小保方騒動を描いた『捏造の科学者』に見る科学記者の矜持
STAP細胞事件を追った『捏造の科学者』(文藝春秋社)が、ベストセラーとなっている。
2014年末の発売ながら早くも大増刷して8万部を突破、「本が売れない」といわれる状況のなか、快挙といっていい。
確かに売れる条件は揃っている。
誰もが知っているSTAP細胞、主役を演じた小保方晴子・理化学研究所元研究ユニットリーダーの個性、その上司で再生医療研究の第一人者である笹井芳樹氏の自殺……。本稿ではこの著作の意義について触れてみたい。
著者は毎日新聞科学環境部に所属する須田桃子記者。
本書が優れているのは、一般読書の関心を引く題材を扱い、「世紀の発見」といわれた理研の発表現場から免れなくなった捏造の確定までを丁寧に追うことで、科学ジャーナリズムの持つ役割を果たし、「STAP細胞事件とは何だったのか」が、読者に過不足なく伝わってくることだ。
再生医療研究の現場で繰り広げられている議論を、一般人が十全に理解することは不可能に近い。STAP細胞と小保方問題に興味を持ち、相当に深く報道に接した人でも、情報の持つ意味を正確に捉え、真偽の判断を下すのは難しい。
それを手助けするのが科学ジャーナリズムであり、なかでも毎日新聞科学環境部でSTAP取材班の中心となった須田記者は、関係者への独自取材でスクープを連発、報道内容は群を抜いていた。その秘密が、須田記者の関係者への取材を繰り返す熱心さと、豊富な知識にあることが理解できた。
STAP細胞事件は単独で浮上したわけではない。この頃、同時に製薬会社・ノバルティスファーマの薬事法違反事件があり、東大、京大などの医学部で、同種の製薬メーカーとの癒着と、それを原因とした論文不正が指摘されていた。そこで、科学記者だけでなく、経済部記者や社会部記者も、医療業界と研究機関が抱える「闇」を取材、昨年は論文不正に関する報道が相次いだ。
須田記者を育成した毎日新聞の組織体勢私自身、論文不正問題に取り組み、ノバルティス事件、小保方氏の博士論文不正疑惑などを記事化したが、なかでも熱心に取り組んだのが,岡山大学で発覚した医学部の有力教授を含む論文不正だった。そこでは、データ改ざん論文、コピペ論文が横行、それを内部告発した薬学部の学部長と副部長を、大学側が「停職9ヶ月」の報復人事で応えるという信じ難い事態が、今も続いている。
その問題は別の機会に譲るとして、取材を通じて痛感したのは、専門知識が不足しているがゆえに、論文不正にもう一歩踏み込むことの出来ないもどかしさだった。「勉強不足」と指摘されればその通りだが、生半可な知識では対抗できない世界であるのも事実だ。
『捏造の科学者』は、科学ジャーナリズムの気概を胸に、「真贋」の部分に堂々と切り込んで行く。それが出来るのは、大学院で物理学修士を取得したという須田記者の経歴と日常の勉強もさることながら、この人を10年近く科学環境部に置き、専門記者として育てている毎日新聞の体制と体質に依る。
昨今、マスコミの力が衰えたといわれるが、その底力を久しぶりに見せつけ、それが認められた力作でもある。
伊藤博敏ジャーナリスト。1955年福岡県生まれ。東洋大学文学部哲学科卒業。編集プロダクション勤務を経て、1984年よりフリーに。経済事件などの圧倒的な取材力では定評がある。近著に『黒幕 巨大企業とマスコミがすがった「裏社会の案内人」』(小学館)がある