阿部智里「八咫烏シリーズ」で絶大な人気を誇る『空棺の烏』序章を全文無料公開! 『空棺(くうかん)の烏(からす)』(阿部 智里)
阿部智里さんの大人気和風ファンタジー「八咫烏シリーズ」を原作とするTVアニメ『烏は主を選ばない』。いよいよ全20話で最終回を迎えます。しかし、累計200万部突破&第9回吉川英治文庫賞を受賞した本シリーズは、ここからさらに大きな展開を見せていきます!
アニメ最終回に続く山内を舞台とし、原作小説ファンの中でも絶大な支持を集める第4巻『空棺(くうかん)の烏(からす)』の序章を全文無料公開――アニメファンにもお馴染みの愛すべき八咫烏たちの活躍にご注目ください
八咫烏シリーズ 巻四
『空棺(くうかん)の烏(からす)』
阿部智里
序章
――おい、聞いたか。今年は、とんでもない化け物(・・・)が入って来るらしいぞ。
そんな話し声が聞こえてきたのは、もうすぐ新入り達がやって来るという、当日の朝のことだった。
「化け物ってのは、なんだ」
「腕が立つって意味か」
怪訝そうに問い返した連中に向け、朝餉の席に噂話を持ち込んだ男はこう答えた。
「それは分からないが、どうも大貴族の御曹司らしい。今、勁草院(けいそういん)にいる誰よりも身分が高いのは明らかだ」
道理で、と雑然と並べられた食膳の上に、納得した空気が漂った。
「ここ最近、中央出身の奴らが落ち着かねえと思ったら、それが原因か」
「下手すりゃ自分のお株を奪われちまうもんな」
「下手しなくても、あいつらが今までみたいに威張り散らすのは無理だろうさ」
もとより、身分を笠に着るしか能のなかった連中だ。自分達より格上の新入りが入って来るとしたら、今度は彼らの方がご機嫌伺いに奔走するようになるのだろう。
「くだらねえ」
盛り上がる同輩達の横で、市柳(いちりゅう)は小さく吐き捨てた。「とんでもない化け物」とやらに興味を持って聞き耳を立てていたのだが、馬鹿らしいことこの上なかった。
「どうしたよ、市柳」
小声の悪態に気付いた友人が振り返ったので、市柳はこれみよがしに鼻を鳴らしてみせた。
「今の話じゃ、そいつは単に身分が高いってだけだろ。それで化け物とか、笑わせるにもほどがある」
俺達は武人だぞ、と市柳はしかつめらしい顔で同輩達を見回した。
「いくら生まれがよかろうが、剣の腕がないんじゃ話にならねえ。道場で実力を見る前に、こうやって騒ぐのは感心しねえな」
市柳達が在籍する勁草院は、宗家(そうけ)の近衛(このえ)隊、山内衆(やまうちしゅう)の養成所であった。
この山内に住まう八咫烏(やたがらす)、その全てを統べる金烏(きんう)は、朝廷を内包した中央山に居を構えている。
中央山を含む中央鎮護のために編まれた軍が羽林天軍であるのに対し、山内衆はあくまでも宗家――金烏の一族の警護が職分だ。羽林天軍(うりんてんぐん)の頂点に立つのは大将軍(たいしょうぐん)だが、山内衆は自身の護る宗家の者に、直接指示をあおぐ立場となる。
山内衆は、他の兵とは一線を画す精鋭集団なのである。
当然、命令に応じて与えられる権限も大きくなるので、山内衆になるためには勁草院で厳しい修業を積まねばならない。
勁草院へ入るには、才覚さえあればその身分は問われないとされているが、それが実態を伴っていたのは昔の話となってしまった。市柳の発言は、血筋を重んじる院生(いんせい)を腹立たしく思っているがゆえだったのだが、同輩達は、まるで喋る犬にでも出くわしたかのような目つきになった。
「なんだ、あいつ。どこかで拾い食いでもしたのか」
「違う、違う。新入りに先輩ぶりたいから、今から格好つけているだけだって」
そっとしておいてやろうぜ、と聞こえよがしにひそひそ話までされる始末である。
「お前らな」
思わず立ち上がりかけた市柳を制するように、話を始めた男が両手を上げた。
「まあま、落ち着けって市柳。俺だって、何も身分が高いってだけで、化け物呼ばわりなんかしねえさ」
他にもちゃんと理由があるのよ、とわけ知り顔でにやりと笑う。
「何たってそいつは、若宮(わかみや)殿下の近習(きんじゅう)だったらしいからな」
「若宮殿下の近習だって?」
仲間達が、「本当か」「そりゃすごい」と口々に言って目を瞠(みは)る。
若宮は、いずれこの山内を背負って立つ日嗣(ひつぎ)の御子(みこ)だ。その近習ならば、将来は、金烏陛下の側近として朝廷で権力を握る可能性が高い。
その化け物とやらが今の山内において、最も明るい未来を持った八咫烏なのは間違いなかった。
「……しかし、妙だな。それなら直接朝廷入りすればいいのに、どうしてわざわざ勁草院なんかに来るんだろう」
怪訝そうな一人の言葉に、市柳はふと眉を寄せた。
今の朝廷には、その生まれに応じて官位が与えられる『蔭位(おんい)の制(せい)』が存在している。若宮が身分の低い者を気に入り、正式に取り立てようとして勁草院に送って来るのならば分からなくもないが、噂の『化け物』とやらは、大貴族の生まれだという。
「なんでも、蔭位の制で取り立てたのでは、腕が勿体ないと言われたんだとか」
「勁草院に入れたところで、必ず卒院出来るというわけでもないのにか?」
勁草院の厳しさを知っている同輩達は、一斉に顔を見合わせた。
「いまいちよく分からねえな。いくら優秀だって言っても、中央貴族にしてはの話だろ?」
「でも噂が本当で、身分も高いのに腕っぷしまで強かったら、そりゃあ、確かに化け物だぜ」
「何にせよ、鼻持ちならないクソガキでなければいいんだが」
わいわいと盛り上がる同輩達の中で、市柳は押し黙り、たった今与えられた情報を反芻していた。
大貴族の坊ちゃんで、若宮殿下の近習。高貴な血筋から、そのまま官位につくことも可能だったのに、あえて勁草院にやって来る新入り。
ぽん、と軽やかな音を立てて、一人の少年の顔が思い浮かんだ。
――まさか、あいつではないだろうな。
思ってから、いやいやと頭を振り、あの能天気を装った、邪悪な笑顔を脳裏からかき消した。だってあいつは、はっきりと言ったのだ。自分は勁草院には行かないし、中央で宮仕えするつもりもない、と。だからこそ自分は、わざわざ勁草院に入ったというのに。
嫌な予感を振り払うように、市柳は茶碗に残った白米を勢いよくかき込んだ。
食堂(じきどう)を出た一行は、揃って道場に向かった。
まだ春休み中のため、朝の鍛錬は強制ではない。自主的に集まった者の間で軽い打ち込みを終え、汗を流すために、道場から水場へと移動しようとした時だった。
「おい、新入りが来ているぞ!」
一足先に行っていた者に声を掛けられて、市柳達は「おおっ」と声を上げた。
「随分早いなぁ」
「本当に新入りか」
「おそらく。しかも、飛車(とびぐるま)で来ている」
飛車は、大烏(うま)に牽(ひ)かせて空を飛ぶ、高級貴族にしか許されない乗り物である。
そいつはきっと、今朝話題となった『化け物』に違いない。
察した連中は我先にと駆けだしたが、『化け物』とやらに嫌な予感を覚えている市柳の足取りは、ただひたすらに重かった。最後尾からのろのろと追いつけば、すでに躑躅(つつじ)の植え込みに鈴なりとなり、友人達が後輩の様子を窺っていた。
「なるほど。家財道具を持ち込むために早く来たのか」
「見ろよ、あの荷物の量。俺なんて、風呂敷ひとつだったぜ」
「しかもあそこって、ここで一番新しい坊じゃなかったか」
「教官達が気を利かせたんだろ」
冷やかし半分、やっかみ半分の仲間の言葉に、市柳は「おや」と思った。市柳が知る限り、『化け物』として思い浮かべたあいつは、贅沢を好むような性質ではなかったのだが。
おそるおそる同輩の頭越しに覗き込んだその先に、件の少年がいた。
真っ先に目に飛び込んできたのは、満開の桜の木の下で、偉そうに肩をそびやかす後ろ姿である。
朝の光の中、濃い赤の裏地に、白い綾織物を重ねた見事な装束が輝いていた。
自らは地面に仁王立ちしたまま、薄紫のぼかし模様に金箔をちりばめた扇で指示を出し、下人(げにん)に荷物を運ばせている。つやつやとした赤茶の髪は丁寧に梳(くしけず)られており、下人に話しかけられて振り返ったその顔は、市柳が今まで見た誰よりも端整だった。
肌の色は、曙光を浴びた咲き初めの白牡丹のよう。ぱっちりと大きな目は、日に当たった泉のようにきらきらと輝いている。まるで女の子のような甘い顔立ちだったが、引き結ばれた唇ときりりとした眉が、彼の美貌をただの大人しいものにしていなかった。利かん気の強さと自信の大きさを垣間見せる少年は、ただ美しいというだけでなく、人を惹きつける魅力が既に備わっているようだった。
宮廷の詩人がこの場にいれば、詩歌のひとつやふたつでも詠みだしかねない佳麗さである。
だが、彼の見目のよさなんて、市柳は全くもってどうでもよかった。ただただ、そこにいた「若宮の元近習」とやらが、奴(・)でないことに安堵したのだった。
よかった、あいつではなかった!
それが分かった途端、さっきまでの鬱々とした気分が、嘘のように吹き飛んだ。
少年の造作を見た仲間達が「すごい顔だな」「ほら、貴族ってのは、美人ばっかり妾にするからさ」「くそ、顔面から転んじまえばいいのに」と囁きあうのにも、晴れやかな心持ちのまま背を向けることが出来たのだった。
水浴びをした後、市柳は新しく割り当てられた坊へと向かった。
二号棟、十番坊。
ここがこの先一年、市柳の城となる部屋である。勁草院の院生は、初学年から最終学年まで、三年間をかけて三つの試験に合格しなければならなかった。
山内に伝わる古い文書の中に「疾風(しっぷう)に勁草(けいそう)を知り、厳霜(げんそう)に貞木(ていぼく)を識(し)り、荒嵐(こうらん)に泰山(たいざん)を見る」という言葉がある。
――強い風が吹いてこそ、芯が強い草が明らかになる。また、厳しい霜がおりた時に貞(ただ)しい木を知ることが出来るように、真の困難に遭った時こそ、真の強者が明らかになるのだ。
これにちなみ、勁草院における三つの試験を、それぞれ風試(ふうし)、霜試(そうし)、嵐試(らんし)と呼ぶ。
初学年の院生は荳兒(とうじ)である。まだ芽も出ていない荳(たね)であるが、学年末の風試に合格すれば、これが芽吹いて草牙(そうが)となる。一年後、草牙を対象に行われる霜試を乗り越え、最終学年となれた者は貞木(ていぼく)と呼ばれる。多くの種子から芽が出ても、そこから大木に成長出来るものが少ないように、貞木になれる者はごくわずかだ。その上、三つの試験の中でも一番難関なのが最後の嵐試であり、ここでよい成績を修めなければ、山内衆になることは許されないのである。
荳兒、草牙、貞木のうち、自室を持てるのは貞木だけで、荳兒と草牙は、狭くても一つの部屋を三人で共有しなければならない決まりだった。大抵の場合、坊の責任者となる草牙一人に荳兒二人が割り当てられ、草牙は後輩を監督すると同時に、指導役として、勁草院での生活の「いろは」を叩き込むのである。
この共同生活は荳兒にとって、とてつもない苦痛だった。
毎年、進級するまでに半数近くの荳兒が消えていく原因は、風試の難しさもさることながら、八咫烏(にんげん)関係の悩みが多いと思われた。市柳とて、先輩とは良好な関係を築けていた方だとは思うが、それでも大変だったのだ。草牙となり、同室の先輩に気兼ねせずに済むのが嬉しくもあり、後輩が出来るのが楽しみでもあった。朝に「先輩ぶりたい」と評されたのは業腹(ごうはら)だったが、言われてみれば確かに、そういう気持ちはあるのだった。
もうすぐ、同室となる後輩達が挨拶に顔を見せる刻限である。
内心は落ち着かなかったが、少しでも偉く見えるようにと、坊の奥に据えられた机に向かう。やがて外が賑やかになり、隣り合った部屋から少年達の緊張した声が聞こえ始めた。
そろそろかと思い始めた頃、とうとう扉の前で誰かが立ち止まる気配がした。
「お頼み申す。十番坊の先輩は、すでにおいでか」
まるで道場破りにでも来たかのような、朗々とした声である。新入りと言えば、遠慮がちな不安を含んだ声を想像していたので、市柳はこれを意外に思った。
「入れ」
入室を許せば「失礼いたす」と答えると同時に、豪快に引き戸が開かれる。
そこに立っていたのは、入り口いっぱいに広がる、大入道のような巨体だった。
呆気にとられた市柳に構わず、大男はそのまま入って来ようとして、ごちん、と頭を鴨居にぶつけた。痛そうに顔をしかめた後、照れたように笑って、のそのそと市柳の前で膝を折る。
「お初にオメにかかりまする。十番坊でお世話になることと相成りました、茂丸(しげまる)にございます」
よろしくお願い申す、とお辞儀をされても、まだ見上げるほどに茂丸は大きい。
日に焼けた顔はいかにも健康そうで、手入れのされていない太い眉毛は、大きな毛虫のようである。丸っこい団子鼻と黒々とした瞳が、ともすれば恐ろしく見えてしまいそうな顔立ちを、一転して優しそうな印象に変えている。その雰囲気は、熊から獰猛な部分を全て抜き取ったかのようであり、いかにも気持ちのよさそうな青年(・・)であった。
「……お前、年はいくつだ」
「は。あとふた月で、十八になります」
「じゅうはち」
勁草院へ入ることを峰入(みねい)り、もしくは入峰(にゅうぶ)というが、その資格は満年齢で十五から十七の男子に制限されている。貴族の子弟は、大抵十五になるのを待ち構えるようにして勁草院に入るから、峰入りの時点で十七を数える者は、平民階級出身の者がほとんどだった。
一応は地方貴族のくくりに入る市柳も、十五の年で荳兒となったから、奇しくも自分よりも年上で、はるかに大柄な後輩を持つことになってしまった。
緊張する後輩に対し、先輩らしく頼もしい言葉をかけるという当初の理想像は、音を立てて崩れ去った。茂丸に先達を敬う姿勢が感じられたのは幸いだったが、なんというか、もっとこう、初々しい感じの後輩を想像していたのだ。
「ええと、ああ、そうだ。俺は、草牙の市柳だ。一年間同室だが、よろしく頼む」
まだ名前も教えていなかった、と慌てて言えば「存じ上げております」と屈託のない笑顔が返って来た。
「自分は、風巻郷(しまきごう)の出身ですから。郷長(ごうちょう)さんのところの三男坊殿のお噂は、かねがね聞いておりました。すっかりご立派になられたようで、郷民として誇らしいです」
地元の者だったか。これは、ますますやりにくい。
市柳が返答に困った時、「お前も知っているんだろう?」と、不意に茂丸が背後を振り返った。
そこでようやく市柳は、茂丸の巨体に隠れて、もう一人の新入りが来ていたことに気が付いた。随分と小柄なようだったので、せめてこちらには威厳を保たなければ、と姿勢を正しかけた時だった。
「ええ、勿論です」
――何故だか、ひどく聞き覚えのある声がした。
「知っているどころか市柳さんとは、幼馴染みと言って差し支えのない関係だったのですよ。まあ、先輩後輩となってしまった以上、今までのように気安くは出来ませんが」
信用のおける方が同室でよかったと、のんびりとした笑いが響く。その声に喚起されて、忘れたくても忘れようのない記憶が蘇った。
容赦なく打ち据えられた痛みと、降りかかる罵倒の数々。判で捺したかのように変わらない笑顔に、気が狂ったかのような笑声のけたたましさ。
ひょっこりと、茂丸の陰から、市柳の悪夢が顔を覗かせた。
茶色味を帯びた猫っ毛に、これと言って特徴のない、どこにでもいるような面差し。人畜無害そうな表情を裏切る、狡賢く光る恐ろしい双眸(そうぼう)。
「ご無沙汰しております、市柳さん。改めまして、垂氷(たるひ)の雪哉(ゆきや)です」
これからよろしくお願いいたしますね、と。
輝くような笑顔で告げられた言葉に、市柳は絶叫した。
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