「出会いは、明治大学の落語研究会(落研)の新入生歓迎会でしたね」撮影:木村直軌

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2024年10月4日放送の『徹子の部屋』に三宅裕司さんが登場。病気や怪我に見舞われたという60代を乗り越え、現在73歳の三宅さん。座長を務める劇団スーパー・エキセントリック・シアター(SET)が45周年を迎えるにあたり、熱い思いを語ります。一方プライベートでは、4歳と1歳の孫が可愛くて仕方ないそうで――。『婦人公論』2019年9月24日号の立川志の輔さんとの対談を再配信します。******本職の喜劇、落語にとどまらず、テレビでも大活躍する三宅裕司さん、立川志の輔さん。実は明治大学の落語研究会では先輩・後輩関係だそう。学生時代に密な時間を過ごした2人の笑いの原点は。(構成=小杉よし子 撮影=木村直軌)

【写真】明大落研時代の志の輔さん、三宅さんは…

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笑顔も声も暑苦しい

志の輔 三宅さんとの出会いは、明治大学の落語研究会(落研)の新入生歓迎会でしたね。2年先輩の三宅さんは僕が入学した時、3年でした。

三宅 志の輔のことは本名が竹内なので今もタケって呼んでますが、タケの第一印象は「暑苦しい」。笑顔も暑苦しいし、声も暑苦しい。(笑)

志の輔 三宅さんは、僕の声よりも自分のほうが良い声だと思っているんですか。(笑)

三宅 そうだったんじゃないですか。

志の輔 まァ、私もだいぶしゃがれてますけど、三宅さんは私以上(笑)。学生の頃から、おじいさんみたいな特徴的な声でした。

三宅 タクシーの運転手さんは、僕の顔を見ずに「三宅さんですね」って言いますね。(笑)

志の輔 三宅さんと直に話すよりも先に、三宅さんの高座を見たんです。何人かの先輩のを見ましたけど、一番ウケていたのが三宅さんでした。300人くらい観客がいる会場を着物を着た人がどっかんどっかん笑わせていて、これが落語というものか、すごい、と。迷わず落研に入部すると、三宅さんがチャッキチャキの江戸っ子だとわかって。

三宅 僕は東京のど真ん中、神田神保町で生まれ育ってますから。一方、タケが育ったのは富山県の射水市。当時は「だからおまえは田舎者なんだよ」と言うことがよくあったね。

志の輔 それで最初に怒られたのが、「お新香事件」。2人で飲みに行くんだけど、お金がない学生ですから、まずお新香を注文する。で、そのお新香に僕がいきなり醤油をかけたもんで、「バカ! 味もみないでいきなり醤油をかけるのか」って。(笑)

三宅 自分の家の漬物ならまだしも、初めて出された店の漬物はしょっぱいかもしれないでしょ。

志の輔 あれは怒られて当然だったな(笑)。いまだにふと思い出します。でもそれ以来、三宅さんのうちは大学から近かったので、よく遊びに行っては食べさせてもらった。お母さんがまたチャキチャキの江戸っ子で、「これ、食べて行きな」って。

三宅 タケのことは、うちのおばあちゃんまでが「タケ、タケ」って親しく呼んでいたからね。

志の輔 家族と同じように、ホントに分け隔てなく良くしていただきましたよ。唯一、チロっていう犬だけがうるさかったな。

三宅 あぁ、ポメラニアンのチロ!

志の輔 吠えられて吠えられて。

三宅 チロはね、人を見て吠えてた。特に地方の人間には。(笑)

志の輔 一番印象に残っているのは、お正月のお雑煮。あっさりした鶏肉の出汁だったんですよ。「これが東京の味なんだ」と感激したものです。富山はブリの出汁ですから。

三宅 そうかそうか。

志の輔 お雑煮が地方によって違うってことは聞いていたけど、お雑煮を食べさせてくれる東京の知り合いは誰もいなかったですから。

三宅 確かタケはね、東京へ来て最初に居酒屋に入った時、腹が減ったからオニオンスライスを頼んだってのを聞いたことがある。定食だと思ったんですよ。オニオンス、ライス。

志の輔 それは言わないでもらいたい。(笑)

三宅 もしかしてネタだった!?

目立ちたがり屋が60人集まって

志の輔 そもそも、ウケる喜びを知ったきっかけは何だったんですか?

三宅 うちは大家族だったんです。母親が9人きょうだいの長女で、叔父や叔母が16人。いとこたちは30人近くいる。お正月とかに親戚が集まると、子供自慢が始まるわけです。「おい、裕司。あれ、やってごらん」。やってみせると、ワ〜ッとウケる。その快感だね。

志の輔 うちは家族や親類が集まることがほとんどなかった。だから親類の前で何かやらされるなんてこともなく。いろいろ事情があって、僕は叔父叔母の家で育てられたんですけど、その叔父が本当に酒が好きで。酔ってくるともう、ぐでんぐでんになりながらしゃべり続ける人だったので、子供心に大人になっても絶対に酒は飲むまいって誓った。

三宅 そこで「親子酒」の演じ方を勉強した!(笑)

志の輔 それがこんなに酒浸りの毎日になるとは夢にも思いませんでしたね(笑)。叔父が飲んでしゃべるのを、私といとこが黙って聞くというのが幼少の頃の思い出。三宅さんとはまったく環境が違います。

三宅 うちはまずお袋が日本舞踊のお師匠さんで、おばがSKD(松竹歌劇団)にいたし、おじは芸者の置屋をやっていて。うちでは三味線の音と、おじの好きなラテン、親父が好きなタンゴが常に流れてた。特別な環境に育ったよね。

志の輔 ほらね、すごい環境でしょう。(笑)

三宅 タケは、人前に出て何かやるのが好きだったわけじゃないの?

志の輔 年に一度、学校で弁論大会ってのがあって、中学3年の時、富山県の大会で優勝しましてね。

三宅 ほぅ。じゃあしゃべりには多少、自信があったわけね。テーマは?

志の輔 小学校6年の学芸会で、クラスのみんなをまとめて合唱をやったんですけど、その時の苦労話を面白おかしく書いてしゃべったんです。そしたら優勝して。

三宅 おっ、志の輔の新作落語の原点はここにあるのか!

志の輔 だから、ウケる喜びを知ってはいたんですよ。お客さんが笑うと気持ちいいんだって。

三宅 しかし、大学の落研には、全国から集まった目立ちたがり屋が60人もいたからね。

志の輔 みんなおしゃべりがうまくて面白い。そのなかでも、三宅さんの面白さはトップでした。笑いのセンスみたいなものの半分以上は教えてもらいました。これが粋な笑いなんだ、これをいなせというのか、と。

三宅 学生時代は、いろんなことやったからねえ。

志の輔 これは有名な話ですが、落研の合宿で野球をやると、表彰式で“人間国旗掲揚”をやるわけですよ。

三宅 主将掲揚ね。

志の輔 「チャーン、チャーンチャ、チャーン、チャーン」って表彰式の音楽に合わせて、3人がポールを上っていって。

三宅 1位、2位、3位とね。

志の輔 1位になったキャプテンが一番高いところまで上らなきゃならないから、「なんで勝ったんだろう」って。落研全員が腹を抱えて笑いましたよ。三宅さんは、こういう洒落たアイディアを次々と考え出す。

三宅 落研は、落語をやってもやらなくてもみんなで楽しくやりましょうっていう感じだったからね。

志の輔 僕の2年後輩として落研に入ってきたのが、渡辺正行(コント赤信号)。ナベちゃんは、本当にめちゃくちゃな落語をやるのに、おかしいなこいつ、面白いなって。

三宅 生きざまが面白いんだよね。

志の輔 三宅さんと僕とナベちゃんは、古今亭志ん朝師匠が大好きで。落研での高座名も、志ん朝ならぬ(紫紺亭)志い朝。三宅さんが4代目で僕が5代目。ナベちゃんが6代目。

三宅 この名前は、僕らの先輩の播磨さんっていう人が、当時、四天王と呼ばれていた噺家の中から志ん朝、それに植木等さんが流行らせていた、「調子のいいやつ」を意味するC調をかけて作ったんですよ。

志の輔 もう二十何代目になりますかね。

三宅 誰にどの名前を継がせるかというのは、毎回揉めるらしい。でも、タケだけは絶対に俺の名前を継いでもらう、と満場一致だった。

志の輔 覚えてますよ、名前をもらいに行った時のこと。神保町の家の戸をこう開けて、「三宅さん」って言ったら、三宅さんが上から「もうきたか」って。

三宅 名前を継ぐといっても、うちで飲むだけだったんだけどね。

志の輔 その時もたしか、犬が吠えてました。(笑)

三宅 細かいことをよく覚えてるな。

志の輔 落研の誰もが、三宅さんは卒業したら落語家になるんだろうなと思っていたのに、みんなの期待を裏切って、卒業後はアルバイトを始めたでしょう。

三宅 着物を着て座布団にじっとすわっているのがイヤだった。芝居をしたいし、音楽もやりたかったしね。

志の輔 日本テレビタレント学院に通いながら日テレのコピーセンターでアルバイトをしていましたよね。

三宅 当時、コピーはまだ非常に貴重で、利用者が申告した伝票どおりの枚数をとっているかを見張るバイト。食券をもらえて、お腹をすかせた者にはラッキーでした。タケも来てはよく2人で食堂の冷奴を食べながら将来を語ったよな。35円のを1皿ずつね。酒も飲まずに。

行っても行っても逆境に……

志の輔 その後、三宅さんは大江戸新喜劇っていう劇団を立ち上げて。

三宅 そうそう。それから少しして1979年に、劇団スーパー・エキセントリック・シアター(SET)を旗揚げした。僕もいろいろあったけど、タケにも苦労があったよな。卒業後、いったんは広告代理店に就職したけど、28歳のときに会社を辞めて立川談志師匠に弟子入りして。でも、その直後に師匠が落語協会を辞めて、寄席には出られなくなってしまった。

志の輔 これから寄席に出て経験を積んでいくんだなと思っていたら、「自分で場所を探して、勝手にやれ」ですもの。それはないでしょう(笑)。稽古もつけてもらえず、ホールも自分で探しましたからね。

三宅 落語以外にもいろんなことをやっていたあの頃、タケはすごいなと感心して見ていました。本来なら、見聞を広めて芸を磨く修業の場である寄席に、師匠がそんなだから出られない。よく挫折しなかったよな。

志の輔 環境は劣悪でも、落語はやりたかった。ひょっとしたら、卒業と同時に22歳で弟子になっていたら、耐えられず辞めていたかも。

三宅 そうだよね。

志の輔 何か私の人生の神様がそうさせたんじゃないかと思うぐらい。今、思えば、師匠談志は演芸の小屋ではなく、キャパの大きな劇場とかホールで落語をやる時代が来ると予見していたんだな。当時は、師匠は何を考えてるんだ!? って少し恨めしく思ったものですが。だって、三宅さんは幸運な環境に生まれついたけど、僕はというと、行っても行っても逆境になるでしょ。羨ましいということではなく、そういう人生なんだな。それくらい不思議でした。

三宅 当時のことを思い出すと、今の俺たちの姿は想像できないよな。

志の輔 ホントにそう思います。

もう、大丈夫絶好調です

三宅 今年、SETは創立40周年。こんなにやるとは思わなかったね。

志の輔 すごいですよね、毎年毎年定期公演を重ねて。劇団が40年も続いたのは、三宅さんのまとめ力でしょう。昔、三宅さんに影響されて、私もバンドを作ろうと思って頑張ったんです。その時、「バンドをやっていく時に一番大事なことって何ですかね」と聞いたら、「全員が同じように楽器を持って、同じように片付けも全部やること。演奏以外のところが同じでないとバンドはうまくいかない」って教えてくれたんですよ。

三宅 俺、いいこと言うよね。

志の輔 いやいや、なるほどそうだなって。きっと劇団でも、みんなと同じようにやってきたから、リーダーになりえてるんだと。

三宅 まぁ、金も使ったけどね。飲みに行くと絶対に払わせない。全部俺が払うっていうのは、人がついてくる一つの要素にはなるよね。(笑)

志の輔 そうですね(笑)。ただ、三宅さんを見ていてわからないのは、7年前に椎間板ヘルニアと脊椎管狭窄症、去年は前立腺肥大症の手術でしょ。あれだけ大変な逆境から這い上がったと思ったら、今年のお正月にはスキーに行って今度は大腿骨を骨折。手術の予後がよくて、みんなの「おめでとう」の拍手が鳴りやまないうちに骨折、ですよ。ニュースを耳にした時は、「あの人、完璧に利口ってわけでもないんだ」と思いました。(笑)

三宅 運が悪い時期は脱したから、もう大丈夫。絶好調です。今は10月11日から東京・池袋のサンシャイン劇場で始まる40周年記念公演『ピースフルタウンへようこそ』の稽古中(公演期間:〜11月14日)で。どうか楽しみにしてください!

志の輔 本人の口から絶好調だと聞けて、すごく安心しましたよ。僕のほうも、同じ池袋に新しくできるホールのこけらおとし公演が12月にあるんです。新作落語「歓喜の歌」をやります。今日はお新香の醤油からバンドの心得まで。(笑)

三宅 すべてはお新香の醤油から始まった。(笑)