戦国時代の二大名城!信長の「安土城」と光秀の「坂本城」はどのように廃城へ追い込まれたか

写真拡大 (全6枚)

「二大名城」の運命

宣教師ルイス・フロイスが書いた『日本史』によると、織田信長の時代には、信長自らの居城である安土城と、明智光秀の築いた坂本城が、二大名城として知られていたそうです。

ちなみに坂本城は、現在の大津市坂本にあったといわれています。

『日本史』目次(Wikipediaより)

ところが、この二つの名城は、1582(天正10)年の本能寺の変と、その後の山崎の戦いで相次いで城主を失うことになりました。そして、ともに似たような運命を辿り、廃城へと追い込まれていったのです。

両者が具体的にどのような末路に至ったのかを見ていきましょう。

遺構が整備されている安土城

安土城図(Wikipediaより)

まず安土城は、前述の通り本能寺の変の後で炎上しますが、すぐ廃城にはなりませんでした。

どの程度まで再建されたかははっきりしないのですが、織田家の家督を継ぐことになる三法師(のちの織田秀信)が安土城へ入っています。

織田秀信像(Wikipediaより)

そして翌1583(天正11)年1月には、信長の次男である織田信雄が、安土城下の振興策を打ち出して城の普請を行いました。

さらに、秀吉をはじめとする信長旧臣の諸大名が、安土城へ年賀の挨拶に訪れたこともあったそうです。

しかしこの翌年には、織田信雄と豊臣秀吉が衝突。秀吉が勝利したことで、6歳だった三法師は岐阜城へ移されました。

さらに1585 (天正13)年、秀吉が関白に就任して名実ともに天下人になると、秀吉の甥である羽柴秀次が八幡山に居城を築くさいに安土の城下町は移されてしまい、安土城は廃城となります。

こうして、天下の名城は歴史の舞台から姿を消したのです。

それから404年後の1989 (平成元)年には、滋賀県が20年の予定で大規模な発掘調査をスタート。これにより当時の様子が明らかになるとともに、石段や石垣が修復工事されていきました。

かつての安土城の大手口石段

現在は大手道を中心に整備され、その独特の遺構を見学できます。さらに、多くの研究者によって天主の復元図やCGが発表されています。

廃城となったままの坂本城

次に坂本城ですが、こちらは安土城から撤退した明智秀満が入り、秀吉の軍勢に包囲されながらも、よく耐えていました。しかし、本能寺の変から13日後には秀満自らが火を放って落城しています。

その後は秀吉側の丹羽長秀、次いで杉原家次、そして浅野長政が城主となって、安土城と同じく一時的なにぎわいを取り戻しています。しかし1586(天正14)年、浅野長政が城を大津に移したことで坂本城は完全に廃城となりました。

現在は坂本城址公園となっていますが、当時をしのばせるものは、わずかに残った石垣だけです。

坂本城址公園の明智光秀像

こうして比較して見ていくと、二つの「幻の名城」は、再興されるにしろ完全に廃城となるにしろ、いずれも数奇な運命を辿ったことが分かります。

参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia