ブドウ「甲州」は、当初ワインに向かない品種だった。醸造家の熱い思いが生んだ、大きな技術革新とは。辛口甲州ワインが人気になるまで
農林水産省が実施した「作況調査(果樹)」によると、令和4年産果樹の結果樹面積は16万6,000haで、15年前と比べて4万4,200ha減少したそうです。近年の経済不況も手伝って、果物が食卓に並ぶ機会が少なくなっていますが、技術士(農業部門)で品種ナビゲーターの竹下大学さんは「日本の果物は世界で類を見ないほど高品質。それゆえ<日本の歴史>にも影響を及ぼしてきた」と語っています。そこで今回は、竹下さんの著書『日本の果物はすごい-戦国から現代、世を動かした魅惑の味わい』から「甲州ワイン」についてご紹介します。
【書影】日本発展の知られざる裏側を「果物×歴史」で多種多様に読み解く、もうひとつの日本史。竹下大学『日本の果物はすごい-戦国から現代、世を動かした魅惑の味わい』
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近年の甲州ワイン品質向上プロジェクト
「甲州」は、ワイン用品種としては四重苦を抱えている。極端にいえば、「味無し」「香り無し」「酸無し」「苦味あり」の4つだ。
生食用の品種でワインが造られることが少ないのは、ワイン造りには重要な酸味が生食では嫌われるため。
また生食用では大粒が好まれるのに対し、ワイン用では小粒が求められるなど、それぞれに必要とされる果実の特性がトレードオフの関係にある場合が多い。
大人気の「甲州」も、ワイン用としては安い甘口白ワインの原料という位置づけだった。
こう聞くと、「甲州」でおいしいワインを造ることなど端から諦めたほうがよいようにも思えてしまう。
が、日本固有品種「甲州」を使い、世界に通用する日本オリジナルワインを造りたいという山梨県の醸造家たちの思いが、大きな技術革新を生む。
技術革新の先陣を切った「メルシャン」
中心的役割を果たしたのは、大日本山梨葡萄酒会社を源流とするメルシャンであった。
メルシャンは山梨大学とともに、1975年(昭和50年)から甲州ワインの品質向上に取り組み、フレッシュな果実味を生かした甘口ワイン「勝沼ブラン・ド・ブラン」を造ることに成功する。
しかしこの時点では、いまのような辛口の甲州ワインはまだ誰一人として造ることができなかった。
四重苦の「甲州」で辛口の優れたワインを造るのには、甘口の優れたワインを造る10倍の困難を伴ったと関係者は語る。
なぜなら個性のない「甲州」だけを使って仕込む限り、おいしい白ワインなど実現不可能だというのが、ワイン醸造家の常識だったからだ。
この常識を覆すべく、さらなる技術革新の先陣を切ったのはまたしてもメルシャンであった。
1975年といえば、日本で辛口ワイン(果実酒)の消費量が甘口ワイン(甘味果実酒)を抜いた年である。この社会変化もメルシャンの醸造家の背中を押したはずだ。
甲州ワインをおいしくしたシュール・リー製法
フランス・ロワール地方の大西洋側には、「ムロン」というマスクメロンに通じる香りがする珍しい品種がある。日本では「ミュスカデ」と呼ばれることも多い。
有名な「シャルドネ」や「ソーヴィニヨン・ブラン」とは異なり、「ムロン」はシュール・リーと呼ばれる独特な製法で、酸味の利いた辛口ワインに仕上げられるのだ。シュール・リーとは、フランス語で、「滓(おり)の上」という意味である。
(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)
滓とは、発酵が終わった後でタンクの底に沈んでいる沈殿物をいう。ほとんどが酵母の死骸である滓は、発酵が終わった後にできるだけ早く取り除くのが鉄則。遅れると、滓からワインをまずくする雑味が出てきてしまうからだ。
だが、あえてこの滓を残しながら熟成させるのがシュール・リー製法で、これによって「甲州」を使いながらも優れた辛口ワインを造ることが可能となった。
メルシャンはこのシュール・リー製法により、1983年(昭和58年)に辛口の甲州ワインをはじめて商品化したのである。
メルシャンがこの製法を企業秘密として社内に閉ざすのではなく、外部に広く開示したことにより、こうした甲州ワインを生産するワイナリーが次々と生まれていった。
「甲州」が秘めていた香り
シュール・リー製法を取り入れれば簡単においしい辛口甲州ワインが造れるように感じられるかもしれないが、実際にはそうではない。ワインと滓を一緒に寝かしておけば品質が向上するといった単純な話ではないのだ。
品質のよい滓を得るためには、適切な果汁処理、酵母の選択や発酵コントロールが必要である。
さらに、滓との接触期間中にワインに異臭を与える硫化水素の発生を防がなければならない。くわえて酸素を供給する攪拌(かくはん)作業にもコツがある。
メルシャンによる辛口甲州ワインの改良は続き、2004年(平成16年)にはこれまでにない柑橘系の香りを出すことに成功する。
そして分析を依頼されたボルドー第2大学醸造学部の富永敬俊(とみながたかとし)博士が、「ソーヴィニヨン・ブラン」に特徴的なグレープフルーツの香りの成分を「甲州」から発見したのだ。
この香りを生かした「甲州きいろ香(か)」は2004年に誕生し、翌年発売された。
和食に合うハッサクやザボンの香りがする、日本オリジナルの辛口甲州ワインはこうしておいしくなったのである。
※本稿は、『日本の果物はすごい-戦国から現代、世を動かした魅惑の味わい』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。