Photo by European Commission DG via filkr

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 結局、ISILによる人質事件は最悪な結果を迎えてしまいました。私からも故人には心よりご冥福をお祈り申し上げたいと思います。ただ、その対応の是非を巡っては様々な意見が飛び交っておりますが、個人的には何か腑に落ちない部分も少なくありません。というのも、そういった議論や批判の根底には一つ不足している点があるからです。それが「自己責任」の是非というものです。

 もちろん、交渉部分の検証は、今後に活かすという点で、多少の議論の余地はあるのかもしれませんが、判断の是非にまで踏み込むことは容易なものではありません。何故なら、これは一方的な拉致とは異なり、個人の意志をある程度伴うものだからです。しかも、相手は明らかに私たちとは異なる価値観を持っている上、本国のみならず、世界各国が抱えている共通の問題でもあります。そう簡単な話では決してないでしょう。事実、ISILは、本来の目的は、交渉結果にはなく、動揺させることにあったと主張しております。これでは交渉の余地は当初からなかったと言っているようなものです。

 しかし、こうした問題に対して、動揺を恐れずに屹然と対応すればする程、翼賛体制的と非難される方もいる。それでは一体どうすれば良かったのでしょうか。

 本来、こうした事案に対して確実に協議できる部分は、具体的手段が講じられる部分にしかないわけで、そういう意味では、政府が直接関与できる「渡航注意喚起」にしか、その対応の是非が実質的には求められないのではないかと見ています。しかし、なかなか、こうした点に話が及ばないのは、この「自己責任」という問題が非常にセンシティブに捉えられているからです。

 例えば、亡くなられた方々にも相応の自己責任があると言うと冷たいとおっしゃられる方がおります。確かに、人情としては理解できる部分はありますが、だからといって、個人の裁量を国や社会すべてに押し付けることは到底容認できるものではありません。何故なら、「自由」という裁量の中には、一定の「リスク」というものがつきまとうからです。これを公私混同してしまっては、社会全体がリスクに冒されることを意味します。

 しかし、ジャーナリストに対する旅券返納命令などを問題視される方々は、このリスクには触れず、自分たちの権利主張ばかりをしています。「個人の自由は保障しろ!」と言いながら、他方、「その結果責任を伴うリスクは国が負え」では、国としては、具体的手段に応じることのできる「渡航注意喚起」にしかその判断を負う他ないと思います。

 お笑いタレントのガリガリガリクソンさんは、「自由と勝手は違う」と端的にその本質を述べておりましたが、結局、問題はここにあるのかもしれません。もちろん、「自由」という気風がもたらす、あらゆる可能性は否定しませんが、その尊さは当人がリスクを負った結果に成り立つ部分も大きいはずです。今、火星移住の募集が何かと話題を集めていますが、片道切符とも伝えられるその無謀さも、個人の持つ可能性というリスクに支えられてこそ実現し得るものとなっています。

 このため、仮に政府に対する妥当性のある批判を求めるのなら、「何故、行かせたんだ」ということはあっても、「何故、救えなかったんだ」という批判はあまりに非情に映るわけです。誠に残念なことではありますが、冷静な判断を求めるのであれば、より一層の自制を効かせる必要があるのではないでしょうか。

 幸い、日本は社会意識が非情に強い国です。殺人発生率が、昨年の統計でも世界218国中215位と極めて低いのも、平和憲法があるからなどという話ではなく、日本人の意識の根底に、個人よりも社会を尊ぶ風土があってこそのものだと思っています。非常に難しい話ではありますが、少なくとも失われた尊い犠牲は、こうした混乱を望んでいたわけではないだろう、そう思うのですがいかがでしょうか。

著者プロフィール

一般社団法人国際教養振興協会代表理事/神社ライター

東條英利

日本人の教養力の向上と国際教養人の創出をビジョンに掲げ、を設立。「教養」に関するメディアの構築や教育事業、国際交流事業を行う。著書に『日本人の証明』『神社ツーリズム』がある。

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