「これまで多くの学生諸君の弁論を聴いてきたが、海部君の演説に優るものを私はかつて耳にしたことがない。海部の前に海部なし、海部の後に海部なし。この一言に尽きる」
 海部俊樹は、学生時代から政治家志望であった。当初入学した中央大学法学部では弁論部に所属、卒業後は政治家には早稲田大学が向いていると同大法学部に編入学、同時に雄弁会に所属したといった具合だった。冒頭の弁は、海部在学中の早大雄弁会会長だった時子山常三郎教授(のちに早大総長)の海部の“弁舌”絶賛のそれである。

 早大を卒業した海部は、直ちにやはり雄弁会の先輩でもあった当時の三木(武夫)派の河野金昇代議士の秘書となって議員会館に詰め、時に、社会党の柳原三郎代議士の議員会館で事務の手伝いなどをしていた幸世と出会って互いに一目惚れ、議員会館内では「国会の恋」として話題になったものだった。
 結婚は昭和30年(1955年)、海部24歳、幸世22歳で、その5年後、河野代議士病気引退の後釜として海部は衆院選に初出馬、昭和生まれとして初の当選を飾ることになった。
 ちなみに、海部は「29」という数字に妙に縁があり、早大卒業が昭和29年、初当選が29歳でこれが第29回総選挙だった。また、初当選後に割り当てられた議員会館が6階の29号室、秘書としてつかえた河野代議士はやがて亡くなるが、その命日が3月の29日だった。そして、こうした「29」が自分の運命の数字とみたか、「オレは29年後に天下を取ってみせる」と豪語していたが、その通り29年後の58歳で、これも昭和生まれ初として首相のイスに座ってみせたのだった。

 その海部、政界入り後は三木武夫に師事し、「三木の秘蔵っ子」とも言われた。信念と権謀術策が綾なした三木とはタイプが異なり、弁舌には優れているものの政治手法は常識的、正攻法型。ために、党のギラギラした体質とは一線を画したさわやかイメージの「自民党のネオ・ニューリーダー」として期待されるようになっていった。
 その裏には、幸世夫人の持ち前の「オルガナイザー」としての戈が貢献した部分が大きかった。元三木派担当記者の次のような証言がある。
 「夫人は、後年は幸世という名前から中国共産党主席だった毛沢東の“猛妻”江青(こうせい)になぞらえて、『コウセイ夫人』と呼ばれるほどのバリバリ型の代議士夫人となった。しかし、海部がまだ陣笠の頃はその後ろで支える、機転の利く女性だった。
 当選5回目あたりでは、愛知県の選挙区内に10人、20人といった小さな女性だけのグループを次々と立ち上げ、最終的にこうしたグループは数百に及んで、のちに1万人をゆうに越す海部後援会婦人部“はなみつきの会”の原型をつくることになった。女性が本気で動く選挙は強い。愛知県における長らくの“海部王国”は、『コウセイ夫人』の才覚によるものだったと言ってよかった」

 その海部が首相のイスに座れたのは、前任首相の宇野宗佑が芸者との「3本指」スキャンダルなどで退陣を余儀なくされたのがキッカケだった。派閥はすでに三木から河本敏夫(元通産相)にバトンタッチされていたが、小派閥であることは変わらず、それまで閣僚経験も文部大臣2回だけで外交経験なく、経済、財政も門外漢となれば、首相への目などはなかったが、時に自民党を牛耳っていた最大派閥・竹下派の“意向”によるものだったということであった。
 時に、リクルート事件の責任を取って退陣をした竹下派会長の竹下登は、影響力温存のため「キングメーカー」ぶりを発揮していた。ために、気脈のある派閥領袖でもなかった中曽根(康弘)派幹部の宇野宗佑を自らの後継に据え、宇野の失脚後はまたまた小派閥の河本派幹部の海部を担ぎ出したということだった。