障から守るためという靴職人の技術が凝縮されたモデルは陸上界にインパクトを与えている。
「やっぱり私が勝負したいのはマラソン。40kmを超える長い距離を走り切る選手を守ってくれる唯一の道具が靴なんです。靴に携わる人間の仕事が彼らの成否を左右する。いいものにこだわり続けることがランナーのためになるんだという信念が自分にはあります。昨今は靴もメーカーに丸投げになっている傾向が強いですけど、もっと選手ファーストであるべき。私はそういう環境にも一石を投じていきたいです」
そうやって貪欲にナンバーワンを目指し続け、強いランナーを後押ししようとしている三村。彼の靴作りへの情熱は生涯、変わることはない。
取材・文/元川悦子(もとかわ・えつこ)サッカーを中心としたスポーツ取材を手がけ、ワールドカップは'94 年アメリカ大会から'14 年ブラジル大会まで6回連続で現地取材。著書に『僕らがサッカーボーイズだった頃』(1〜4巻)、『勝利の街に響け凱歌─松本山雅という奇跡のクラブ』ほか