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 同性愛者でフェミニストの小説家・王谷晶さんは、結婚という制度そのものに疑問を持っているという。その心は? 自身の経験談をもとにした鋭い持論を、綴ってもらった。

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結婚という制度自体に疑問

 私の両親は結婚していない。いわゆる事実婚というやつで、もう40年以上一緒に暮らしている。もちろん別姓で、間に生まれた私は母方の姓を名乗っている。

 昔から「お父さんとお母さんの名前が違うなんてかわいそう!」とようわからん人に勝手に哀れまれてきたが、アラフォーの現在に至るまで両親の名字が違っていて困ったことや不便だったことは1度もない。強いて言えば前述のような「かわいそう〜!」な人に絡まれるのがウザかったくらいだ。

 選択式夫婦別姓についての議論で「家族で名字が違うと不仲になる」なんて意見をよく聞くが、同じ名字の家庭だって不仲なところはたくさんあるだろう。姓を統一したって半年で離婚するカップルもあれば、別姓で40年続くカップルもいる。法律婚して子どもをつくっても浮気して離婚して養育費も払わない外道もいれば、名字の違う子どもをちゃんと育てる人もいる。

 そういう実例を見ているので、私は結婚という制度そのものに疑問を持っている。

 だいたい、現行の日本の法律では私は仮に結婚したくても絶対にできない。同性愛者だからだ。なので異性カップルに許されていることが同性カップルに許されないのは不平等であり差別だという観点で、日本での同性婚運動を応援している。

 が、もしそれが順調に進み日本で同性カップルも結婚ができるとなっても、私自身はしないと思う。本稿のタイトルにあるとおり、結婚というシステムそのものに疑問を持ち、抗いたいと思っているからだ。

 結婚とはなんぞや? 戸籍制度があり、男尊女卑の気風がいまだに色濃く、男女平等指数が下げ止まらない日本において、それは個人間のリレーションシップを「家」単位に拡大し、家父長制を維持・発展させる行為にほかならない。

 同性間の結婚においても、そういう要素は残ってしまうと思う。友人と「日本で夫婦別姓と同性婚、どっちが先に認められると思う?」というお題で話し合ったことがあるが、「同性婚は認めても最後まで選択式別姓は認めない」「でもそうなると男性が姓を変えるパターンが増えるので慌てて別姓も認める」という流れになるのでは、という結論になった。

もし「友達届」が必要だったら

 さっさと両方同時に認められるのが理想だが、そもそも「この人と生活をともにします」という人と人との結びつきに国からお墨つきをもらわねばならない理由が、私にはどうしても見つけられない。

 そりゃ税金や保険料が優遇されるとかローンの審査に通りやすくなるとかいろいろあるだろうが、そういう「法律婚すればこの国ではより生きやすくなりますよ=しないやつは損したまま」といういびつな制度を支持するのは、平等と自由を愛するフェミニストである己の魂と信念が許せんのよ。

「この人と一緒にいたい」とお互いが思ったら、ただそうすればいい。法律婚というロックを掛けないといつか関係が瓦解してしまうのが怖いというなら、瓦解しそうなのに無理やり法律で縛っておく関係のほうが不健全だ。余談だが私の両親はたまに「紙切れ1枚で“離婚”ができないから、逆に別れるのがめんどくさい」とこぼしている。

 結婚というのは個人と個人の人間関係を国が管理しやすいようシステムに組み込んだもので、あまりに長く続いているので気づきにくいが、とても不自然なものだ。私もパンツをはいてスマホを握って生活しているのですべての不自然を糾弾するつもりはないが、例えばそういうシステムを友人関係に当てはめたら、ちょっとゾッとするのではないだろうか。

 誰それと友達になるには「友達届」が必要で、仲違いしたら「離友達届」を書いて役所に提出、交友関係はすべて国に管理され、それによって学業や仕事や経済面での選択肢が増えたり減ったりする……と想像したら、ほとんどディストピアSFの世界だ。これだけ長く続いてきたシステムをなくすのはかなり難しいとは思うが、それでもいつか、結婚というシステムそのものが人間の生活から消えることを私は期待している。(了)

(文・王谷晶さん)

王谷晶さん ◎1981年、東京都生まれ。小説家。同性愛者でフェミニスト。著書『完璧じゃない、あたしたち』(ポプラ社)、『BL古典セレクション3 怪談 奇談』(左右社)、ウェブサイト『cakes』の連載をまとめたエッセイ集『どうせカラダが目当てでしょ』(河出書房新社)が発売中