大西健斗(北海)が打ち明けた主将としての苦悩。甲子園で「無」でいられた理由

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 昨夏、22年ぶりに初戦を突破し、その勢いのまま決勝進出まで進む大躍進を見せた北海高校。そのチームをキャプテンとして率いたのが大西 健斗だ。夏の甲子園で準優勝を果たした北海だったが、その裏にはキャプテンとしてのさまざまな葛藤や苦悩があった。今回はその苦悩や、後輩への思いを語ってもらった。

キャプテンとしての苦悩

大西 健斗(北海ー慶應義塾大)

「キャプテンは正直やりたくなかったです。3年生が負けて、甲子園が終わって1週間のオフで練習が再開した時に監督から言われました。自分の打席、ピッチング、守備に集中したかったんで、喜んで引き受ける感じではなかったです。

 当初は周りの人に気を配っている時間ももったいないと思っていましたから(笑)そこからキャプテンになって、周りも見られない。仲間がどういう状態なのか、チームの雰囲気、そういう細かいことをおろそかにして、結果がでるまで4か月以上かかりました」

 キャプテンの経験もこれまでなく、大西はチームをまとめることに苦労した。その中で気づいたキャプテンに求められる素質とは何だろうか。

「僕が代々のキャプテンの中で一番つらかった自信があります。方向性が決まっていてもスタート地点、成熟度も違いました。選手たちのやる気がなくて、練習も声を出さない。監督にはずっと怒られて、早く帰りたいと思っていました。最後の春から夏にかけては僕は全く何も言わずにやってました。人間は考え方も価値観も違うのでそこをうまくまとめる、見極めるのがキャプテンに求められる素質だと思います。そこはコミュニケーションをとっていくしかないですよね」

 新チームが始まったばかりではどうしていいか戸惑うキャプテンは数多くいるはずだ。チームをうまくまとめ、作っていくうえで何に気を付けたらいいか?大西はこう答えた。

「チームを作るのに何を気を付けたらいいか…なんですかね…新チームは当初は自分の練習よりチームのために動くというか、そっちの方が絶対にいいと思います。僕はキャプテンという名前だけあって、ランニングでは先頭にいますけど、練習が始まったら自分の練習ばっかり集中してやっていました。それだとまとまりは生まれないですし、新チーム当初はチームのために動くスタイルでやった方がいいのかなと思いますね」

自分のチームカラーを作りたい

大西 健斗(北海ー慶應義塾大)

「1,2年生までは先輩についていくのが必死で、大変でした。雰囲気も厳しくて。ただ罵声を浴びせるのではなく、解決法を考える。ミスが起きてもまた立て直す。こういうチームを作りたいと思っていました」

 キャプテンになったからには自分のチームカラーを作りたい。その思いを行動に移していく。

「自分たちの代になってからは後輩が多いチームだったので、うまく上下関係を保ちつつ、たまには和気あいあいという感じでした。後輩は僕たちに気を遣うことなく野球ができたかなと思います。自分たちの代では口で圧力をかけたりしないで、自分のプレーをしっかりやって威厳を出すということをやってきました」

 しかしそう簡単には進まないチーム作り。新チームが始まったときにはさまざまな苦労があった。

「そうはいっても新チームのころはぐちゃぐちゃでした。僕自身もキャプテンをやったことがなかったし、サポートメンバーもどういう仕事をしたらいいかわからなくて、協調性もなくてばらばらでしたね。

 キャプテンらしさを出さず、圧もかけず、選手一人ひとりがどう思っているのかを聞いていました。ただ厳しい環境の中でやってきた選手たちが多いので。なのでここで意見がばらけちゃうことはありました」

春のブロック決勝で負けて得た自信、見えてきた「甲子園」という目標

 スタート当初はばらばらだったチーム。だが徐々に大西の考え方にチームがついてきてくれるようになった。そこには毎日行われるミーティングでの話し込みが影響していた。

「当時の3年生18名は自宅生がほとんどでした。なので冬場は終電ぎりぎりまで練習していました。何を話したかは話しすぎて覚えてないですけど、夜11時まで永遠とチームのことについて話したりしましたね。ミーティングは話すことをあらかじめ準備していました。プレゼンと一緒です。一日30分〜1時間はやっていました」

 そうして迎えた春季大会。大西は怪我でベンチを外れ、副キャプテンもベンチにいない状況の戦いになったが、想像以上のチームの手ごたえをここでつかむことになる。

「春の大会は主将の自分と、副キャプテンがベンチ入りもしてなくて。その中で支部のブロック決勝で札幌日大と戦って、僅差で負けました。負けましたが、客観的に見てチームのまとまりも前とは違っていたし、力もついてきたし、もしかしたら甲子園いけるんじゃないかな?と思っていました。

 試合の後グラウンドに戻り、ミーティングして『絶対甲子園いけるんじゃない?』とモチベーションのために言ったんですけど、選手のみんなも同じことを思っていました。そこからですね、チーム一体となったのは。甲子園出場という目標をもったのは。その目標がギリギリだったからこそ中だるみしなくて結構よかったのかなと思います」

父に言われて人生の拍車がかかった言葉とは?

大西 健斗(北海ー慶應義塾大)

 毎日悩みがあったという大西。上げたらきりがないほど問題があったという。その中で支えになったのが尊敬している父親だった。

「親父は僕の人生の師匠でもあるし、野球の師匠でもあります。なので一生憧れの人、尊敬の人です。選手と話すより父さんとずっと話していた記憶があります。練習終わって、今チームはこんな雰囲気だよとか。父は手紙とかよく送ってくれて、そういうコミュニケーションの中で考え方が変わりました。野球の土台を作ってくれたのは父です。父さんと母さんのサポートが僕を一番成長させてくれました。

 両親とはうまくコミュニケーションを取れていました。そんな中で父さんに『やろうとすればお前は何でもできる』と言われ、この言葉で自分の人生に拍車がかかりました。『やればできる』と尊敬している人から言われたので嬉しかったです」

 最初は「甲子園」という目標よりも、まだ大西の代で出場していない「全道大会」に行けるように考えていた大西。そんな中、家族に対しての思いから甲子園出場、勝利することが浮かんだ。

「僕の中では家族のために甲子園に行きたいとは思っていました。家族を喜ばせるには何が必要か考えたときに、じいちゃんやばあちゃんもずっと応援してくれていたので、それが甲子園、甲子園で勝つことという感じですかね。最後にその考えが固まっただけですけど、それまでは何をすればいいかわかりませんでした」

夏を勝ち抜くための大事なこと

 春が終わってから夏前まではキャプテン自ら発言することはなかったという大西。最後のミーティングでかけた言葉とは?

「最後のミーティングでは「明日勝つよ」としか言っていないです。北海は勝たなきゃいけない、とにかく北海道大会を勝たなきゃいけないと思っていました」

 勝たなきゃいけない北海道大会を勝ち抜き、甲子園でも準優勝まで進む大躍進。何を考え夏を戦ったのか、夏を勝ち抜く大西流の考え方を教えてもらった。

「夏の大会を勝ち上がるには『思いっきりやろう』とか『悔いのないようにやろう』とかそう思った時点で負けると思います。普通に焦っちゃうじゃないですか。焦らないというか、これが最後だからと変に気負わずその試合を楽しめばいいと思っています。

 大事なのは「無」ですよ。下手に考えない。ただその瞬間に全力でできることってあると思うので、ピッチャーなら外角のコースに要求されたサインのところに投げるとか。そういうことができれば絶対に流れが来ます。

 ホームラン打って、ガッツポーズしてもいいけど、その一本で勝ったなら試合後に喜べばいいし、ピッチャーなら150キロ出ても試合に負ければ意味がない。僕たちのチームはそれをわかっていたので、まとまりがあったし、勝てたのかなと思います」

後輩に託す「葛藤記録書」、そして甲子園の良さを語る北海時代の大西 健斗(現・慶應義塾大) ※写真=共同通信社

 キャプテンとして様々な苦悩があった大西。彼は自分の野球ノートに苦悩などを書き込んだ。大西はそれを「葛藤記録書」と呼ぶ。そのノートを後輩に託した訳とは。

「僕は後輩に野球ノート、僕の『葛藤記録書』みたいなものを渡しました。それを見せれば何かしらの力になると思うんです。僕も葛藤しまくってました。なので切羽詰まってるときにうまく力になってくれればいいですね」

 大西は昨夏、決勝戦の舞台まで駆け上がった。甲子園、そして決勝戦の雰囲気についてこう語る。「決勝の雰囲気はもう一度味わってみたいとは思います。でも1回で十分です。客観的に見てみたいですね。こんな舞台でやっていたのかって。一種の魔法にかかった感じじゃないですか、甲子園なんて」

 その「魔法」にかかった大西。この経験は後輩にも感じてほしいと思っている。「甲子園を目標にするんじゃなくて、後輩には甲子園で勝つことを目標にしてやってほしいと思います。そこで初めて甲子園の良さがわかりますから」

大西健斗選手が書いた北海時代の「野球ノート」を掲載!!・野球ノートに書いた甲子園5