わずか16歳、祭り上げられた反乱指導者「天草四郎」は実在した?複数人説も存在する奇跡の少年の虚実

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祭り上げられた奇跡の少年

島原の乱は、九州の島原藩と唐津藩のある天草諸島を中心に起きました。江戸時代初期にあたる寛永14年(1637)10月のことで、日本史上最大級のキリシタン蜂起といわれています。

「嶋原陣図御屏風(戦闘図)」朝倉市指定文化財。天保8(1837)年 斎藤秋圃 画(Wikipediaより)

この反乱の指導者として知られるのが、弱冠16歳の天草四郎。彼は数々の奇跡を起こしたカリスマであり、領主の悪政に苦しむキリシタンを救済するために反乱を指導したといわれてきました。

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天草四郎に率いられた約3万7000人の反乱軍は、原城を占拠して領主に対抗します。反乱を知った幕府も兵を派遣しましたが、反乱軍はおよそ5ヵ月にわたって抵抗しました。

最終的に、幕府軍の反撃で反乱軍は崩壊したものの、天草四郎のリーダーシップで統率されたキリシタンは手強く、為政者は宗教勢力の恐ろしさを目の当たりにしたとされています。

「競勢酔虎伝:天草四郎」(Wikipediaより)

しかし近年、この島原の乱に関する研究が進み、通説は大きく変化しています。

実際には、天草四郎は反乱軍の先頭には立っていたものの、首謀者ではありませんでした。戦闘を指揮したことも確かにありましたが、実質的な指揮権は別の者たちが握っていたのです。

島原の乱の首謀者

そもそも、島原の人々が反乱を起こしたのはキリシタン弾圧だけが原因ではありませんでした。発端となったのは、領主による過度の重税など、圧政に苦しむ農民たちによる蜂起だったのです。

そしてこの蜂起に、幕府の方針で棄教させられた大勢の元キリシタンたちが参加したことで、宗教運動として拡大したのです。

天草四郎はこうした騒動の後で蜂起に加わっており、最初からリーダーシップを発揮したわけではありませんでした。

では、彼が反乱の首謀者だと思われてきたのはなぜでしょうか。それは、主君を失った浪人や庄屋が彼を担ぎ上げたからです。

原城で捕縛された、旧有馬家の家臣である山田右衛門作によると、天草に集合した5人の浪人勢によって、四郎を旗頭にしようと話し合われたようです。そしてその後、有馬地域の村々が相談し、天草四郎をリーダーとすることが決まったのでした。

浪人たちが天草四郎を担ぎ上げた目的は二つあり、元キリシタンたちを集めることと、一揆勢の士気向上です。

その結果として一揆軍は3万人規模の大軍に膨れ上がり、村々から集めた武器で武装し、幕府を苦しめることになりました。

なお、かつては一揆軍は全滅させられたと言われてきましたが、これも誤りです。

実際には、相当数の農民が原城を脱出していたことが複数の史料からわかっています。これは、幕府軍が一揆軍の殲滅までは目指しておらず、女子どもや投降者を許すよう軍令で決めていたからでした。

原城址 二の丸跡

また、一揆勢がみな宗教運動に積極的だったわけではなく、情勢を見極めて逃亡する者も少なくありませんでした。熱狂的な信者ばかりが集まったわけではなかったのです。

奇跡の少年は実在したのか

天草四郎に関する誤解は、他にもあります。奇跡を起こしたカリスマというのは後世の脚色であり、実像はよくわかっていないのです。

彼の素性を記した一次史料は極めて少なく、戦闘の経過を伝える史料にもほとんど姿を現さないため、本当に実在したのかと疑問視する声もあった程です。複数の少年で構成されたグループ名だったのではないかという天草四郎複数人説などはその一例です。

天草四郎像

ただ、数は少ないものの、天草四郎の目撃情報は確かに存在しています。例えば、熊本藩の家老が大坂城代に宛てた手紙によると、久留米の商人が戦闘中に四郎を目撃しています。

それによると四郎は馬に乗り、服装は白い組の着物にはかま姿でした。頭には苧を三つ組にして緒でのど下にとめ、額には小さな十字架を立てていました。そして手に御幣を持って一揆軍を指揮していたといいます。

こうした詳細な記述から、少なくとも天草四郎が存在したことだけは間違いないだろう、と言われています。

参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年

画像:photoAC,Wikipedia