108歳女性「息子を井戸に沈めた」壮絶な子育て
80歳の息子さんにバリカンを当てながら談笑する、世界最高齢の現役理容師に認定され108歳を迎えた、箱石シツイおばあちゃん(撮影:栗栖誠紀)
「人生100年時代」というフレーズが現実味を帯びてきている。そのために何をしたらいいのか? 世界最高齢現役理容師、108歳の箱石シツイさんの生き方にそのヒントがある。脳性麻痺の長女など2人の子どもを女手一つで立派に育てた秘訣は? 書籍『108歳の現役理容師おばあちゃん ごきげん暮らしの知恵袋』より一部引用、再編集して紹介する。
井戸に顔を沈めたりしたこともあった
息子には「障がいのある姉を守れるようになってほしい」と思っていたし、男の子ということもあって、娘以上に厳しくしました。取材を受けているときに、「え!? 息子さんを井戸に沈めて叱ったんですか?」なんて聞かれます。「まさか」って思うんでしょうかね(笑)。
その最初のまさかは、息子が4歳のときでした。わたしの父が納戸で作っていたどぶろくを盗み飲みしたときです。たくさん飲んで酔っ払い、あちこち歩き回って赤い顔でわけのわからないことをペラペラしゃべっていたそうです。夕方、近所のおばあさんに背負われて帰ってきました。おもらしをしていたので、庭にあった池に投げ入れて、服を脱がせておしりを洗い、ついでにお尻をピシピシと叩きましてね。「まだ寒い時期で、池には氷が張っていた」と息子は言いますけど、どうだったでしょうか。
それから、「頭を冷やしなさい!」と言って、井戸に顔を沈めたこともありました。沈めると必死で顔を出しては「助けて!」と叫ぶ。これを何度かくり返してやっていました。
噓をついたときも厳しくしました。お使いを頼んだときのことなんですけど、つい、お釣りで欲しいものを買ってしまって、わたしにとがめられるのが怖くて、お釣りを合わせるために親類に借金をしたんですよ、50円。それを「なかなか返さない」と親類がわたしに報告してくれました。
「簡単に人から借金をしたり、お釣りをごまかすような人間になっては困る」、そう思ったわたしは、「ちゃんと叱らなくては」と自分に気合いを入れました。
「ちょっと、お母ちゃんについておいで」と、息子を我が家から少し歩いたところにある小川に架かかる橋のところまで連れていきました。そして、「お母ちゃんに、隠していることない?」と、問いただしました。「50円、おばちゃんにお金を借りたんだってね。どうやって返そうと思ったの?」。しどろもどろになって一生懸命に説明をする息子。「でも、お母ちゃん。僕は盗んだんじゃないよ。お釣りが足らないとお母ちゃんに叱られると思って……」と。返さなければ同じことですよね。そこで「そんな悪い子は、ここから飛び降りて死んでしまいなさい。これからも世間に迷惑をかける人になっては困るから」と言いました。「ひとりで怖いのならば、お母ちゃんも一緒についていくから」と。
あのときも寒くて、雪が降っていました。30センチくらい積もっていた橋の上で息子は正座をしてひたすら謝まり、「二度とこんなことはしません!」と何度も言いました。
「本当に、悪いことをした、ずるいことをしたと思うのね?」と念を押すと、「はい、心の底から思っています」。
わたしが特別厳しく叱ったのは、いけないことをしてごまかそうとする、言い訳をしたときでしょうか。息子は、水を汲んできてくれたり、家のこともよくやって助けてくれるいい子でしたけど、何か悪いことをしたときには厳しく厳しく、今で言う「体罰」のようなことをやりました。「父親の役目もしなくてはならない」と思っていたので、このような極端な叱り方をしました。
障がいがある娘にも「自分でできることは自分で」
娘には障がいがありましたが、わたしも忙しかったので、「自分でできることはできる限り自分でやること」をルールとしました。あの時代、障がいがある子のための教育制度はまだ整っていなくて、「無理に学校へ来なくてもいい」というような風潮だったんですよ。ただ本人には「学校に行って勉強したい」という強い気持ちがあったので、直接、小学校の教頭先生にお願いに行きました。でも「先生の目に入らないところでいじめられたりしたら、止めることができないから」と、その場で断られました。
昭和11年(1936年)、20歳の時に理容師の免許を取得。当時の名称は「美容術試験」となっている。管轄がなんと警視庁! 刃物を扱うからのようだ(撮影:石黒謙吾)
シェービングフォームを泡立てる手さばきも軽やかだ。容器にお湯と粉を入れて、サクサクと回すと滑らかな泡が(撮影:栗栖誠紀)
「勉強したい」という娘のために、わたしはまず、「いろはかるた」を買いました。かるたで遊びながら文字を覚えさせようと思ったんです。それから、絵本なども少しずつ買ったりもらったりして集めては読ませて、漢字はふりがなの付いた本を何度も何度も読み聞かせしているうちに、だんだんと覚えてくれました。
算数は、かくれんぼをしている子どもたちの中に交ぜてもらって、鬼の隣にいて数の数え方を聞かせて覚えさせました。足し算と引き算は、お使いに行かせてお店でお釣りを勘定させて、少しずつ慣らしていきました。暮らしの中で、思いつくままの教育でしたけれど、何より、充子ががんばったので身についていきました。
危険がないようならば、本人のやりたいことを規制しないことも心がけました。やりたいことがあるのなら希望に添うように応援します。何かを始めてあきらめそうになったら、「自分で決めたことなのだから最後までがんばりなさい」と励まして。
障がい者を隔離しようとする傾向がある
娘は15歳頃まではよく泣いていました。子どもだけでなく、大人からも好奇の目で見られ、まねをされたり笑われたりするので、傷ついては泣いて泣いて。わたしは「みっちゃんは何も悪くないのだから、堂々としていればいいんだよ」となぐさめ、息子も一緒になって3人でよく泣きました。
娘は、20歳のときに、自分で決めて福祉施設に入所しました。そこで編み物を学んで、31歳で独立。それからは、たくさんの方に助けてもらってひとり暮らしをしています。わたしが想像していた以上に、強く成長してくれました。
娘を育てて感じたことは、世の中にどこか、障がい者を隔離しようとする傾向があるということです。
大切なのは障がい者とそうでない人がお互いを理解し合うということではないでしょうか。そのためには普通の学校、特別支援学校などと、分かれた環境では難しいのではないかと思います。
(箱石 シツイ : 理容師)