「まあ、いろいろあったんだよ!」とビールをつがれました。松村邦洋と清原の意外な接点
松村邦洋の鉄板モノマネレパートリー「一人アウトレイジ ビヨンド」。
北野武、西田敏行、中尾彬らの劇中役になりきってアウトレイジの世界観を演じ切る松村の職人芸は人気が高い。
他にもああいったネタはありますか? と尋ねると、即興で演じてくれたのが「一人アウトレイジ・野球界バージョン」。
メモも何も見ずに、長嶋、王、川藤、掛布、吉田義男らを「アウトレイジ」のキャストに見立て、架空の掛け合いを演じる松村。まるで実際にあったかのような臨場感と狂気なまでの集中力に圧倒された。
モノマネというジャンルにおいて、孤高のフィールドを歩む松村邦洋。彼がモノマネをはじめ、芸能界を目指した原点とは?
《あまのじゃくからスタートした阪神ファン》
─── 松村さんといえば芸能界きっての野球ファンであり、阪神ファンですが、生まれは山口県ですよね? 土地柄、広島ファンの方が多い気がするんですが、阪神ファンになったキッカケは何だったんでしょうか?
松村 確かに周りはほとんど広島ファンでしたね。ちょうど僕が少年時代は赤ヘル軍団の黄金期で、クラスメイトはみんな「カープ!カープ!」と連呼していました。
─── それがなぜ阪神ファンに?
松村 小さい頃から反権力というか、あまのじゃくなところがあったのも大きいと思いますが、一番の理由は父親です。父が熱狂的な阪神ファンだった影響で、小さな頃からいつの間にか阪神と甲子園球場が大好きでした。そこから、高校野球も大好きになるんですが、当時は、早稲田実業の荒木大輔投手が大人気でした。
─── 80年の大ちゃんフィーバーの頃ですね。
松村 その荒木投手の早稲田実業を池田高校が倒し、82年の夏、83年の春と甲子園を連覇。ちょうどその83年春に僕は高校に入学したんですが、その当時は池田高校が大人気でした。NHKも特集を組んでいたくらいですからね。
─── やまびこ打線で一世を風靡していました。
松村 ところが、夏・春・夏の三連覇を目指した83年夏の甲子園大会。水野さんがデッドボールを受けて調子を崩したこともあって、準決勝のPL学園戦で、桑田さんにホームランを浴びるんですよ。僕はその日、学校で追試を受けていて、追試が終わって急いで近くの「まーちゃんラーメン」にかけこんだんです。そこに行けばテレビで野球が見られるから。そしたら「松村君、池田負けてるぞぉーい!」と言われてビックリしましたね。
─── それが桑田清原のKKコンビとの出会い。
松村 池田が敗れたという衝撃と、PLのこの2人同い年じゃねーかっていう驚きがありましたね。
《同級生への嫉妬と憧れ》
松村 自分と同じ1967年度生まれの同級生で、一番最初に活躍したのは誰だろう?と思ったら、たぶん最初は斎藤こず恵さんなんですよね。
─── 子役の頃の?
松村 NHK連続テレビ小説「鳩子の海」で出てきた時に、「なんだよ、この子俺と同い年か」と、僕も小学校1年生でしたけどすごく意識しましたね。7歳ながらに「自分と同い年の人が朝ドラ出てるのか!」「こいつに俺、負けてるな」っていう感覚がありましたね。
─── 早熟な反骨心。
松村 他にも「仮面ライダーアマゾン」を見ていたら松田洋治さんが出てきて、その後も坂上忍さんが子役で出てきたり、「欽ドン」の「良いOL・悪いOL・普通のOL」で松居直美さんが出てきたりして、「だんだん僕とおない年の人たちが出てくるなぁ」「松居直美……今度は演歌で出てきたかぁ」と。
─── 次々出ますね、1967年生まれ。
松村 「僕もそのうち出るけどな! いずれ同じ舞台に立つけどな!!」と勝手なライバル心を燃やしていましたね。「いずれ僕も出るけど、同い年だから、頑張れよ」ってすごく上目線で。その後も中三の時、わらべが出てきて、「のぞみ・かなえ・たまえ。いいよ、3人でも。まとめて頑張れ!僕もそのうち、そっちに行くから」と。
─── もうその頃から芸能界に憧れがあったんですね。
松村 なんとなく、「歌手とかになれないかなぁ。たのきんトリオに俺も入れないかな」と、なんの根拠もなく考えていましたね。
《とにかく、何者かになりたかった》
─── じゃあ、はじめは歌手志望だったんですか?
松村 いえ。そちらはただの願望です。中1の時に漫才ブームがあったので、お笑いで何かできないかなぁと考え始めたのがその頃ですね。
─── 具体的に何かオーディションを受けたりは?
松村 高校に進学してから、物理の先生が「視聴覚教室にビデオがあるから、撮ってあげるよ」とビデオを回していただいて、色んなモノマネをやってましたね。そこで撮ったビデオを芸能事務所に送ったりしましたね。他の先生も、協力的な先生もいれば、「職員がなにやってんだ!」と怒る先生もいましたけど。
─── その頃やっていたモノマネレパートリーは?
松村 石橋貴明さんとか、古館さんとかたけしさんとか、「スクール☆ウォーズ」のイソップとか、「金八先生」の加藤優とか。
─── おぉ。最初から、今に通じますね。
松村 ほとんど今の原型ですよね。むしろ、あの頃が一番上手いんじゃないかとも思いますよ。一番喉のグリップもやわらかくて。アレ以降、喉の調子はうなぎ下がりです。
─── でも、その高校時代の「モノマネ投稿」が、今の松村さんの原型になってるんですね。
松村 とにかく、何者かになりたかったですね。高校で留年が決まって、2年を2回やりましたから。考える時間が多かったですよね。ちょうどその頃に、さっき話題にも出た桑田・清原のKKコンビが出てきて「この2人も同い年なんだぁ」と。
─── そんな同級生と、今では仕事やプライベートでも一緒になる機会があるのでは?
松村 清原さんとはその後、僕が芸能界に入ってから、「電波少年」のロケでご一緒するようになりました。ありがたかったですね。
─── ちなみに、どんな企画だったんですか?
松村 「ホームランに名前をつけたい」という企画で、10号ホームランなら「8時だヨ、全員10号」とか、8本目を「タコ8号」とか付けてください、と。そういう無茶なお願いをしたら「じゃあ、10号目を『8時だヨ、全員10号』にしますよ」と言っていただいたんですよ。
─── いい話です(笑)
松村 その後、清原さんがFA宣言した時も、「清原さん、どうか阪神にお願いしますよ」と、お会いするたびに言ったんですけどね。結局巨人入りが決まった後にロケでお会いしたら「まあ、いろいろあったんだよ!」とビールをつがれました。長嶋さんのひと言がやっぱり大きかったみたいですね。
吉田義男監督の「(ユニフォームの)縦縞を横縞に変えてでも…」という有名な口説き文句の裏で、必死に阪神へのラブコールを送っていた松村さん。その阪神への愛情は、掘れば掘るほど出てきます。そんな阪神愛、そして野球への思いの丈を、スマートフォン向けマガジン『週刊野球太郎』内の「野球芸人」で連載中です。野球好き、お笑い好きはぜひチェックを!
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北野武、西田敏行、中尾彬らの劇中役になりきってアウトレイジの世界観を演じ切る松村の職人芸は人気が高い。
他にもああいったネタはありますか? と尋ねると、即興で演じてくれたのが「一人アウトレイジ・野球界バージョン」。
メモも何も見ずに、長嶋、王、川藤、掛布、吉田義男らを「アウトレイジ」のキャストに見立て、架空の掛け合いを演じる松村。まるで実際にあったかのような臨場感と狂気なまでの集中力に圧倒された。
《あまのじゃくからスタートした阪神ファン》
─── 松村さんといえば芸能界きっての野球ファンであり、阪神ファンですが、生まれは山口県ですよね? 土地柄、広島ファンの方が多い気がするんですが、阪神ファンになったキッカケは何だったんでしょうか?
松村 確かに周りはほとんど広島ファンでしたね。ちょうど僕が少年時代は赤ヘル軍団の黄金期で、クラスメイトはみんな「カープ!カープ!」と連呼していました。
─── それがなぜ阪神ファンに?
松村 小さい頃から反権力というか、あまのじゃくなところがあったのも大きいと思いますが、一番の理由は父親です。父が熱狂的な阪神ファンだった影響で、小さな頃からいつの間にか阪神と甲子園球場が大好きでした。そこから、高校野球も大好きになるんですが、当時は、早稲田実業の荒木大輔投手が大人気でした。
─── 80年の大ちゃんフィーバーの頃ですね。
松村 その荒木投手の早稲田実業を池田高校が倒し、82年の夏、83年の春と甲子園を連覇。ちょうどその83年春に僕は高校に入学したんですが、その当時は池田高校が大人気でした。NHKも特集を組んでいたくらいですからね。
─── やまびこ打線で一世を風靡していました。
松村 ところが、夏・春・夏の三連覇を目指した83年夏の甲子園大会。水野さんがデッドボールを受けて調子を崩したこともあって、準決勝のPL学園戦で、桑田さんにホームランを浴びるんですよ。僕はその日、学校で追試を受けていて、追試が終わって急いで近くの「まーちゃんラーメン」にかけこんだんです。そこに行けばテレビで野球が見られるから。そしたら「松村君、池田負けてるぞぉーい!」と言われてビックリしましたね。
─── それが桑田清原のKKコンビとの出会い。
松村 池田が敗れたという衝撃と、PLのこの2人同い年じゃねーかっていう驚きがありましたね。
《同級生への嫉妬と憧れ》
松村 自分と同じ1967年度生まれの同級生で、一番最初に活躍したのは誰だろう?と思ったら、たぶん最初は斎藤こず恵さんなんですよね。
─── 子役の頃の?
松村 NHK連続テレビ小説「鳩子の海」で出てきた時に、「なんだよ、この子俺と同い年か」と、僕も小学校1年生でしたけどすごく意識しましたね。7歳ながらに「自分と同い年の人が朝ドラ出てるのか!」「こいつに俺、負けてるな」っていう感覚がありましたね。
─── 早熟な反骨心。
松村 他にも「仮面ライダーアマゾン」を見ていたら松田洋治さんが出てきて、その後も坂上忍さんが子役で出てきたり、「欽ドン」の「良いOL・悪いOL・普通のOL」で松居直美さんが出てきたりして、「だんだん僕とおない年の人たちが出てくるなぁ」「松居直美……今度は演歌で出てきたかぁ」と。
─── 次々出ますね、1967年生まれ。
松村 「僕もそのうち出るけどな! いずれ同じ舞台に立つけどな!!」と勝手なライバル心を燃やしていましたね。「いずれ僕も出るけど、同い年だから、頑張れよ」ってすごく上目線で。その後も中三の時、わらべが出てきて、「のぞみ・かなえ・たまえ。いいよ、3人でも。まとめて頑張れ!僕もそのうち、そっちに行くから」と。
─── もうその頃から芸能界に憧れがあったんですね。
松村 なんとなく、「歌手とかになれないかなぁ。たのきんトリオに俺も入れないかな」と、なんの根拠もなく考えていましたね。
《とにかく、何者かになりたかった》
─── じゃあ、はじめは歌手志望だったんですか?
松村 いえ。そちらはただの願望です。中1の時に漫才ブームがあったので、お笑いで何かできないかなぁと考え始めたのがその頃ですね。
─── 具体的に何かオーディションを受けたりは?
松村 高校に進学してから、物理の先生が「視聴覚教室にビデオがあるから、撮ってあげるよ」とビデオを回していただいて、色んなモノマネをやってましたね。そこで撮ったビデオを芸能事務所に送ったりしましたね。他の先生も、協力的な先生もいれば、「職員がなにやってんだ!」と怒る先生もいましたけど。
─── その頃やっていたモノマネレパートリーは?
松村 石橋貴明さんとか、古館さんとかたけしさんとか、「スクール☆ウォーズ」のイソップとか、「金八先生」の加藤優とか。
─── おぉ。最初から、今に通じますね。
松村 ほとんど今の原型ですよね。むしろ、あの頃が一番上手いんじゃないかとも思いますよ。一番喉のグリップもやわらかくて。アレ以降、喉の調子はうなぎ下がりです。
─── でも、その高校時代の「モノマネ投稿」が、今の松村さんの原型になってるんですね。
松村 とにかく、何者かになりたかったですね。高校で留年が決まって、2年を2回やりましたから。考える時間が多かったですよね。ちょうどその頃に、さっき話題にも出た桑田・清原のKKコンビが出てきて「この2人も同い年なんだぁ」と。
─── そんな同級生と、今では仕事やプライベートでも一緒になる機会があるのでは?
松村 清原さんとはその後、僕が芸能界に入ってから、「電波少年」のロケでご一緒するようになりました。ありがたかったですね。
─── ちなみに、どんな企画だったんですか?
松村 「ホームランに名前をつけたい」という企画で、10号ホームランなら「8時だヨ、全員10号」とか、8本目を「タコ8号」とか付けてください、と。そういう無茶なお願いをしたら「じゃあ、10号目を『8時だヨ、全員10号』にしますよ」と言っていただいたんですよ。
─── いい話です(笑)
松村 その後、清原さんがFA宣言した時も、「清原さん、どうか阪神にお願いしますよ」と、お会いするたびに言ったんですけどね。結局巨人入りが決まった後にロケでお会いしたら「まあ、いろいろあったんだよ!」とビールをつがれました。長嶋さんのひと言がやっぱり大きかったみたいですね。
吉田義男監督の「(ユニフォームの)縦縞を横縞に変えてでも…」という有名な口説き文句の裏で、必死に阪神へのラブコールを送っていた松村さん。その阪神への愛情は、掘れば掘るほど出てきます。そんな阪神愛、そして野球への思いの丈を、スマートフォン向けマガジン『週刊野球太郎』内の「野球芸人」で連載中です。野球好き、お笑い好きはぜひチェックを!
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