凄惨な事件から24年。ルワンダで生きる人々の今を追った(写真:splendens/iStock)

私たちが「ルワンダ」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、やはり1994年に起きたジェノサイド(虐殺)だろう。フツ族の過激派がメディアを使って人々を煽動したことにより、それまで隣人として暮らしてきた人々が暴行を加えられ、多くの命が奪われるという惨劇は、当時のニュース映像や映画『ホテル・ルワンダ』を通して日本にも伝えられた。

癒えない傷を抱えながら生きる国民

あれから24年の歳月が流れた。ルワンダは現大統領の強烈なリーダーシップによって国家再建に成功しつつあり、いまやIT立国として日本からも多くの視察者が訪れるほどになった。あれだけの虐殺が起きたことが信じられないほど人々は穏やかな性格で、「アフリカで最も安全な国」と言われるほど治安もいい。

だが。

急速な発展を遂げる都市部を離れると、24年前の出来事がいまだこの国に大きな爪痕を残していることがうかがえる。人々が自由に行き交う都市部とは異なり、農村部ではジェノサイドの前と後でも変わらずに、人々は同じ土地で、同じ顔ぶれで生活を送るしかない。つまり、ジェノサイドで暴行を加えていた加害者側と暴行を受けていた被害者側が、狭いコミュニティの中で共に生活をしているのだ。


キガリ市内の「ジェノサイド・メモリアル」

なかには、自分の夫を殺された者もいる。なかには、自分の娘を強姦された者もいる。なかには、自分自身が農具として用いるナタで殴られ、瀕死の重傷を負った者もいる。

想像してみてほしい。「もし、自分だったら」を。自分の人生に、一生をかけても癒やせないほど大きな傷を刻み込んだその相手と、再び笑顔で語り合えるだろうか。ジェノサイドが終わったからといって、すべてを水に流し、再び手を取り合って生活をしていくことなどできるだろうか。

「できるわけがない」

多くの人はそう答えるに違いない。だが、ルワンダでは多くの人々が土地に根ざした暮らしを重ねてきており、また経済的状況からほかの土地に移住することも難しい。結果として、被害者と加害者が同じコミュニティの中で生活を送ることを余儀なくされているのだ。もちろん、そこには筆舌に尽くしがたい苦悩があることは容易に想像できる。

被害者と加害者、和解への道

しかし、そうした彼らの苦しみに寄り添い、長年にわたってサポートを続けてきた人々がいる。

フィルバート・カリサ氏は、ジェノサイドが起こった2年後の1996年に、被害者と加害者の間に横たわる深い溝に少しでも橋を渡していこうと、NPO「REACH」を立ち上げた。「REACH」とは、「Reconciliation Evangelism And Christian Healing」の頭文字。日本語に訳すと、「和解の福音宣教とクリスチャンの癒やし」というやけに堅苦しい表現になってしまうが、ジェノサイドによって断絶されてしまった被害者と加害者の間に和解を促すためのクリスチャンによる団体だ。

首都・キガリにあるREACHのオフィスを訪ねると、カリサ氏は50代とは思えないほど若々しい笑顔で出迎えてくれた。

「最初の数年は、誰からも笑われていました。彼らを和解させるなんて、そんなの無理に決まってるだろう、と」

 当時は、ジェノサイド直後。周囲の冷笑も受け止めるしかなかった。それでもカリサ氏は「神の導きだから」と情熱を絶やさず、投げ出すことをしなかった。


REACHの創設者フィルバート・カリサ氏

「誰もが無理だと考えていた両者の和解。それを実現するには、主に2つのことが必要でした。ひとつは、加害者側が、自分たちがしてきたことがどんなことであり、それが相手の人生にどんな影響を与えてしまったのかという事実にしっかりと向き合い、心から反省をすること。やはり彼らも罪悪感がありますから、本来であればジェノサイドのことは振り返りたくない。そこにはあまり触れることなく生活していきたい。でも、それでは和解などすることができないのです」

もうひとつは、被害者側への働きかけ。

「彼らも隣人たちともう一度、共に生活していかなければならないと頭ではわかっているんです。でも、やはり彼らへの恐れや憎しみはそう簡単に消えるものではない。そうした感情に対して、少しずつ時間をかけて癒やし、解きほぐし、許しへと導いていく。それが、私たちのもうひとつの大切な使命です」

言うは易し。だが、それを実現していくまでの道のりは、決して平坦なものではない。加害者による反省と謝罪。被害者による許し。和解のためにどうしてもこれらのハードルを越えていく必要がある。

REACHでは、加害者側、被害者側それぞれにワークショップを開き、彼らの感情の変化を促す活動を続ける1人の日本人と出会った。


カリサ氏の50代とは思えない若々しい笑顔

「カズはとても力になってくれました。彼はルワンダの人々の気持ちにとても真摯に向き合い、どんなワークショップにすればいいのかと、その内容を一生懸命に考えてくれたんです」

現在はルワンダ南部にあるプロテスタント人文・社会科学大学で教える佐々木和之氏は、2000年に初めてルワンダを訪問。ジェノサイドが残した深い傷跡に衝撃を受けた。その後、2005年から10年以上にわたってREACHと連携し、「癒やしと和解」プロジェクトの構築に努めてきた。

「国民すべてが被害者」

「ワークショップやセミナーの内容を考えるにあたって、まず参考にしたのは南アフリカの例です。アパルトヘイト時代の人権侵害やその賠償問題などを解決するために設置された真実和解委員会には参考にすべきところが大いにありました。ですが、やはり南アフリカとルワンダでは背景にある事情や政治的状況も異なります。ですから、やはりルワンダで独自に考えていかなければならない部分が大きかった」

佐々木氏が和解へのプロセスで重視したのは、小グループでのディスカッション。「フツ族とツチ族」「加害者と被害者」という大きな枠組みではどうしても和解へのハードルが高くなってしまうが、あくまで個人としての経験や感情を伝え合う場を設けていくと、そこに共感が生まれやすくなるのだという。

「なかには、ツチ族からの報復でご主人を殺されたフツ族の女性もいたりする。また、フツ族のなかにも穏健派というのがいて、当時、彼らもまたフツ族の過激派から襲撃され、殺されたりもしていた。そういうことが被害者側にもシェアされると、一概に『加害者と被害者』という対立構図で描ける問題ではなく、あのジェノサイドによって国民の誰もが傷ついているのだということが理解されるようになっていくんです」


長年にわたってルワンダの人々に寄り添う佐々木和之氏

もうひとつ、佐々木氏が苦心しながらも進めてきたのが、「償いのプロジェクト」。ジェノサイドにおける加害者側が、被害者側のために住居を建設するプロジェクトだ。もちろん、カリサ氏も言及しているように、最も大切なことは加害者が自分たちのしてきたことと真摯に向き合い、心から悔い、謝罪をすること。だが、その先に「被害者のために何ができるのか」を形で表すことも、和解に向けては確かな効果を発揮するのだという。

「加害者が謝罪の言葉を口にし、被害者も表面上は許していたものの、心の奥底では許せずにいたということも少なくないんです。ところが、1年、2年と自分の家を造るために汗を流す姿を見て、少しずつ心のわだかまりが和らいでいく。そして、家が完成したときに、ようやく心から許せるようになったということもあるんですね」

こうした努力が少しずつ実を結び、現地では加害者と被害者が協働しながら生産活動に取り組む動きも出てきた。タンザニアとの国境に近いルワンダ東部のキレヘでは、佐々木氏が日本の市民団体の支援やREACHの協力を得ながら結成した手工芸組合や養豚組合があり、そこにはフツ族の人もツチ族の人も参加し、共に作業している。

「はじめからうまくいったわけではありませんよ」

そう語るのは、キレへで長年にわたって和解プロジェクトに尽力してきたオーガスティン牧師だ。カリサ氏、佐々木氏がともに絶大な信頼を寄せる温厚な牧師は、プロジェクト発足時の苦労を懐かしそうに振り返った。


最初に人々が集められた教会。当初は互いに交わることを避けていた

「はじめは教会に集まってもらったんです。もちろん、そこには加害者と被害者それぞれが来ることは知らせずに。当初、人々は決して交わろうとしませんでした。教会の座席は3列に分かれているのですが、フツの人々は右の列に、ツチの人々は左の列に座って、真ん中の列には誰も座ろうとしませんでした」

だが、それでもオーガスティン牧師は諦めず、双方の人々に声をかけ続けた。人々は牧師の誘いに応じて教会には足を運ぶものの、それでも互いに警戒し、座る場所は離れたまま。あいさつを交わすこともなかった。

「そんな様子に変化が表れはじめたのは、4回目くらいからでした。簡単なあいさつを交わす人が現れたり、誰も座ろうとしなかった真ん中の列に座ったりする人々が出てきたのです」

武器を取らなかった女性たち

オーガスティン牧師が目をつけたのは、女性同士の交流だった。加害者側である男性は、まだ刑務所に収容されたまま。しかし、女性のなかで残虐な行為に手を染めた者は少ない。被害者側から見ても、憎しみの度合いは薄まる。また、ジェノサイド後に夫が収監され、孤独な生活を強いられているという被害者的な側面がないとも言えない。

「男性たちが刑務所から出てくる前に、なんとか女性同士の関係性を構築しておくことが重要だと考えました。そこで、彼女たちがより交流を持てる場を作ろうと、アートクラフトで作品を作ったり、さらにはそれを販売したりするような活動を始めたのです」

はたして、女性たちはアートクラフトを通じて少しずつ距離を縮めていき、やがて日常的な会話をするようになり、さらには“同僚”から“友人”と呼べるまでの関係性を築いていった。そして彼女たちの関係性は、やがてオーガスティン牧師を驚かせるほどのものへ発展していく。


プロジェクトのキーマン、オーガスティン牧師

「フツ族の女性たちは、時折、刑務所に収監されている夫に会いに行くのですが、この活動を通して仲良くなったツチ族の女性たちがそこについていったりするんです。本来であれば、自分の家族を奪った相手ですから複雑な思いがあって当然なのですが、あくまで友人の付き添いとして刑務所に同行する。これには驚きました」

こうして女性たちが良好な関係を築いていくなかで、2003年ごろから加害者側の男性たちが刑期を終えて、村に戻ってくるようになった。せっかく関係性を築くことができた女性たちに再び亀裂が生じることはないのか。実際に凶行に及んだ男性たちを、凄惨な被害に遭った人々は許すことができるのか。和解プロジェクトは、新たな局面を迎えることとなった。

確実に成果を挙げたプロジェクト

「もちろん、課題は多くありました。ただ結論から言えば、それまで女性同士で関係を構築してきたことが大きくプラスに働いたのです。先にも述べたように、被害者側の女性たちが直接、刑務所に面会に行っていたことも大きかったですし、また被害者側に友人ができたことで、妻が夫に対して反省と謝罪を促すというようなこともあったようです」

また、刑期を終えて村に戻る男性たちに対し、佐々木氏らは複数回にわたってワークショップを行い、自らの過去としっかり向き合う機会を設けるようにした。こうした丁寧な積み重ねにより、男性たちが戻ってからも、村に大きな混乱が生じることはなかったという。


手工芸組合の女性たち。ここでは加害者と被害者が共に活動する

手工芸組合が女性たちの関係性を構築するのに大きく役立ったように、現在では2013年に結成された養豚組合が、今度は男性も含めて双方が一緒に作業する場を提供している。そこでは、暴行を受けた後遺症でうまく体を動かせないツチ族の女性を、フツ族の男性が積極的にサポートする姿も日常的に見られるという。

「しかし、心からの和解というものは、そう簡単に実現できるものではありません。それは24年が経った今でも、です。それでも、私たちはジェノサイドが人々の心に残した深い傷を少しでも癒やし、回復させることができるように、できるかぎりのことをしていくつもりです」

どんなに頑張っても動かすことができるかわからない巨大な岩を、それでも死力を尽くして押し続ける――。そんな不屈の精神を、オーガスティン牧師の言葉は感じさせてくれた。