2022年に世界ベンチプレス選手権大会で優勝した山下保樹さん(写真:山下さん提供)

浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか?また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。

今回は特別編です。2022年に世界ベンチプレス選手権大会で優勝し、世界王者になった山下保樹さんには、高校浪人の経験がありました。山下さんに高校浪人の話、浪人生活が今の活躍に与えた影響など、お話を伺いました。

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周りよりも1歳年上で学生生活を過ごす


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今回お話を伺った山下保樹さんは、大学受験で浪人を経験せず、また留年もしていません。それでも、彼はつねに同級生よりも1歳年上で学生生活を送ってきました。

なぜなら、彼は高校浪人を経験したからです。

幼少期から野球を続けて、名門公立校である東大阪市立日新高等学校に入学した山下さん。ここで彼は甲子園常連校のPL学園高等学校に実力の違いを思い知らされ、挫折して退部・退学します。

しかし、そこからの浪人生活で勉強をやり直し、入り直した高校で出会った競技で世界王者になるまでの実力をつけました。

「高校浪人」を経験した彼が、どのように人生を立て直し、新たに始めた競技で世界一になったのか。その根源に迫っていきます。

大阪府の東大阪市に、会社員の父親と、パートをしている母親のもとで生まれ育った山下さん。保育園のときからKUMONに通い、勉強にも励んでいました。

「保育園の年長のときには掛け算ができた」と語る彼は、当時から1つのことに集中したら永遠にやり続ける性格でした。小学校4年生までは優等生で、テストはほぼすべて100点だったそうです。

しかし小学校5〜6年になると、勉強をする意味がわからなくなって、最低限の勉強だけで済ますようになりました。

「親が近くの中学校が荒れていることを嫌がって、近畿大学の附属中学を受ける話もあったのですが、僕は『なんで遠くの中学校までチャリンコに乗っていかないとあかんねん』と思っていました。今、自分は親のために勉強しているわけではないよなと思い、そのまま近くの公立中学校に進みました」

中学に入ってからも、人生に勉強は必要ないと思ってしまい、宿題をしなくなり、授業中にグラウンドにいたり、学校を抜け出してしまうこともありました。グレたわけではないそうですが、「先生からしたら、隠れ不登校扱いでしたね」と当時を振り返ります。

進路選択の時期にみるみる自信を喪失

勉強に興味を持てなくなった山下さんですが、小学校でやっていた野球は、中学に入ってからも続けました。平日は部活動、土曜日は部活が終わってから地域の軟式の野球チームの練習に参加していました。

「地域の野球チームも1年生のときからずっとレギュラーでしたし、部活動のほうでは2年生から4番を任せてもらいました。強いチームではなかったのですが、私自身うまかったので楽しかったですね。部活で大阪府の大会にも出られたし、チームの中の有力選手としてその出場に貢献できたというのも、自分の中で優越感を保ててよかったです」

有力選手だったため、いくつかの高校からもスポーツ推薦をもらっていましたが、中3の進路選択の時期に強豪校の練習を見に行き、みるみるうちに自信を喪失してしまいました。

「とてもじゃないけどレギュラーになれる感じではなかったです。部員が100人いて、1軍と2軍に分けられているところで競争させられるわけで、これで3年間を過ごせる自信がありませんでした。試合に出られない状態が続くなら、公立で野球部が強いところに行ったほうが試合に出られると思い、当時、大阪府のベスト8に残るほど強かった東大阪市立日新高等学校の商業科を目指して受験勉強しました」

ところが、勉強を拒否し続けてきた山下さんは、アルファベットも書けなかったようで、近畿圏最大規模の模試である五ツ木模試で、偏差値32を取ってしまいました。

「私学の野球部の誘いを全部断ったのに、この成績だったので、進学できるのかどうか、親もすごく心配していました。さすがに私もこの結果ではまずいと思い、親にお願いして夏休みごろに個別指導の塾に入りました。受験するころには偏差値50まであげて、ギリギリ合格することができました」

「授業プラス4時間の自主勉強を7カ月続けた」と語る山下さんは、努力の甲斐あって東大阪市立日新高等学校に入ります。しかし、ここで彼は自身の野球人生最大の挫折に直面することになりました。

PL学園にボコボコに負けて絶望

「高校に入ってからは野球部に入り、野球に打ち込みました。朝練もあるので家を6時に出て、7時から練習し、授業が終わってから毎日夜の9時まで練習していました。家に帰ったら10時を過ぎていましたね。無理して入った学校だったのに、野球部の練習が過酷すぎて一切勉強できず、テストは全部20〜30点くらいでした。順位はクラス40人のうちで39番くらいでしたが、1人は不登校だったので実質最下位でしたね」

勉強やほかの生活を犠牲にして野球に打ち込んだ山下さんは、部員が30名いる環境でも、1年生の夏から背番号をもらってベンチ入りし、3年生が引退してからは試合に出るようになります。

しかし、彼は9月の秋の大会が終わった途端、野球部を退部する決断をしました。

「秋の大会で、甲子園常連校のPL学園と対戦したのですが、そこでボコボコにされて負けたんです。PLの選手は次元が僕らよりも3段階くらい上で、練習量ではどうにもならない実力の違いを感じました。『こういう人たちが甲子園に行くんや……』と絶望してしまって、野球を辞める決断をしました」

才能の違いを感じ、ずっと続けてきた野球部を辞めた山下さんは、学校に行かなくなり、バイクの免許を取りに行くなど、しばらくは遊んでいたそうです。

「何もやる気が起きなくなりました。小学校や中学校では留年がなかったので、学校に行かなくてもなんだかんだで卒業できると思っていたのですが、1月くらいになって本当に上の学年に上がれないと先生に教えてもらいました。そこで親とも相談して、2月に入ったころに高校を辞めることにしました」

高校を辞めた後の山下さんは、これからの人生をどうするか、2択を迫られます。

「1つは、僕の親戚がやっていた建設会社に就職させてもらうという選択肢です。でも、毎朝5時に起きて炎天下の中で仕事するのは、当時16歳の僕には想像しただけで絶叫ものでした。

だから、『家から通える私学の学校を探しなさい』と親にもう1つの選択肢を提示してもらったんです。自転車で通える範囲で5〜6校あったので、自分で願書を取り寄せて、中学校まで行って先生にハンコをもらい、いろんな高校に電話して問い合わせました。退学歴のある僕はほとんどの学校から受験を断られたのですが、金光藤蔭高校だけは、『一度筆記試験と面接をしましょう』と言ってくれたんです」

高校浪人でとにかく必死に勉強する

ギリギリのところで望みをつないだ山下さんでしたが、入学式の4日前、3月25日の筆記試験と面接で受からなければ受け入れてもらえません。この高校浪人の2カ月の期間、とにかく山下さんは必死に勉強しました。

「今まで本当にどうしようもない人生を送ってきたのですが、この2カ月の間に必死に勉強しようと思い、学校の過去問や、出そうな問題を買い込んで、全部やりました」

もう一度高校に入り直すことになれば、周囲の同級生はみんな1歳年下になります。10代の1年の差は大きく、周囲と年齢が違うことを気にする人も多いはずですが、山下さんは特に気になりませんでした。

「(同級生が年下になることには)特に抵抗はありませんでした。それよりも、16歳から働きたくなくて、絶対にそれを避けることに意識がいっていましたね。働きたくないという一心で勉強し続けたので、年齢のことは考えなかったです」

こうして必死に勉強をした山下さんは筆記試験になんとか合格し、面接でも「あまり悪い感じの子じゃないですね」と言われたそうで、無事、金光藤蔭高校に入学することができました。

周囲より1歳年上の状態で、高校に入学した山下さん。最初のほうこそ年上のクラスメイトに戸惑った同級生たちは敬語を使っていたようですが、しばらくすると普通に同級生として馴染むことができ、楽しい高校生活を過ごせたそうです。

そんな山下さんに浪人してよかったことについて聞くと、「頑張ればなんとかなると思えたこと」と答えてくれました。

「退学するまでの自分は、勉強が全然できませんでした。でも、浪人の期間に本気を出したら人並みにはできるようになることがわかって、その後の人生でも、苦手なことでも頑張れば、ある程度のところまではいけると思えるようになったことが大きかったです。この2カ月で生活を立て直し、人生を変えることができたのが、自信になりました

人生を決定づける運命の競技と出会う

この高校で、彼はのちの人生を決定づける運命の競技とも出会います。それが、のちの山下さんのライフワークとなる、パワーリフティングでした。

「金光藤蔭に入ってから、親に『目標がないと学校に行かなくなる性格だから、1年遅れていても、できる部活を探しなさい』と言われたんです。最初は柔道部に入りたかったのですが、推薦入学の生徒しか受け付けていなかったので、見学すらできませんでした。

どうしようかな、と思っていたとき、パワーリフティングをやっていた先輩に『君、いま暇してるの?』と声をかけていただいたんです。見学に行ってやり始めたら、1年生の夏からいきなり全国大会に出られたので、競技にのめり込みました」

この競技にはまった山下さんは、「学校に行く意味ができた」と喜び、無我夢中で打ち込んだ結果、1年生の最後には世界大会出場の権利を獲得することができました。

それからの山下さんの戦績は輝かしいもので、高校2年生のときには18歳未満の世界大会で銅メダルを獲得。高校の全国大会では優勝3回、準優勝1回、MVP2回と目覚ましい実績を残しました。一方で、勉強のほうも一度退学し、浪人を経験したことから真剣に取り組むようになりました。


2022年に世界ベンチプレス選手権大会で優勝した山下保樹さん(写真:山下さん提供)

「当時の大阪は私立高校の無償化を進めていた時期でした。でも、僕は一回別の高校に行っているからお金を払わないといけなかったんです。

公立だったら年間15万円くらいで、私学なら年間70万〜80万かかると親に言われました。親が前期・後期のお金を払う際には現金を生で見せられて『今から授業料振り込んでくるから真面目に学校行きや』と言われたのも覚えています。

それでお金の大事さを認識しましたし、ちゃんと勉強せなあかんと反省しました。真面目に授業受けて宿題もちゃんとやっていたので全部のテストで90点以上を取り、留年せずに済みましたね」

スポーツで素晴らしい成績を残した山下さんのもとには、大学のお誘いも大量に来たそうですが、大学に行くつもりはなく、フォークリフトの資格を取って、就職に備えていました。

「無料で大学に行ける特待生も5校くらいいただいていたのですが、就職するつもりだったので全部断っていました。でも、高校3年生のころに親に『ここまで来たならどうしても大学行って、卒業してほしい』と言われたので、ジムでトレーニングを続けながら、先生に大学に行く方法を聞き、授業が終わってから1日3時間、ずっと勉強し続けました。勉強の甲斐もあり、阪南大学流通学部流通学科スポーツマネジメントコースに一般入試で合格し、入学しました」

大学で勉強が楽しいと感じた

阪南大学に入ってからの山下さんは、「インフルエンザになったとき以外は全部授業に出た」というほど勉強にものめり込みます。

「スポーツや生理学に関する勉強が、とても楽しかったです。実は高校時代、阪南大学には授業料免除でお誘いをいただいていたのに、一度辞退してしまいました。だから一般受験で入って年間100万円する授業料を親に払ってもらったのは本当に申し訳なかったです。

でも、そのおかげで1コマの授業にもお金がかかると思って、真剣に聞いていたため、たくさん学ぶことができました。知らないことを知れることができるのが、これほど楽しいことだとは思わなかったです。授業料を出して、大学に行かせてくれた家族には本当に感謝しています」

「ゼミの中で卒業論文をいちばん最初に書きあげた」と語るように勉強を楽しんでいた山下さん。一方でパワーリフティングのほうも、大学時代には全日本学生パワーリフティング選手権大会で優勝2回、準優勝2回、23歳以下の全国大会でも1回優勝するなど、競技実績を積み上げていきます。


2022年に世界ベンチプレス選手権大会で優勝した山下保樹さん(写真:山下さん提供)

大学を卒業してからは就職し、転職を経て27歳のときにパワーリフティング専門のジムを開き、現在もサラリーマンをしながらジムを経営している山下さん。

パワーリフティングの中でも、ベンチプレスに特化して練習を続けた結果、2022年には世界ベンチプレス選手権大会で優勝し、悲願だった世界チャンピオンになりました。

高校浪人があったからこそ得られたもの

波乱万丈の人生を送り、再入学で巡り合った競技でいちばんになった彼は今改めて、浪人の経験の大きさを噛み締めています。

「再入学した高校で、パワーリフティング・ベンチプレス競技に出会えたことで、人生がとても華やかになりました。高校を退学してすぐ就職していたら、大学まで行って、大学を出て就職してからもこの競技を続けることはありませんでした。

それに高校浪人の期間があったからこそ、支えてくださる方々に感謝できるようになりましたし、勉強や仕事やスポーツなどいろんなことを頑張ろうと思えるようにもなり、人生を本気にさせてくれました。だから、今悩んでいる方、勉強で行き詰まっている方も、やり直しはできると思います。人生は一回きりですが、いくらでも取り返しがつくものだと伝えたいです」

高校浪人という多くの人が経験しない挫折を経験し、それを乗り越えたからこそ、彼は今、自分の人生を輝かせることができているのだと思いました。

山下さんの浪人生活の教訓:挫折は人生を本気にさせる

(濱井 正吾 : 教育系ライター)