フィリピンで7人組グループを結成…名古屋の「元アイドル」が自ら綴った「驚きの人生」
引っ越し先は標高1600メートルの山の上
SKE48を’22年に卒業し、タレントとして活躍中の五十嵐早香さん。現在発売中のフライデーでは自慢のFカップを披露している彼女だが、実は「埼玉生まれ、フィリピン育ち」という一風変わった経歴を持っている。公開直後から大きな反響を呼んだエッセイから、五十嵐さんの「驚きの過去」をたどっていこう。
’01年9月19日に埼玉県で生まれた五十嵐さん。人生が大きく動き出したのは、12歳の時だった。
《6年生になった冬、私は両親から衝撃的なことを告げられた。
引っ越し先は「標高1600メートルの山の上」。来年から家族でフィリピンに移住すると言われたのだ。
理解が追いつかなかったが、父が昔から脱サラして海外に住むのが夢だと度々語っていたし、小さい頃から英語だけは必要以上に習わされていたので、あながち冗談ではないのが12歳ながらに伝わった。
翌日友人にそれを告げたが、ほとんどの子達が冗談だと思っていた。それから間もなく、飛行機に乗る日が決まり、私も友人らもその事実が現実味を帯びていることに気がついた。
卒業式の日は未だに思い出すほど綺麗な晴天で桜が丁度舞っていた》
卒業後、五十嵐さんは地元の中学校ではなく、フィリピンのバギオという町に移住した。標高1600メートル、「フィリピンで唯一ジャケットが必要なほど寒い場所で有名なフィリピン人の観光地」に暮らしていたという。
英語に苦労しながらも、フィリピンにも馴染み、13歳でアニメにハマってコスプレを始めた。そして16歳で、フィリピン版AKB48にあたる「MNL48」のオーディションに挑む決意をする。ところが……。
《「絶世の美少女」であり日本語が話せた私は、MNL48のオーディションがもはや私のために開催されているとしか思えなかった。
第一審査からいきなり投票制だったが、私の順位はなぜかみるみる上がり、しっかり審査突破の圏内に入った。
もちろん当時の私は自信のあまり、全く疑問を持たなかったが、今となればあんな画質の悪くて恥ずかしい自撮りに誰が投票していたのか謎に満ち溢れている。
投票が終わり、なかなかメールが来ず疑問に思っていた私は、学校から帰ると衝撃的な動画を目にした。
投票で勝ち抜いた上位200名が元気に「恋するフォーチュンクッキー」を踊っている動画が公式からあげられていた》
メイド喫茶でバイト中に
まさかの落選。しかし五十嵐さんはめげずにアイドルを目指す。同じくオーディションに落ちたフィリピンの女の子たちと7人組グループを結成、バスで7時間かかる首都マニラに通い、アイドル活動を始めたのだ。その頃の思い出も、エッセイで生々しく綴られている。
《金曜日の学校終わりに支度をし、早速夜行バスに乗ってマニラへと向かった。
バスは日本人の想像するバスではなかった。
バギオとマニラを行き来するバスは、現地の人達に「走る冷蔵庫」と皮肉を込めた名前で呼ばれていた。
それもそのはず、冷房が効きすぎて運転手も分厚いジャケットを羽織り、もちろん狭く、椅子はまな板を組み立てたのかと思う程座り心地が悪く、まっすぐな背もたれを倒すことはできなかった。
しかもたまに椅子に大きな穴が空いていた》
「そのままフィリピンの大学に進み、就職するのだろう」と思っていた五十嵐さんだったが、18歳の夏、再び大きな転機が訪れることとなった。夏休み、日本に帰国中に秋葉原のメイド喫茶で初めてのバイトに挑戦した時のこと。30代半ばのお客さんから「SKE48って知ってる?」と声をかけられ、CDを渡されたのだ。
《沢山買ったから布教するため配っていると言った彼は、突然何かを思い出したように口を開き私に言った。
「あ!丁度今SKE48で10期生のオーディションやってるんだけど、応募してみない?!」
フィリピンでのアイドル活動のことは話してないので、こんな偶然もあるのかとびっくりしたが、これは必然だったのかもしれないと後に思った》
発売中のフライデーで「とろけるFカップ」を披露している五十嵐さんは、「エッセイを書くグラビアアイドル」という新しい道を切り拓こうとしている。