他人の行動を事細かにチェックし、周囲に文句を垂らす人は何を考えているのか。ブロガーのフミコフミオ氏は、「彼らのモチベーションは独りよがりの“正義感”。他人の非を第三者に報告することで、自分の正しさを証明しようとしている」という--。

※本稿は、フミコフミオ『ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

写真=iStock.com/AH86
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/AH86

■仕事には無関係なターゲットのしくじりを騒ぐ

皆さんの周りに「どうしても他人の行動が気になる」症候群の方はいないだろうか。

僕の周辺にいる「他人の行動が気になるマン」は、気に入らない相手を常時ロックオンしている。「あいつサボっている!」「タバコ休憩を取りすぎだろう」「もう年休使い切ったのにまた休んでいるよ」などと常にネガティブなフィルターを通して評価して「おかしくね?」「ヤバくない?」と騒いで、勝手に問題にしている。

趣味で「ヤバいよ〜」「ヤバいよ〜」と言っているのなら構わないが、こういう輩(やから)の厄介なところは周りを巻き込もうとするところにある。「あいつ、マジでヤバくない?」と吹聴するのだ。

その評価基準がマジでクソ。ロックオンした相手の仕事内容や仕事への姿勢を評価しているならいい。「余計なお世話」ではあるけれど、評価基準は間違ってはいない。

だが、他人の行動気になるマンは、態度や服装、髪型や体臭、トイレの頻度などという、直接、仕事には無関係なターゲットのしくじりを取り上げ騒いでいるからクソなのだ。

他人の行動気になるマンが厄介なのは、本人は正気でいたって大真面目であるところ。彼らは、彼らなりに、彼らの正義感に突き動かされてやっているのだ。

■「正しさ」の結果60歳の男がネイルショップ店長に抜擢

正しいと思い込んでいる状態は危険である。かつて、僕が勤めていた会社でネイルショップを経営していた時代があった。ネイルショップの店長はネイルに詳しい元ギャルにお任せするものだと社員全員が思っていた。

ところが上層部は総務課長(60歳男性)をネイルショップ店長に任命。その意図は「ネイルを知らない人物のほうがネイルにとらわれない斬新なビジネスを展開できる。仮にしくじっても躊躇(ちゅうちょ)なくリストラできるし」という狂ったものであった。

マニキュアを塗ったことすらない、ファッション誌を買った経験もない総務課長はネイルショップを3カ月で潰した。上層部が正しいと信じて疑わなかった判断が会社に損失を与えたのである。

■クラスを巻き込みアフリカを救おうとした同級生

正しさについて考えるとき、募金ちゃんというクラスメイトを思い出す。彼女が「私は正しいことをしているの!」と宣言した瞬間、クラスに充満した微妙な空気を思い出してしまう。

小学5年生のときだった。クラス全体でエチオピアやタンザニアの難民への意識が高まった。インターネットもなかった時代。今のように簡単に海外のニュースに触れる機会のない時代。まして僕らは小学生で、アフリカの出来事などSF映画よりも遠い世界の話だった。

きっかけは何だったのか僕は知らない。覚えているのは、当時学級委員長を任されていた募金ちゃんが、発起人だったという事実。彼女のお父上が貿易関係の会社をやられていたので、その影響があったのかもしれないが、なぜクラス全体を巻き込んだ活動になったのか、今でもよくわからない。

僕は、アフリカと言われてもまったくピンとこなかった。封切りされたばかりのアニメ映画『少年ケニヤ』で得られた情報が、僕のアフリカに対するすべて。あとはジョー・コッカーがかっこいい、『ウィー・アー・ザ・ワールド』。

だから、「アフリカで苦しんでいる人がいる!」と言われても、ユニセフあたりに募金すればいい、と思うだけだった。クラスメイトのほとんどはそう考えていたはずだ。それでも募金ちゃんの「私たちと同じ人間が大変なことになっているのよ。それを見過ごすのは人間としてどうなのかしら」という啓蒙活動が実を結んで、いつの間にかクラスのほとんどがアフリカを救おうという気概に満ちていた。

■第三者に正しさを承認されたいがために大騒ぎ

僕もアフリカの厳しい現実を扱った写真展へ足を運んだ。クラスで募金を集めた。1度の募金(しかも小学生の集めた金額)で世界は変わらない。そんな厳しい現実を前に募金ちゃんのアフリカ救済の熱は高まる一方でなぜかクラス全員強制的に募金を徴収! みたいな話になって、クラスの皆から反発を受けたのである。

すると彼女は「私は正しいことをしているの!」と叫び、ワーッと泣き出した。募金ちゃんは正しかった。でも、正しいことをしているのが、いつも正しいとは限らない場合があるのだと、僕はそのとき知った。

頭のいい募金ちゃんが、己の正しさのために周りが見えなくなってしまったのはショックだった。彼女のワーッという泣き声とともに、ひとりのボンクラ小学生の胸に、正しさは時に厄介なものになる、という戒めとして刻まれたのである。このように「正義は我にあり」と信じ切っている人ほど信じがたい行動に出るのだ。

人の行動が気になる症候群の人も、「正義は我にあり」と信じている。私は正しい。私の正しさを証明したい。そのためには第三者に正しさを承認されなければならない。そういった自分本位かつはた迷惑な理屈で「ヤバいよねー」と大騒ぎしているのだ。

人の数だけ正義があり、己以外の他者には正義を修正する権利がないからつらい。

人の行動気になるマンが近づいてきたら、「あいつヤバいよねー」と合わせるのも大人の処世術である。だが、時にそれが取り返しのつかないことになるので気を付けたほうがいい。

■お局様の「正しさ」に巻き込まれてしまった過去

僕もたった1度「そうですね」と同意したために、貴重な時間をロスし続けている。

以前こんなことがあった。僕は、日本企業で散見される、役職・肩書はないけれども、謎の権力と発言力のある非公式ポジション、OTSUBONEとして君臨されている女性に認められていた。

彼女にはロックオンしている女性スタッフがいた。その女性スタッフはフェリス女学院大学から入社したばかりの美しい女子社員で男性社員からチヤホヤされていたらお局様の嫉妬の対象となって……ならお決まりのパターンだが、その方はおとなしい中年の女性であった。現実とはそんなものである。

お局様は、その女性のやることなすことすべてが気に入らない。生理的に嫌いなのだ。普通の人間であれば、自分の嫌いな人間を罵(ののし)り、蔑(さげす)むことが、自分の正しさの証明になるとは考えない。

だが、正義は我にありと信じているお局様には、それがわからない。正しさは人をおかしくさせる。「あの人、毎朝仕事始まってから必ず15分はどこかに行ってしまうのよ」お局様はわざわざ僕のところに来て、そうつぶやいた。仕事の邪魔でしかない。嗚呼、忙しいのに、なぜ、この人は僕の傍らでつぶやいているのだ。不気味だ。嫌がらせだ。

■正しさで周りが見えなくなっている

ツイッターでつぶやいてくれよと言いたいのを我慢して「そうですね」と言ってしまったのが運のつき。お局様は「トイレに何回行けばすむのか」「歩いて5分の郵便局へ10分かけて行く」「終業時刻ジャストで席を立つ」「ヤバくない?」「ダメでしょ?」などと不気味にささやき続けたのである。

15分の行方不明を非難する人が、20分も僕の傍らで怨念マントラを唱えている異常事態。正しさで、周りが見えなくなっている。30年以上の時を超えて、募金ちゃんの亡霊に悩まされるとは。もっとアフリカに思いを馳(は)せておけばよかった。

お局様は言いたいことだけ言って僕の傍らから離れるとヒタヒタと別の人間の脇へゴー。そこでまたつぶやきはじめた。「ヤバいよ。ヤバいよ。ヤバいよ……」何を食ったら怨念をエネルギーに変換できる人間になれるのだろうか。

■僕はお局様の独りキャッチボールを跳ね返し続ける壁

僕は数日に1度のペースでお局様の正しさの証人にさせられている。露骨に聞いていないポーズをとっているが、効果はない。あるはずがない。彼女は誰かに話をしているわけではないのだから。彼女は己の正しさに対して話しかけているだけなのだ。

フミコフミオ『ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。』(KADOKAWA)

そう、僕は壁なのだ。お局様の独りキャッチボールを跳ね返し続ける壁。早く人間になりたい!

このように、人の行動が気になる症候群の方は、第三者を巻き込んで己の正しさを証明しようとする。第三者が話を聞いていようがいまいが関係ない。第三者を巻き込むことで証明は完結している。

精神を削られ消耗するのは、いつも善良な市民。もし人の行動が気になる症候群の人が「ヤバいよ、ヤバいよ」と言いながら近づいてきたら、無視スルーしてもらいたい。台風の日、氾濫した河川が気になったり心配したりはするけれど、見に行かなければ、絶対に流されることはない。それと同じことなのだ。

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フミコ フミオブロガー
1974年2月、神奈川県生まれ。神奈川の湘南爆走族エリアに生息する中間管理職。「はてなブログ」の前身である「はてなダイアリー」で2003年からブログを始め、今では月間100万PVを誇る会社員ブロガー。独特な文章でサラリーマンの気持ちを代弁。ツイッター:@Delete_All ブログ
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(ブロガー フミコ フミオ)