「真田丸」46話。あのとき信之はどう思っていたのか、台本には書いてあった
NHK 大河ドラマ「真田丸」(作:三谷幸喜/毎週日曜 総合テレビ午後8時 BSプレミアム 午後6時)
11月19日放送 第46回「砲弾」 演出:保坂慶太
先日、最終回のサブタイトルは無題となったと報道された。もうずっと「真田丸」には不意をつかれることばかりで、それが楽しみだったので、サブタイトル無題の件も当日まで伏せていてほしかった気もしないでないが、きっとさらに意表をついてきて、オンエアでは大騒ぎになることだろうと期待している。
それが「真田丸」の面白さのひとつで、46回でも茶々(竹内結子)の本心のわからなさが描かれた。妹の初(はいだしょうこ)が「あの人(茶々)が死にたがっているように思えてならないのです。心のどこかでこの城が焼け落ちるのを待っているように。私たちの父も母も城と共に命を絶ちました。姉も自分も同じ定めであるとなかば信じております」と語りかけると幸村(堺雅人)は「そのようなことは一言も」と驚く。すると初は「本心を語る人ですか?」と切り返す。確かに彼女は、秀吉への感情といい、本心の読めない人だった。
茶々が幸村とふたりきりになったとき、城など要らない、秀頼と源次郎さえいれば、みたいなことを言って幸村にたしなめられる。外ではきり(長澤まさみ)が控えていて、彼女もまた珍しく何も言わない。見る者に想像させる三谷幸喜の脚本。実際のところ、脚本ではどうなっているのだろう? 「真田丸」にかぎらず、テレビ局では、テレビ雑誌をはじめ様々なマスコミが記事を書くために、脚本が読めるようになっている。というわけで、脚本を読んでみた。
読んでみると、心情が( )カッコで書いてあるときもあり、俳優や演出家は( )内の言葉を言葉でない表現で見せようと努めていたことがわかった。
ひとつだけ例をあげると、42話で、信之(大泉洋)が作兵衛(藤本隆宏)を幸村のところへ行かせまいと戦った末、手がしびれて逃してしまうシーンの最後は・・・。
信之「(これも◯◯か)・・・」
と書いてあった。◯◯と書いてあったのではなく、そこはあえて「真田丸」精神(?)にならって伏せ字にしておく。でも2文字なので「これも演出か・・・」でも「これも愛情か・・・」でもなんでもいろいろ2文字を想像してみよう。正解を本文中に隠してみたので知りたい人は探してみてください)。
なるほど、大泉洋のなんとも苦く深い顔は◯◯を全力で表現していた。そして、そのままひとり徳川について、46話でももやもやしている。大坂城に食料を届けようとして稲(吉田羊)と出浦(寺島進)に止められる。
「父上も源次郎もさんざん無茶をしてきたではないか。わしだって一度くらいは」「わしの一生に一度のバカを許せ」と言うものの、「(昌幸は)つねに先を見据えていた。おまえがやろうとしているのはそれとは違う」「父親が必死に守ってきた真田を滅ぼすつもりか」と出浦。やりきれないだろうな、信之。結局、ネバネバするものを出浦に投げられて行けなくなってしまう。まったく、これも◯◯か・・・だなあ。
それにしても、家康@茶臼山(内野聖陽)はやな感じ。
30万の兵をみっつに分けて代わる代わる一晩中、鬨の声を上げさせたり、真田信尹(栗原英雄)に幸村を調略するように命じたり、片桐且元(小林隆)に大坂城の情報を聞き出してカルバリン砲を撃ち込んだり、と陰湿極まりない。
幸村は、「源次郎信繁は父に似て度胸があり知恵も働きそのうえ我ら兄弟に似ず義に厚い男でございます」(信尹)という出来た人物だというのに。
でも「策とはただ戦に勝てば良いというものではございません。いかに味方の命をそこなわないか」と言う幸村と、「戦というのはただ勝てばいいものではございませぬ。いかに兵を損なわずに城を落とすかそこが肝要」と言う本多正信(近藤正臣)。幸村も徳川も、考えてることは同じというのが皮肉。
豊臣側のちょっと楽しい会話劇のあとの痛快なアクションシーン。塙団右衛門(小手伸也)のネタなども交えながら、クルクル回転する殺陣シーンなどで盛り上げてからの、ピンチ。物語が刻々とクライマックスに向かっている。
「その一発の砲弾が多くの人々の運命を狂わせる」(語り/有働由美子)
ギューンと砲弾の長い長いストロークをCGで見せたあとの大きな衝撃。女中たちが下敷きになって死んでしまい、茶々は目の前で死をまた見てしまうのだった。あと4回!!!!
語られないことが多い「真田丸」ではあるが、11月25日放送の「あさイチ」で、堺雅人が37話の名台詞「あの烏帽子岳が3度白くなると里にも雪が降ると言われています。ご存じでしたか」と6話の「薪は3度人を温めるという話を聞いたことがありますか?」は堺の考えた台詞だったことを明かし、視聴者を驚かせた。
言われてみたら、「三度」という回数と、人に訊くパターンが同じで同じ人が考えたものと思える。だからますます三谷が書いたかと思うではないか。もっとも、台本には書いてないが俳優たちが語り合う画がほしいとき、俳優が即興的にしゃべることがあって、堺雅人はそういうときの台詞のセンスがいいのだなあ。
台本に書いてあることもないことも、どこもかしこも「真田丸」は面白い! あと4回!!!!
(木俣冬)
11月19日放送 第46回「砲弾」 演出:保坂慶太
仕掛けが好きな「真田丸」
先日、最終回のサブタイトルは無題となったと報道された。もうずっと「真田丸」には不意をつかれることばかりで、それが楽しみだったので、サブタイトル無題の件も当日まで伏せていてほしかった気もしないでないが、きっとさらに意表をついてきて、オンエアでは大騒ぎになることだろうと期待している。
ゆめゆめ本心を言葉にしないこと
それが「真田丸」の面白さのひとつで、46回でも茶々(竹内結子)の本心のわからなさが描かれた。妹の初(はいだしょうこ)が「あの人(茶々)が死にたがっているように思えてならないのです。心のどこかでこの城が焼け落ちるのを待っているように。私たちの父も母も城と共に命を絶ちました。姉も自分も同じ定めであるとなかば信じております」と語りかけると幸村(堺雅人)は「そのようなことは一言も」と驚く。すると初は「本心を語る人ですか?」と切り返す。確かに彼女は、秀吉への感情といい、本心の読めない人だった。
狂おしい思いを抱いているかもしれない
茶々が幸村とふたりきりになったとき、城など要らない、秀頼と源次郎さえいれば、みたいなことを言って幸村にたしなめられる。外ではきり(長澤まさみ)が控えていて、彼女もまた珍しく何も言わない。見る者に想像させる三谷幸喜の脚本。実際のところ、脚本ではどうなっているのだろう? 「真田丸」にかぎらず、テレビ局では、テレビ雑誌をはじめ様々なマスコミが記事を書くために、脚本が読めるようになっている。というわけで、脚本を読んでみた。
綿密に書かれた「真田丸」の脚本を
読んでみると、心情が( )カッコで書いてあるときもあり、俳優や演出家は( )内の言葉を言葉でない表現で見せようと努めていたことがわかった。
ひとつだけ例をあげると、42話で、信之(大泉洋)が作兵衛(藤本隆宏)を幸村のところへ行かせまいと戦った末、手がしびれて逃してしまうシーンの最後は・・・。
信之「(これも◯◯か)・・・」
と書いてあった。◯◯と書いてあったのではなく、そこはあえて「真田丸」精神(?)にならって伏せ字にしておく。でも2文字なので「これも演出か・・・」でも「これも愛情か・・・」でもなんでもいろいろ2文字を想像してみよう。正解を本文中に隠してみたので知りたい人は探してみてください)。
いつもちょっとかわいそうな信之
なるほど、大泉洋のなんとも苦く深い顔は◯◯を全力で表現していた。そして、そのままひとり徳川について、46話でももやもやしている。大坂城に食料を届けようとして稲(吉田羊)と出浦(寺島進)に止められる。
「父上も源次郎もさんざん無茶をしてきたではないか。わしだって一度くらいは」「わしの一生に一度のバカを許せ」と言うものの、「(昌幸は)つねに先を見据えていた。おまえがやろうとしているのはそれとは違う」「父親が必死に守ってきた真田を滅ぼすつもりか」と出浦。やりきれないだろうな、信之。結局、ネバネバするものを出浦に投げられて行けなくなってしまう。まったく、これも◯◯か・・・だなあ。
それにしても、家康@茶臼山(内野聖陽)はやな感じ。
30万の兵をみっつに分けて代わる代わる一晩中、鬨の声を上げさせたり、真田信尹(栗原英雄)に幸村を調略するように命じたり、片桐且元(小林隆)に大坂城の情報を聞き出してカルバリン砲を撃ち込んだり、と陰湿極まりない。
幸村は、「源次郎信繁は父に似て度胸があり知恵も働きそのうえ我ら兄弟に似ず義に厚い男でございます」(信尹)という出来た人物だというのに。
でも「策とはただ戦に勝てば良いというものではございません。いかに味方の命をそこなわないか」と言う幸村と、「戦というのはただ勝てばいいものではございませぬ。いかに兵を損なわずに城を落とすかそこが肝要」と言う本多正信(近藤正臣)。幸村も徳川も、考えてることは同じというのが皮肉。
豊臣側のちょっと楽しい会話劇のあとの痛快なアクションシーン。塙団右衛門(小手伸也)のネタなども交えながら、クルクル回転する殺陣シーンなどで盛り上げてからの、ピンチ。物語が刻々とクライマックスに向かっている。
「その一発の砲弾が多くの人々の運命を狂わせる」(語り/有働由美子)
ギューンと砲弾の長い長いストロークをCGで見せたあとの大きな衝撃。女中たちが下敷きになって死んでしまい、茶々は目の前で死をまた見てしまうのだった。あと4回!!!!
語られないことが多い「真田丸」ではあるが、11月25日放送の「あさイチ」で、堺雅人が37話の名台詞「あの烏帽子岳が3度白くなると里にも雪が降ると言われています。ご存じでしたか」と6話の「薪は3度人を温めるという話を聞いたことがありますか?」は堺の考えた台詞だったことを明かし、視聴者を驚かせた。
言われてみたら、「三度」という回数と、人に訊くパターンが同じで同じ人が考えたものと思える。だからますます三谷が書いたかと思うではないか。もっとも、台本には書いてないが俳優たちが語り合う画がほしいとき、俳優が即興的にしゃべることがあって、堺雅人はそういうときの台詞のセンスがいいのだなあ。
台本に書いてあることもないことも、どこもかしこも「真田丸」は面白い! あと4回!!!!
(木俣冬)