君原氏が所有する「東京五輪の記念スカーフ」

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第1回【「今日は円谷君のために走ろう」…メキシコ五輪・マラソン銀メダリスト「君原健二さん」が明かした「あの日、なぜ後ろを振り返ったか」】からの続き

 1964年の東京、68年のメキシコシティ、そして72年のミュンヘンと、マラソン日本代表として3大会連続で五輪出場を果たした君原健二さん。8位に終わった東京五輪の後、ライバルだった円谷幸吉さんが自ら命を絶ってしまう。亡き好敵手の思いも背負いながら、君原さんはメキシコ五輪に臨んだ――。【飯田守/ライター、編集者】

(全2回の第2回)

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雲の上を走っているような気分

 君原健二は3度のオリンピックを含め選手として12年間に35回のレースを経験しているが、レース後にただ一度だけ「不思議な感覚」を味わったことがある。

君原氏が所有する「東京五輪の記念スカーフ」

 それは8位に敗れ去った東京オリンピックの翌朝に、一人で明治神宮を1時間ほど走ったときのことだ。五輪の期間中、選手は神宮の内苑を走ることが許されていた。この日も日課のごとく、君原はランニングシューズを履いた。

「普段通り、代々木の選手村から明治神宮まで朝のジョギングをしましたら、体が楽で、本当にウソのように自由にのびのびと走れ、とても幸せな気持ちになれたのです。体が軽くて、まるで雲の上を走っているような気分。後にも先のもこの一度しか味わったことのない不思議な感覚でした。もしかすると、東京オリンピックまで、私の心や体は自分で作ってしまった柵(しがらみ)に絡められていたのでしょうか」

 君原は東京オリンピックの1年前のプレ五輪で日本人トップの2位に入り、4月の代表選考会だった毎日マラソンと8月のタイムスマラソンでは優勝していた。円谷幸吉が急成長していたとはいえ、君原にメダルを期待する周囲の、いや国民の声は日を追うごとにどんどん膨らんでいった。

「私自身はメダルを獲ることに強くこだわっていたとは思っていません。とにかく自分なりに精一杯走り自分の力をすべて出し尽くせばいいんだという考え方でした」

 それは周囲の雑音に惑わされることなく、実力を発揮すればいいのだと、自らに語りかける、あるいは自己暗示にかける言葉だったようだ。そこに徹することで最高の結果が得られると、冷静に己をコントロールしようとする術だったのだろう。

「俺の横には素晴らしい成績を収めた人間が寝ている」

 だが本番2日前の日記には、千々に心乱れる様々な思いが書き留められている。

「あと四十五時間もすれば 就職試験の発表と同じほど将来に影響する結果になるのではないだろうか それにしてはあまりにも興奮しないのは あまりにも多くのことで気をまぎわす為だろう しかし俺はこの大会を祭り此以上に考えぬよう努力せねばならぬ 知らない人 知っている人から お守りや千羽鶴等をもらって それをどう処分しようかと迷う 必勝祈願 祝優勝祈願等はすぐに破って捨てるようにしている 神仏は信じなく たよることのないようするつもりが 捨ててばちが当たりはしないかと恐れるのである」
 
 翌20日の日記。

「あと二十時間余りで 何百日も前から目指して来た結晶が現れる 今日はさすがに興奮し 練習もあちこち痛みを感じ走りづらかった 今日また千羽鶴をもらった 一生懸命祈って作った千羽鶴を 俺はなんと無情なあつかいをするのだろう しかし俺にはどうしようもない」

 そしてレース当日の日記には、こんな言葉が絞り出されている。

「今から約一時間余り前にレースは終わった 俺にとっては少々みじめなレースであった しかし成績は正しい 何とも云訳けなんか出来るはずはない しかし俺は世界の選手を相手にレースをするには全く駄目な男だ こんな大事なレースに俺は何度レースを投げようとしたろうか 全く恥るべき態度だ」

 その2日後には、胸の内を、正直に短く綴っている。

「俺の横には素晴らしい成績を収めた人間が寝ている。すべての人々から賞め誉えられる それを見てねたみ 寂しくなる」(原文ママ)

「東京オリンピックという乗り物から降りた感じ」

 10月26日、君原は約50日ぶりに福岡県の我が家に帰り着く。玄関をくぐった時、「やっと東京オリンピックという乗り物から降りた感じ」を満腔に味わう。

 2日後、所属していた会社の陸上部に退部届を出し、陸上競技から離れることになる。月末の日記には、その後コーチとの話し合いを持ったことが記されているが、そこにある一文の意味をあらためて君原に問うてみた。この一文の真意は何を物語っているのでしょうかと。

 君原はときに目を閉じ、沈黙と、「うーん」「そうですね」「やっぱり…、ちょっと」と短い言葉を交互に繰り返す。ようやく5分余り経て、こんな言葉を紡ぎ出した。

「うーん、そうですね、やっぱり追い詰められていたのかもしれませんね」

 日記の一文には、こう記されていた。

「今日の話合で注意せねばならぬことは 途中で死を何度も感じた事だ それも簡単に 安々と自殺する俺を この敗北だけはやりたくない」

 オリンピックの陰の濃さと深さを思い知らされる。

指輪を衝動買い

 君原と円谷は、ともに指輪を買い求めたことがある。

 東京オリンピック前年の9月、ニュージーランド合宿の帰路、トランジットで立ち寄った香港でのことだ。

 記録会で円谷は君原の持つ2万メートルの日本記録を破る世界記録を打ち立て、心の弾む帰国への旅だった。

「円谷君は嬉しそうな顔をしてダイヤの指輪を買っていましたから、差し上げたい女性がいたんでしょう。後に婚約者となる人ですね。それを見ていた私もなんだか羨ましくなって、つい同じような指輪を衝動買いしちゃいました。でも私には差し上げる女性の当てもいませんから、それでお袋にあげたんですけどね」

 円谷が買い求めた指輪は、婚約者の手に渡ったのだが、のちに自衛隊体育学校長の猛反対で破談され返されてくる。この心の痛手に加え椎間板ヘルニアとアキレス腱の手術が肉体を蝕み、アスリートとしての復活を妨げ、悲劇へと進んでいく。

 一方の君原には「ペンフレンド」がいた。東京オリンピック前年の2月に初めてもらったファンレターの女性で、手紙のやり取りを毎月重ねた。君原家の隣りの佐賀県に住んでいるのに、初デートまでちょうど2年を要し、その1年後にコーチの後押しを得て結婚する。

「東京オリンピックの後、何か私の心は荒んでいましたね。結婚すれば満たされるのかなと思い早く結婚したいと考えていました。競技者の私にとって結婚は間違いなくプラス面が多かったですね」(君原)

 東京オリンピックでダメージを抱えていた二人のマラソンランナーに、時の経過は、背中合わせの答えを与えていた。

二人の人生の色合い

 徳島県では毎年正月に、県内最大のスポーツイベント「徳島駅伝」が開催されている。3日間にわたり市郡対抗で県内を走破するものだ。そこに地元ランナーの長距離熱を盛り上げようと、県外の実業団チームなどが招待されるのだが、円谷と君原は、それぞれ自衛隊体育学校、新日鉄の一員として参戦している。 

 円谷は東京オリンピックから1年2ヵ月後の66年に、君原は5位入賞を果たしたミュンヘンオリンピックの4ヵ月後の73年に、それぞれ3日間で50キロ前後走っている。
 
 最終日に円谷は、地元各チームが3人でタスキをつなぐ3区間19.8キロを一人で走破しているのだが、ゴール手前7キロ辺りで、すでに地元の1位チームを2分以上引き離していた。長い直線道路にも関わらず円谷が走り去ってから後続チームの姿がなかなか見えないことに沿道のファンは驚き、その激走ぶりに、円谷が見せつけた「一流選手の力」を感嘆した。

 一方の君原は、500メートルほど長くなった同区間を、円谷より5分30秒以上遅いタイムで走った。ゴール手前7キロでは地元選手3人の後塵を拝していたものだから、待ち受けていたファンからは、君原はどこか体調が悪いのではないかと心配されたほどだ。もちろん最終的には先行する3人を抜き去ってゴールしている。

 この二人の走りの様に、その心情を見ることができる。

 円谷はレース前に地元メディアにこんなメッセージを寄せていた。

「それぞれチームのためにいままで努力してきた成果をフルに発揮し、ベストを尽くして立派に戦おうじゃありませんか」「立派な記録を作り好調への再出発の記念にしたい」「トップ選手の圧倒的な強さをみせたい」と。
 
 そして君原は、淡々とこう述べている。

「調子はまずまず。一生懸命頑張るつもりです」「前半は徳島の選手と一緒に走り、後半は思い切って飛ばしたい」
 
 容赦ない段違いのスピードで地元選手を圧倒する円谷。高校生らを先行あるいは並走させて最後に力を見せつける君原。
 
 その当時の二人の置かれていた立場の違いはあるにせよ、一流のマラソンランナーの存在を披露することで地元ランナーを刺激しようとする心遣いは同じだった。

 ただそこに、生真面目一徹な円谷と、自分の力を出せばいいだけと達観した振る舞いを見せた君原がいた。その表現方法の違いに、その後の二人の人生の色合いが見られる。(敬称略)

第1回【「今日は円谷君のために走ろう」…メキシコ五輪・マラソン銀メダリスト「君原健二さん」が明かした「あの日、なぜ後ろを振り返ったか」】では、自ら命を絶った円谷幸吉との関係について君原さんが語っている。

君原健二(きみはら・けんじ)
1941年生まれ。福岡県北九州市出身。マラソンランナー。1964年東京オリンピック8位。68年メキシコシティオリンピック2位。72年ミュンヘンオリンピック5位。

飯田守(いいだ・まもる)
徳島県生まれ。「月刊現代」「週刊現代」などの記者を経てライター、編集者に。財界人やスポーツ選手のインタビュー、鉄道、紀行文を手がける。著書に『みんな知りたい!ドクターイエローのひみつ』(講談社)。

デイリー新潮編集部