生後1か月のわが子を餓死させた、28歳母親の無責任すぎる出産と育児
生後約1か月。順調に育っている赤ちゃんならお腹が減ればところかまわず“ギャン泣き”するはずだが、その家はいつも静かだったという。
「昨年12月半ばに1度、赤ちゃんの泣き声を聞いて生まれたんだなと思いました。それ以降はいつも静か。ケンカする声や赤ちゃんの泣き声は一切聞こえませんでしたね」
県営住宅の同じ棟で暮らす住人は、事件後そう振り返る。
ほかにも長女と長男がいる
宮城県仙台市青葉区。JR仙台駅からバスで20分ほどの住宅地に立つ築42年の県営住宅で事件は起きた。
捜査関係者が、事件発覚までのいきさつを説明する。
「1月17日夕方、(近くに住む)実母が訪ねて来て、双子の赤ちゃんの衰弱してやせ細った異変に気づいた。仙台市の救急センターでは対応できず、東北大学病院に運びましたが、翌朝、双子の兄の楓翔(ふうと)ちゃんが亡くなりました。
病院から警察に“児童虐待の疑いがある子どもが亡くなりました”と通報があり、母親に任意同行を求めました」
楓翔ちゃんに十分なミルクを与えず衰弱死させたとして保護責任者遺棄致死の疑いで宮城県警仙台北署に逮捕されたのは、母親の無職、千葉侑容疑者(28)。
赤ちゃんの死因は栄養不足により血液やリンパなどの流れが滞り臓器に障がいが出る“循環障害”。身体にあざや外傷などはなかったという。
再び捜査関係者の話。
「最初のうち容疑者は泣いたりして精神的に不安定でしたが、今は落ち着いて取り調べにも素直に応じています。お金がなくて、ミルクを買えなかったと供述しています。所持金はほとんどなく、子どもには10日ほどミルクを与えていなかったようです。
母乳も出にくく、赤ちゃんには白湯や桃のジュースを薄めて飲ませていたそうです。双子の弟も衰弱していましたが、治療によって持ちこたえて、現在入院中です」
千葉容疑者は、実父と双子と4人暮らしだった。実父と実母は別居中。千葉容疑者は未婚で双子を出産したが、ほかにも長女(8)と長男(4)がいる。長女と長男は事件前から児童相談所(以下、児相)で保護していたため、双子の出産にあたっても児相は、千葉容疑者に注意を払いケアをしていた。
昨年11月19日に楓翔ちゃんが生まれたときの体重は2600グラム。1か月健診時には3300グラムに増え、ミルクを飲む力もあったため、生育状況に問題なしとされていた。
昨年12月12日には青葉区の保健師が、同19日には児相の職員が自宅を訪問。同26日には児相で面談もしている。容疑者も嫌がらなかった。
千葉容疑者は昨年の春ごろまで同市内で両親とは別々に暮らしていた。しかし、児相は“生活環境に問題あり”と指摘、子どもは保護され、容疑者は実母のもとに身を寄せることになった。しかし、その直後から県営住宅の実父のもとに住み始めたという。
インターネット上でライブ配信
同じ棟に住む30代の女性は、「顔を合わせればあいさつや会釈をしていた」という千葉容疑者を覚えていた。
「昨年の夏に見かけたときはノースリーブのワンピースを着て、買い物に行くところでした。ばっちりお化粧してね、ちょっとお腹も目立ってきていたけど、今どきの子って感じでした。おとなしそうでほんわかとした雰囲気の子です」
実父は毎日、午後11時過ぎに仕事から帰る生活で、千葉容疑者の夫とみられるような若い男性を見かけたという証言はなかった。
「双子の父親については取調室で何も言わないんです。その男性からの金銭的な援助もない」(前出・捜査関係者)
心から頼れる誰かが、千葉容疑者にいたのか。児相に対しても千葉容疑者は、ウソの申告をしていたふしがある。
「職員と市の保健師が訪問したのは、実母の家です。そこに住んでいると申告しており、私たちもそれを信じていました。子どもたちの様子は安定していましたし、お金の相談もありませんでした。容疑者は無職でしたが、同居の親族から支援が受けられるので、養育環境に問題はないという認識でした」(前出・児相職員)
ところが実際には、実父と県営住宅で暮らしていた。それでも、働いている実父に助けを求められたはずだが、千葉容疑者はそうしなかった。
「ミルク代が必要だと言えなかった理由を“親に迷惑かけてきたから自立しなきゃという思いがあり、言えなかった。遠慮があった”と供述しています。“今思えば、両親にお金を借りてミルクを買えばよかった”と反省の弁を述べています」(前出・捜査関係者)
実父にも実母にも助けを求めない一方で、インターネット上でライブ配信を行い、自分の窮地を投げやりに伝えていた痕跡がある。
「双子出産→1日中配信→母乳あげてる時期なのに配信中にビールを飲む」と書いていたとする情報があり、批判されると配信頻度が減ったという。
生活時間帯が異なるため乳児の衰弱に気づかなかった、とする実父を訪ねたが、
「弁護士さんに言われよるから話せない」とだけ消え入りそうな声で答え会釈をして扉を閉めた。扉の向こうでは泣き声も上げられないほど衰弱しきった赤ちゃんが数日前まで生きていたのだ。