幼いころに右目を失明。松田昌美さんが“ブラインドライター”として「自立」するまで
松田昌美さん(32)は頭にヘッドセットをつけ、ノートパソコンに向かっている。真剣な表情で数秒、ヘッドセットの音に耳を傾け、その後、数十文字分キーボードを打つ。また聴く、打つを繰り返す。これが彼女の仕事だ。肩書はブラインドライター。視覚に障害がある人たちによるテープ起こし事業で、彼女はそのチームの発起人だ。
テープ起こしとは、録音した音源を聴きながらタイピングし、文字に起こした文書資料を作ること。文字起こし、反訳などともいう。1分の音源につき170円で請け負っている。
例えば、雑誌の編集部からの依頼では、数時間のインタビュー音源が送られてくる。
1時間の音源を正確に文字に起こすためには、3〜5時間かかり、集中力と体力を要する仕事だ。昌美さんが起こした文書データは、編集者が実際の記事を書くうえでどのコメントを抜き出すか検討するための資料として欠かせないもの。
テレビ局が番組で流す字幕を作るために依頼してくることもある。
「テレビ局は“明日までに”とか、急な依頼が多くて大変ですが、著名人や有名人のインタビューは“あ、この人知ってる!”って聴きながらテンションが上がるし楽しいですね!」
さまざまな業界からの依頼があり、飽きないことも、好奇心旺盛な昌美さんが、この仕事を気に入っている理由のひとつ。
「弁護士さんからの依頼で事情聴取していて。いつ、かつ丼が出てくるのかな〜って期待しながら聴いたり、探偵さんからは“夫婦ゲンカの声を拾って”と無茶な依頼もあります(笑)。
ちょっと夢がふくらんだのは、大手不動産会社のデザイナーズハウスで家を建てた人たちのインタビュー。私もここで家を建てる! なんて想像して(笑)」
明るく天真爛漫な印象の昌美さんだが、右目は全盲、左目は弱視だ。左目はトイレットペーパーの芯を通して向こう側を覗くような視野だという。
スマホやパソコンを使うとき、文字を拡大して、目に近づければ文字や絵が見えるが、普段は、画面の文字を自動で音声にしてくれる読み上げソフトを使ってパソコンを操作する。
テープ起こしの作業では、耳で聴いた音をタイピングし、その文字をまた読み上げさせることで、自分の打った文字を確認していく。読み上げソフトには漢字を1文字ずつ読み解く機能もあり、漢字の誤字もほとんどなくデータを入力できるという。
ブラインドライターは、鋭敏な聴覚をもつ視覚障害者の能力を活かした仕事でもある。
昌美さんは、車のエンジン音で人が何人乗っているか、ホームに入ってくる電車が混んでいるかなどがわかるという。音の反響で、入った部屋の形もわかるし、複数人で話している会話を聞き取るのも得意だ。
音による情報収集力が高いからこそ、まるでその場にいるかのような、臨場感あふれる原稿が書ける。それが昌美さんのウリだ。
彼女が作業するパソコンの画面を覗くと、会話や話し言葉のほかに〈小声で囁く〉〈呟く〉〈答えにつまる〉など状況を描写する表現も細やかに挟み込まれていた。
クライアントからは「丁寧に会話が再現されていて助かります」と好評だ。編集やライターにとってテープ起こしは欠かせない作業だが、時間がかかるため嫌がる人は多い。それを楽しんで作業できるのだから、ウィンウィンとはこのことだ。
昌美さんは外を歩くときは白杖を使い慣れた道ならひとりで歩くこともできる。視覚に障害があって困ることを聞いてみると「自分には当たり前のことすぎて、パッとは浮かばないです」と笑い飛ばす。
しかし、しつこく食い下がると、少し声のトーンを落としてこう答えてくれた。
「人の目を借りないと遠くに行けないとか、誰か主導の行動を起こすとき、他者にゆだねなきゃいけないもどかしさは常にありますね」
実は昌美さん、この仕事を自分でつかみ取るまでの10年間、職場を転々としながら幾度となく差別や偏見に傷つき、悩まされてきた過去がある。だからこそ、ブラインドライターへの思い入れはひとしおだ。
「クライアントさんから返事がくると、すごいモチベーションが高くなります。よかったとか、逆にマイナスな評価で“次回からこうしてください”ってコメントがきても、自分がした仕事に対して声として返ってくることがうれしいんです」
苦労があったからこそ、仕事を楽しいと思い、人に感謝ができるのだろう。彼女が淡々と振り返る過去は、苦労の連続に思えた─。
厳しく育てた母の本音
昌美さんは、松田家の次女として静岡県伊東市で生まれる。1300グラムの早産で、「未熟児網膜症」と診断された。そして保育器に入ったまま、より専門性の高い千葉の病院へ転院する。
当時はネットなどで簡単に情報が手に入る時代ではない。母の二三子さん(60)は、病名を告げられても、わからないことだらけだったと話す。
「育児雑誌の企画で、小児科の医師に先着で質問ができる企画がありました。診断されてすぐ、そこに毎日、電話をかけ続けたんです。1か月半ほどでようやくつながりました。そうしたら“その病院なら名医がいるじゃない”って転院先の先生の名前を言われたんです。それを聞いたら、なんだか泣けてきちゃって……」
二三子さんが、プレッシャーから解放された瞬間だった。
娘の目にどうものが見えているのかわからない。ご飯粒を拾って食べたりしているので、見えていることはわかる。でも色はわかっているのか。「そこにあるおもちゃ、なんで拾わないの?」などと試しながら、娘の状況を知ろうと必死に向き合った。
昌美さんは、目の治療に加え、足のリハビリも必要だった。月に数回、静岡の自宅から電車で2時間ほどかかる千葉県浦安市まで母娘2人で通ったという。
幼稚園に上がるころ、昌美さんは子ども心に「通院はお母さんに負担をかけている」と感じるようになる。
「病院に行った翌日、急に右目が見えなくなっていたんです。でも母に悪いと思ってすぐには言い出せなかった。子どもなりの気遣いだったんですよね。ことの重大さもよくわかっていませんでした。寝て起きたら見えるようになると思っていて……でも、私の目が白濁しているのに母が気づいて、見えていないことがばれちゃったんです」
その後、視力が戻ることはなく、昌美さんの右目は失明してしまう。障害のある子どもが生まれると、その責任を感じてか、子どもを自分の庇護下に抱え込んでしまう母親は多い。
昌美さんの場合、出産時のミスにより足も少し不自由だ。
しかし二三子さんは、そんな娘を甘やかさなかった。
「障害者だって思って育てたわけじゃないんです。目も足も悪くてかわいそうと思ったら、前に進めなくなってしまう。子どもには厳しかったかもしれませんね。でも、親はいつまでも生きているわけじゃないから。残された子どもが、ひとりで何もできなかったら、その子がいちばんかわいそう」
足の状態が多少悪くても、手をつなぎ引きずるように歩かせた。道で転んで泣き叫んでも助けることも振り向くこともなかった。周囲から批判の目を向けられようと、かまわずその姿勢を貫いたという。
それは当時の昌美さんが「自分の母親じゃない」と本気で考えてしまうほどの迫力だった。
「母はライオンのように、あえて厳しいほうを選ぶ人でした。でも、そのおかげでガッツで物事を乗り越えられる根性がついたかな(笑)」
母と離れ、小学2年生で寮生活
小学校に上がると、伊東から沼津の特別支援学校まで片道1時間以上の道のりを通うことになる。二三子さんは電車で毎日送り迎えした。
だが、昌美さんが2年生になるころ、夫と離婚。6歳年上の長女は夫が預かり、昌美さんは学校付属の寮に入ることになった。まだ小さな娘を預けることは、母親にとって苦渋の決断だった。
「なんというか寂しいし、ご飯は食べているか、自分のことをちゃんとできているかと不安でしたね。でも、仕事と家事をしながら毎朝毎夕、送り迎えするのは肉体的にも時間的にも厳しかったんです」
親が寂しいのだから、子どもはもっと寂しい。
「学校が終わると毎日、玄関で母が迎えに来ると信じて待っていました。毎晩、しくしく泣いて」(昌美さん)
週末は実家で過ごしたが、それだけでは家族の時間が少なかったのだろう。
ある日、二三子さんと元夫、昌美さんで食事をして、いざ沼津の寮に送ろうとすると昌美さんは「宿舎に帰らないとだめ?」と甘えた。
厳しく接してきた二三子さんも、このときばかりは心が揺らいだ。「先生に嘘つくから、風邪ひいたことにするんだよ。約束が守れなかったら、2度と休ませないよ」そう言って娘を自宅へ連れ帰ったという。
二三子さんにとっても昌美さんとの時間は貴重だ。娘が自宅にいる日は、仕事に出るのが寂しいときもある。すると昌美さんは二三子さんの働くバーに「ママがゲボしちゃって」「まあちゃん、お熱出ちゃった」などと電話をする。店のママも、親子の嘘はお見通しだ。だが、昌美さんは店にもよく遊びに来るし、客にも可愛がられていた。二三子さんの仕事ぶりには定評があったし、周囲も彼らの事情はよくわかっている。みんな快く騙されたふりをしてくれた。
嘘が通用しなかった恩師
昌美さんが住んでいた寮には、静岡県内から集まった視覚障害のある子どもたちが暮らしていた。朝6時半に起きて顔を洗い、食堂でご飯を食べる。8時くらいには学校へ行き、3時過ぎには寮に戻る生活だ。同じ年齢の子はおらず、下級生の面倒を見るのは上級生の仕事だった。
昌美さんが小学6年生のとき、彼女の人生を方向づける恩師と出会った。特別支援学校の教師、原田栄さん(68)だ。原田先生は、昌美さんと初めて会ったときのことを鮮明に覚えていた。
「赴任してすぐ、学校の廊下を歩いていたら、可愛らしい女の子が教室から顔を出して、私が通り過ぎるのを見守っていたんです。でも、その表情には“こいつはどんなやつなのか品定めしてやろう”という、したたかな感じがあるの。外見はすごく可愛らしい子なのに、一方で妙に大人びていて、そのギャップが大きかったですね」
その後、昌美さんの担任となると、原田先生はすぐに昌美さんに文学的素養を見いだした。
「算数は苦手だったけれど、想像力が豊かなんです。読み聞かせをすると、ふたりの中でその情景が共有できるような感覚がありました」
原田先生は国語の時間には副読本を多く用いて、昌美さんの言語能力を伸ばしていった。昌美さんのテープ起こしの才能は、原田先生の指導によって培われたのだろう。
昌美さんにとって「自分の能力を伸ばしてくれる教師」は初めてで、生活面でも厳しかった。与えられた課題に手を抜くと「甘えるな」と怒る。安定した家庭生活を送ってきたとは言いがたい昌美さんは、大人を操るすべに長けていた。しかし原田先生は違った。「言い訳は聞かないよ」「人の気を引くために媚を売るな、つかなくていい嘘はつくな」と容赦ない。
「うっとうしいなと思うことも多かったけど、ちゃんと目を見て話をしてくれるし、先生の言っていることは正しいから、受け止めざるをえませんでした」
ライオンのように厳しい母と甘えを許さない原田先生。彼らの方針は「自立」だった。
中学を卒業した昌美さんは浜松にある特別支援高校に入学。しかし学力が足りず、入ったクラスは昌美さんの希望とは大きく異なった。
「作業着を着せられて畑に行ったり、クッキーを作ったり。でも、普通の会社員になりたかった私には興味がありませんでした」
しかも教師には「お前には社会人として働く能力はない」と言われてしまう。障害者の作業所に入っても月収は数万円もらえればいいところだ。自立にはほど遠い。
「軟禁生活」で夜逃げを決意
18歳で熊谷にある視覚障害者の鍼灸学校に入学。鍼灸の資格を取れば、自立への道が開けるはずだった。しかし、その在学中に想定外の事件が起こってしまう。
学校の寮に入っていた昌美さんは、1つ下級生の女子と同室だった。週末は実家に戻らず、次第に東京にある下級生の家に泊まり込むようになった。
そのうちに、彼女の兄に迫られるようになる。まずいと思い相手には避妊具を渡していたが、まさかの妊娠。「どうして?」と頭を抱えた。
昌美さんから妊娠を告げられたとき、二三子さんは「ふざけるな!」と怒った。昌美さんは若く、自立もしていない。相手も30歳を過ぎて実家暮らしのフリーターだ。信用に足るとは思えなかった。とうてい賛成できる話ではない。堕胎させるつもりだった。
だが病院で子どもの心音を聞かされた昌美さんは、「この子は生きて生まれたいと頑張っている。それを殺すなんてできない!」と強く思った。
「子どものころからずっと、温かい家庭に憧れていました。子どもが生まれれば、相手の男性も変わるという浅はかな期待もあったんです」
親戚中から堕ろせと責められたが、昌美さんの意思は変わらなかった。二三子さんは「結婚するなら、お前は私の娘じゃない。2度と帰ってくるな」と言って娘を追い出した。
昌美さんは「当時の判断は甘かった」と振り返る。生活力のない夫と無職の昌美さんは、夫の家族と同居するしかない。もともと昌美さんを快く思っていない姑からは、毎日「お産で死んじゃえばよかったのに」「役立たず」などと罵倒された。携帯も取り上げられてしまい、与えられた部屋は四畳半ほどだ。
今では料理が得意な昌美さんだが、当時は自炊ができなかった。食事は1日に1食、カップラーメンを与えられるだけ。
「夫は事なかれ主義で味方をしてくれないし、軽い軟禁状態でした。とうとう空腹と精神的苦痛で幻覚が見えちゃって、気づけば公園の砂場で砂をかじっていました。
さすがに、“このままでは殺される”と思うようになって……」
ある日、散歩に出るふりをして、そのまま子どもを抱いて家を出た。12月の寒い日だった。ジーンズに通帳や身の回りのものを突っ込み、実家に向かった。「ああ、着の身着のままって、こういうことを言うんだな」という妙な実感を胸に─。
昌美さんが子どもを抱いて帰ってくると、二三子さんは驚き「なにがあったの!?」と叫んだ。
落ち着く間もなく数日後には、夫の家族が「孫を誘拐された」と言って乗り込んできた。警察に手を借りて帰ってもらったが、離婚は調停にまでもつれ込んだ。
離婚と親権を争う調停で、裁判官からは「働いた経験もなく障害がある母親が、子どもを育てるのは家庭の協力なしには難しいだろう」と告げられた。結論は昌美さん本人ではなく、二三子さんに委ねられたが、「うちで育てるのは難しい」と親権を譲ってしまう。
母は娘に「勝手に決めてごめんね」と土下座した。
その姿を見た昌美さんは猛烈な罪悪感を抱く。親権をとれなかったのは自分が自立をしていないせいだ。まずは働こうと決意し、3万円を握りしめ単身、東京へ出た。
「自立」して娘を取り戻したい!
上京した昌美さんは、なんとか派遣の仕事を得た。
契約社員として最初に入社したのは、大手エステの本社だった。段ボール何箱分もの伝票を数えるだけの仕事。8か月ほどで経営が傾き、解雇になった。
次に土木系の企業に入ったが、職場では「君の仕事はそのイスに座っていることだよ」と言われてしまう。
「毎日、眠気と闘うだけ。電話応対の仕事を与えられましたが、ビジネス電話機のライトがいくつも光ると、どのボタンを押したらいいのかわからないんです。“使えないな”って言われて。2年目になると、“クビにすると体裁がよくないから契約満了ってことにしてやめてほしい”と言われました」
当時はまだ障害者差別解消法などなく、職場で“合理的配慮(障害者個人の能力に合わせて状況や対応を変えること)”を受けることもなく、あからさまに差別発言が飛び交った。
その後は、大手IT企業の子会社で勤務。またもや心ない言葉に傷つけられた。
「郵便の仕分けとか、出退勤管理をしていましたが“なんだ、聴覚障害よりもコミュニケーションとれると思ったのに使えないね”って言われる。足が悪いのでラッシュの通勤電車に乗るのが厳しくて“就業時間を1時間遅らせてほしい”と頼んでも“見栄えがよくないから”と許可してもらえない。耐えられないほどつらくなって1年8か月で退職しました。パソコンを使えないと、まともな仕事がもらえないと、ようやく気づいたんです」
昌美さんは28歳で、視覚障害のある人向けに音声読み上げパソコンを使って一般事務の技能を教える支援センターに通い始めた。
そのころ、人生を変える出会いがあった。知人から「Co-Co Life☆女子部」という障害者や難病の女性向けのフリーペーパーを紹介されたのだ。そこに読者モデルとして参加するようになる。あるとき、編集部の守山菜穂子さん(43)に、「座談会のテープ起こしできる?」と聞かれた。即座に「やったことないけど、できます!」と“安請け合い”した。このチャレンジがブラインドライターへの第一歩だった。
その後、守山さんから紹介された出版関係者に細々と仕事をもらうようになった。守山さんは彼女を「ブラインドライター」と名づけ、無料ソフトでホームページを作成。それがSNSで話題になり、大ブレイクした。昌美さんのもとには取材やテレビ出演の仕事が舞い込むようになる。
当初はひとりで受けていたブラインドライターの仕事も手が回らなくなり、今では「ブラインドライターズ」は総勢10数名の大所帯だ。
ブレイク前から昌美さんを応援している守山さんは彼女の印象をこう振り返る。
「初めて出会ったとき、昌美さんは、いわゆる『可愛い系』のOLでした。ピンクのワンピースを着ていて、茶髪のゆる巻き髪。今まで自分が視覚障害者に対して描いていたイメージとは全く違ったんです。すごく興味が湧きましたね。人なつっこくて、何を聞いても快く答えてくれる素直さがあって。一方で自分を大きく見せようとするところもあった。話を盛れば盛るほど、仕事に恵まれていないのが周囲にバレてしまうのにね。当時は自分に自信がなかったのでしょう。でも今は、等身大でいいんだと気づき始めているんじゃないかな」
昌美さんは現在、障害者タレントとしても活動中だ。テレビやCM出演、大学の講演などを精力的にこなしている。フリーランスのため、金銭的には不安定で、依頼が少なければ月収10万円に満たないこともある。
「今まで、誰かのお荷物でしかなかった自分が、仕事をすることで人の役に立って喜んでもらえるのがすごくうれしいんです。安定した月給をもらう仕事ではなくなりましたが、不満はないです」
10年ぶりの再会、新しい一歩
そして今年2月、高校のクラスメートだった築地健吾さん(33)と結婚する。友達として何年も付き合ってきた、お互い気心の知れた仲だ。偶然にも2人は近所でひとり暮らしをしており、行き来をすることが増えたという。もちろん、築地さんは昌美さんの過去もすべて知っている。
「あの家からは逃げ出してしまったけれど、子どものことは心の支えでした。これまで折れずに腐らずにやってこられたのは、子どもに顔向けできないと思ったから。相手家族がとにかく怖くて、子どもに会いたいと強く言い出せませんでした。同時に、大人の私ですらつらかった家庭なので、子どもが無事かとても気になっていました。でも思い切って2年前に裁判を起こしたんです」
裁判所を通してやっと子どもに会えたが、子どもは「おばさん、いつ帰るの?」「来なくていいのに」と迷惑そうだった。それに同調している相手家族と会うことも苦痛だった。
「すごく悲しいけれど、会うことで誰も幸せにならないのなら、やめたほうがいいんじゃないかと思うようになりました」
昌美さんは、子どもから会いたいと言われるまで、こちらから連絡をとるのはやめようと決めた。
ブラインドライターを始めた当初、昌美さんは「仕事で稼げるようになって子どもを引き取りたい」と言っていた。親権を取るには自立が不可欠と言われていたからだ。しかし、そうなるまで10年の月日は長すぎた。
失敗の経験は重く、再婚には後ろ向きだったが、築地さんなら大丈夫という確信があったのだろう。
結婚を決める直前のことだ。築地さんは足をヤケドした昌美さんのために、薬とおでんを持って自宅へ来てくれた。昌美さんから「おなかすいた。何か買ってきて」と言われたからだ。
「使われてるんです。これからもずっと続くのかな」と築地さんは楽しそうに言う。すると昌美さんは「彼はいま全盲だから、私の高校時代の顔しか覚えていないんです。これはラッキーだなあ」と笑う。2人が軽口をたたき、じゃれ合う姿は、仲よしそのものだ。
昌美さんは自分についてこう語っている。
「私の人生は、ガッツで乗り切ってるんです。しんどくなるのは自分のせい。だからこれからも同じやり方で進んでいきたい。視覚には障害があるけれど、心の視野は狭めずにいろんな角度からいろんなものを見られる人になりたいですね。自分に何ができるか絶えず探しているので、ブラインドライターだけではなく、なんでもやってみたいなと思います」
去年の夏には二三子さんにスマホをプレゼントし、使用料は昌美さんが支払っている。彼女がどんなに他人から障害を非難されてもくじけなかったのは、母・二三子さんの信念があったからだろう。ようやく感謝の気持ちを伝えられるようになった。
障害者は、障害があるからかわいそうなのではない。障害をかわいそうだと思う人によってかわいそうな存在にさせられるのだ。誰にでも自立する権利はある。そう昌美さんは教えてくれる。
視覚障害者によるテープ起こし事業「ブラインドライターズ」
公式HP(https://peraichi.com/landing_pages/view/writers)
(取材・文/和久井香菜子 撮影/森田晃博)
わくいかなこ 編集・ライター、少女マンガ評論家。大学で社会学が切り口の「少女漫画の女性像」という論文を書き、少女マンガが女性の生き方、考え方と深く関わることを知る。以来、自立をテーマに取材を行う。著書に『少女マンガで読み解く乙女心のツボ』