実は小野小町は十二単を着てなかった!?百人一首の女性達の服装の真実
十二単を着た小野小町の絵には間違いが!?
「世界三大美女」として知られ、「小倉百人一首」や「古今和歌集」にもその歌が取り上げられている「小野小町」。その本名や、正確な人物像などは未だにはっきりとは分かっていません。
百人一首の絵札や解説本の多くで、彼女はこのような平安時代の女性貴族の代表的な衣装である「十二単」を着た姿に描かれています。
実に華やかですが、この絵には大きな間違いがあります。
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十二単が着用されるようになったのはいつから?
十二単が貴族の女性達に着用されるようになったのは、平安時代の10世紀頃と言われています。奈良時代〜平安時代の初期までの日本では、文化だけでなく服装も、中国大陸からの影響を色濃く受けたものが使用されていました。
しかし894年に、現在では「天神様」として知られる菅原道真の建議により遣唐使が廃止されると、日本はそれまでの唐風の文化から、日本独自の「国風文化」を発展させていきます。もちろん服装についても、例外ではありませんでした。
そして10世紀頃に、現在「十二単」と呼ばれている「五衣唐衣裳」が、貴族女性の装束として定着しました。
(画像出典:写真素材足成)
小野小町は生没年不詳ですが、9世紀頃に生きた女流歌人と言われています。遣唐使の廃止は9世紀の末期である894年でしたが、その後もしばらくの間、貴族達は「唐渡りの物」を身に付けて生活していました。そこから考えると、小野小町もまだ十二単ではなく、唐風の装束を着ていたことでしょう。
京都の「時代祭」は、歴史上の様々な人物達が時代考証に基づいた衣装を着て登場するということで、人気を博しています。ここで小野小町に扮する女性も、十二単ではなく、唐風の衣装を着ています。
なぜ百人一首の絵札の女性はみんな十二単になったの?
ちなみに「小倉百人一首」の絵札では小野小町だけでなく、彼女より更に前の時代を生きた持統天皇(645〜703年)までもが十二単を着た姿で描かれています。当然ですが、持統天皇の時代にも十二単はまだありません。
なぜこうなったかは定かではありませんが、小倉百人一首の撰者である藤原定家が平安時代末期〜鎌倉時代初期の人だったことや、百人一首が現代のように「かるた」として遊ばれるようになり始めたのが戦国時代頃であったことなどから、絵札を描く際に作者達をその時代の高貴な人々の服装に描いていたのが、その後も伝統として受け継がれるようになったのだと思われます。
時代考証に基づいて改めて絵札を描いた「百人一首」があったら、面白いかも知れませんね!