教科書は間違い!? 「革命家」ではなかった織田信長の真の姿とは
皆さんは織田信長についてどのようなイメージを抱いているだろうか。よくテレビドラマや小説などで描かれる「古い習慣や慣習を破壊する」「宗教を信じない」などといった革新的な姿を想像するのではないか。
だが、史実を見ていくとそんな「革命家」「カリスマ」の姿とは違い、時には既得権への配慮も行うことも辞さない「現実的・合理的主義者」の信長像が浮かび上がる。
そんな信長の姿を「信長の政略: 信長は中世をどこまで破壊したか」(著:谷口克広/学研パブリッシング)から外交、軍事、内政の3つを中心に見ていこう。
「恐れる敵は誰もいない」という"魔王"的イメージを持つ信長だが、実際には諸勢力に対してどのように振舞っていたのだろうか。
1.敵大名との関係
信長は戦国時代で初めて天下統一を目指した人物として知られる。そのため、武田や上杉、毛利など数々の大大名と戦った。また、当時は小大名であった信長が1560年の桶狭間の戦いで大大名今川家を破ったことを考えると、どんな強大な敵にも恐れず歯向かう印象も受ける。
だが、実際の信長は、自分より相手が格上の場合は積極的に媚びて謙虚な姿勢を崩さなかった。例えば、上杉謙信へ信長が直接宛てた手紙では極端にへりくだった表現をしているし、武田信玄に対してはかなり立派な贈り物をするなど相手のプライドを損ねないよう苦心していたことが伺える。だが、織田家が力をつけて上杉や武田と対等になると、信長は互角に付き合う姿勢を見せるようになった。ここに彼の合理的考えが現れている。
2.将軍との関係
教科書などでは、信長は15代将軍足利義昭を追放して室町幕府を終わらせた人物と書かれている。これだけ見ると信長が将軍に対して強硬な姿勢で敵対し、追放まで行ったように映るが実情はそうではない。むしろ信長は生ぬるい姿勢を崩さず、それが原因でかなり将軍に舐められていた。
当初、信長は将軍のために新御所を建てるなど関係良好だったが、次第に将軍の勝手な行動が目に付くようになり激しく批判した。とはいえ、信長には排除する意思はなく、懸命に将軍を説得している。ある手紙では「将軍もこちらの考えを分かって下さるだろうか」と弱気な気持ちを明かしたほどだ。
その一方、将軍の足利義昭は信長の弱い姿勢につけ込み最後まで抵抗した。信長が最終手段ともいえる天皇を動かして将軍と和睦したにもかかわらず、数カ月後には再び挙兵したほどだ。
ここまで舐められながら、殺さずに追放のみで済ませた信長はやはり将軍に対して相当に甘い姿勢で接し続けたといえる。このように信長が将軍に対して強硬な姿勢をとらなかった理由を筆者は、世間からの評判(世論)を気にしたからではないかと述べている。従来の信長像から考えると世間からの評判を気にするという姿は意外ではないだろうか。
3.天皇との関係
そんな世間からの評判を気にする信長は皇室を保護する姿勢をとっている。例えば、皇居の修理を行なう、皇太子の元服のための費用を献上したことなどだ。
また、公家に対しても徳政令を出すなど経済的な救済を行なっている。
信長は権威を気にせず天皇を軽んじたという説も見られるが、これらはかなり無理筋であり、実際のところは敬う姿勢を見せていたと言えるだろう。
4.宗教との関係
信長といえば宗教を信じず、神仏を恐れないイメージが強い。確かに宗教勢力に対して相当に無慈悲な焼き討ちも行なったことは事実だ。だが、実際の信長は神に祈願することはあったし、寺院や神社に対して所領安堵や課役免除などの保護をする一面もある。
では、なぜ信長は比叡山延暦寺などに対して無慈悲な焼き討ちを行なったのだろうか。
これは単純に宗教勢力が「敵対したから」だ。現代とは違い、宗教勢力は鉄砲等で武装して諸勢力に歯向かうことも珍しくなかった。信長はそれらの敵対行為を受けて報復しただけである。
信長は「味方をしたものに対しては保護し、敵対したものには報復」という他の大名も行なっていた常識的行動をとったに過ぎない。
これらから見るに、信長は敵大名には力関係を見極め合つつ振舞い、将軍や天皇といった大きな権力には評判を気にして下手に、そして宗教勢力に対しても敵対さえしなければ保護もするという「革命家」とはかけ離れた常識的な姿が浮かび上がる。
では、信長が戦においてどのような戦術を取っていたのだろう。桶狭間の戦いでは数倍もの今川軍と戦いを挑み、見事に勝った。
信長といえばこの劇的な戦いの印象がかなり強いため、果敢に大軍に立ち向かう姿を想像するかもしれない。しかし、桶狭間の戦いはかなり例外的であり、実際の信長はとても戦いには慎重であった。必ず敵を上回る兵力を準備しなければ出陣しなかったのだ。敵よりも多くの兵力で強攻、大軍を持って一気に押し切って勝つというのが基本的な信長の戦い方である。つまり、調略などの小細工をせずに正攻法で勝つというスタイルだ。
また、戦い方といえば信長は鉄砲の凄さに誰よりも早く気づき、大量の鉄砲を用いる「三段打ち」を行って戦闘面でも革命を起こしたと教科書には書かれている。しかし、先ほど諸勢力に対しての対応と同じようにこのような「革命家」的な姿は誤りだ。
研究者の間では「三段打ち」はフィクションでほぼ間違いないとされているし、織田家が他大名より鉄砲を重視したという考えも覆されている。事実、武田家や北条家なども鉄砲を決して軽視していた訳ではなく、鉄砲戦術の質的な面では織田家と差異がなかったという意見もある。
このような点から信長は軍事面においても革新性がなく、極めて王道的でシンプルな作戦を採っていたことがわかる。
さて、内政面では信長はどのような統治を行なっていたのか。
特に内政面で代表的政策といえるのが、楽市楽座令だ。皆さんも学校の授業では、信長は楽市楽座令を打ち出して自由な貿易を推奨したと習っただろう。これを踏まえ考えると信長は市や座といった既得権を打破した先進性があったように思える。だが、実際のところは楽市楽座は一部の都市のみにしか認めなかった。信長の基本的政策としては完全自由化はせず、座や有力商人を保護する姿勢を見せた。
また、代表的な自治都市である堺に対しても完全に支配下に置くことはなく、堺の商人には経済的特権を与えていた。
このように信長が既得権に対して配慮していたことは合理的な考えがあってのことだった。というのも既得権を解体したら、ゼロから流通面や集金面に関して整備し直さないとならない。しかし、既得権を保護しておけば、彼らの持っている資金などをそのまま利用できるからだ。
ここまで信長の外交、軍事面、内政面を見てきたが、テレビなどで広く見られる「革命家・信長」は誤りであることが分かるだろう。信長は戦国大名の中で誰よりも早く天下統一を目指し、誰よりも勢力を拡大したことや桶狭間の戦いのように劇的な勝利を収めたことは事実であるため、何か他の武将と比べ特別なことをしたのではないかと思われがちだ。
だが、実際は古くからの権威に対しては敬意を払い、自分の利益になる既得権は出来る限り保護するなどというむしろ保守的・合理的な手段のもと、勢力を拡大し続け天下まであと一歩のところまで登り詰めたのだ。
(さのゆう)
だが、史実を見ていくとそんな「革命家」「カリスマ」の姿とは違い、時には既得権への配慮も行うことも辞さない「現実的・合理的主義者」の信長像が浮かび上がる。
そんな信長の姿を「信長の政略: 信長は中世をどこまで破壊したか」(著:谷口克広/学研パブリッシング)から外交、軍事、内政の3つを中心に見ていこう。
信長の外交
「恐れる敵は誰もいない」という"魔王"的イメージを持つ信長だが、実際には諸勢力に対してどのように振舞っていたのだろうか。
1.敵大名との関係
信長は戦国時代で初めて天下統一を目指した人物として知られる。そのため、武田や上杉、毛利など数々の大大名と戦った。また、当時は小大名であった信長が1560年の桶狭間の戦いで大大名今川家を破ったことを考えると、どんな強大な敵にも恐れず歯向かう印象も受ける。
だが、実際の信長は、自分より相手が格上の場合は積極的に媚びて謙虚な姿勢を崩さなかった。例えば、上杉謙信へ信長が直接宛てた手紙では極端にへりくだった表現をしているし、武田信玄に対してはかなり立派な贈り物をするなど相手のプライドを損ねないよう苦心していたことが伺える。だが、織田家が力をつけて上杉や武田と対等になると、信長は互角に付き合う姿勢を見せるようになった。ここに彼の合理的考えが現れている。
2.将軍との関係
教科書などでは、信長は15代将軍足利義昭を追放して室町幕府を終わらせた人物と書かれている。これだけ見ると信長が将軍に対して強硬な姿勢で敵対し、追放まで行ったように映るが実情はそうではない。むしろ信長は生ぬるい姿勢を崩さず、それが原因でかなり将軍に舐められていた。
当初、信長は将軍のために新御所を建てるなど関係良好だったが、次第に将軍の勝手な行動が目に付くようになり激しく批判した。とはいえ、信長には排除する意思はなく、懸命に将軍を説得している。ある手紙では「将軍もこちらの考えを分かって下さるだろうか」と弱気な気持ちを明かしたほどだ。
その一方、将軍の足利義昭は信長の弱い姿勢につけ込み最後まで抵抗した。信長が最終手段ともいえる天皇を動かして将軍と和睦したにもかかわらず、数カ月後には再び挙兵したほどだ。
ここまで舐められながら、殺さずに追放のみで済ませた信長はやはり将軍に対して相当に甘い姿勢で接し続けたといえる。このように信長が将軍に対して強硬な姿勢をとらなかった理由を筆者は、世間からの評判(世論)を気にしたからではないかと述べている。従来の信長像から考えると世間からの評判を気にするという姿は意外ではないだろうか。
3.天皇との関係
そんな世間からの評判を気にする信長は皇室を保護する姿勢をとっている。例えば、皇居の修理を行なう、皇太子の元服のための費用を献上したことなどだ。
また、公家に対しても徳政令を出すなど経済的な救済を行なっている。
信長は権威を気にせず天皇を軽んじたという説も見られるが、これらはかなり無理筋であり、実際のところは敬う姿勢を見せていたと言えるだろう。
4.宗教との関係
信長といえば宗教を信じず、神仏を恐れないイメージが強い。確かに宗教勢力に対して相当に無慈悲な焼き討ちも行なったことは事実だ。だが、実際の信長は神に祈願することはあったし、寺院や神社に対して所領安堵や課役免除などの保護をする一面もある。
では、なぜ信長は比叡山延暦寺などに対して無慈悲な焼き討ちを行なったのだろうか。
これは単純に宗教勢力が「敵対したから」だ。現代とは違い、宗教勢力は鉄砲等で武装して諸勢力に歯向かうことも珍しくなかった。信長はそれらの敵対行為を受けて報復しただけである。
信長は「味方をしたものに対しては保護し、敵対したものには報復」という他の大名も行なっていた常識的行動をとったに過ぎない。
これらから見るに、信長は敵大名には力関係を見極め合つつ振舞い、将軍や天皇といった大きな権力には評判を気にして下手に、そして宗教勢力に対しても敵対さえしなければ保護もするという「革命家」とはかけ離れた常識的な姿が浮かび上がる。
信長の戦い方
では、信長が戦においてどのような戦術を取っていたのだろう。桶狭間の戦いでは数倍もの今川軍と戦いを挑み、見事に勝った。
信長といえばこの劇的な戦いの印象がかなり強いため、果敢に大軍に立ち向かう姿を想像するかもしれない。しかし、桶狭間の戦いはかなり例外的であり、実際の信長はとても戦いには慎重であった。必ず敵を上回る兵力を準備しなければ出陣しなかったのだ。敵よりも多くの兵力で強攻、大軍を持って一気に押し切って勝つというのが基本的な信長の戦い方である。つまり、調略などの小細工をせずに正攻法で勝つというスタイルだ。
また、戦い方といえば信長は鉄砲の凄さに誰よりも早く気づき、大量の鉄砲を用いる「三段打ち」を行って戦闘面でも革命を起こしたと教科書には書かれている。しかし、先ほど諸勢力に対しての対応と同じようにこのような「革命家」的な姿は誤りだ。
研究者の間では「三段打ち」はフィクションでほぼ間違いないとされているし、織田家が他大名より鉄砲を重視したという考えも覆されている。事実、武田家や北条家なども鉄砲を決して軽視していた訳ではなく、鉄砲戦術の質的な面では織田家と差異がなかったという意見もある。
このような点から信長は軍事面においても革新性がなく、極めて王道的でシンプルな作戦を採っていたことがわかる。
信長の内政
さて、内政面では信長はどのような統治を行なっていたのか。
特に内政面で代表的政策といえるのが、楽市楽座令だ。皆さんも学校の授業では、信長は楽市楽座令を打ち出して自由な貿易を推奨したと習っただろう。これを踏まえ考えると信長は市や座といった既得権を打破した先進性があったように思える。だが、実際のところは楽市楽座は一部の都市のみにしか認めなかった。信長の基本的政策としては完全自由化はせず、座や有力商人を保護する姿勢を見せた。
また、代表的な自治都市である堺に対しても完全に支配下に置くことはなく、堺の商人には経済的特権を与えていた。
このように信長が既得権に対して配慮していたことは合理的な考えがあってのことだった。というのも既得権を解体したら、ゼロから流通面や集金面に関して整備し直さないとならない。しかし、既得権を保護しておけば、彼らの持っている資金などをそのまま利用できるからだ。
ここまで信長の外交、軍事面、内政面を見てきたが、テレビなどで広く見られる「革命家・信長」は誤りであることが分かるだろう。信長は戦国大名の中で誰よりも早く天下統一を目指し、誰よりも勢力を拡大したことや桶狭間の戦いのように劇的な勝利を収めたことは事実であるため、何か他の武将と比べ特別なことをしたのではないかと思われがちだ。
だが、実際は古くからの権威に対しては敬意を払い、自分の利益になる既得権は出来る限り保護するなどというむしろ保守的・合理的な手段のもと、勢力を拡大し続け天下まであと一歩のところまで登り詰めたのだ。
(さのゆう)