パリ五輪開会式の様子(写真:L'EQUIPE/アフロ)

パリ五輪がいよいよ開幕した。7月26日(日本時間27日)に行われた開幕式では、その奇抜な演出に注目が集まり、いきなり大きな物議を醸すこととなった。

18世紀のフランス革命で処刑された王妃マリー・アントワネットを想起させるドレス姿の女性が、かつてアントワネットが幽閉されたコンシェルジュリーという牢獄で、ギロチンで切り落とされたかのような自らの首を持って登場。生首が歌い出したかと思うと、演奏の終盤には真っ赤な紙テープが空に舞い、建物が赤く染められるという衝撃的な展開が待ち受けていたのだ。

そんな「嫌われ者」のマリー・アントワネットといえば、「パンがないのなら、お菓子を食べればいいじゃない」という空気の読めない言葉がよく知られている。だが、偉人研究家の真山知幸氏によると、この言葉は捏造された可能性が高いという。『ざんねんな偉人伝』を一部抜粋・加筆・再構成し、ことの真相に迫る。

オーストリアからフランスに輿入れ

マリー・アントワネットは1755年、オーストリアの女帝、マリア・テレジアの15人目の子どもとして生まれた。

当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から、フランスとの同盟を強めようとしており、そのために、アントワネットがブルボン家へと嫁ぐことになった。いわゆる政略結婚である。

アントワネットは14歳のときに、15歳のルイ16世と結婚し、オーストリアからフランスに輿入れすることになった。

だが、夫婦仲はそんなによくなかったようだ。結婚当時、ルイ16世が性的不能に陥っていたため、アントワネットは寂しさを紛らわすように、仮面舞踏会で踊り明かしていたという。

王妃に似つかわしくない奔放で享楽的な性格を持っていたアントワネットは、母・マリア・テレジアを大いに悩ませていた。娘をたしなめる母の手紙も多く残っている。

マリー・アントワネットといえば、太陽王・ルイ14世の「朕は国家なり」と同じく、いかにも彼女らしい発言として広く知られている名言がある。フランス革命が起きる前、食糧難に苦しむ民衆に、彼女は不思議そうに、こう言い放ったというのだ。

「パンがないのなら、お菓子を食べればいいじゃない」

フランス語では“Qu'ils mangent de la brioche”。ブリオッシュ(brioche)とは、バターと卵を多く使ったパンのこと。パンの上にまた小さなパンを乗せるというダルマ型で、中世ヨーロッパではお菓子という扱いだった。苦しむ民衆に対してこの言い草は、いかにも浮世離れしたアントワネットらしい、常識知らずの言葉に仕上がっている。

ルソーの『告白』からわかった「真実」

仕上がっている、としたのは、この言葉は捏造である可能性が高いからだ。

言葉の出典は、実はアントワネットではなく、思想家のジャン・ジャック・ルソーである。ルソーの『告白』に、こんな話が紹介されている。


ジャン・ジャック・ルソー(画像:Universal Images Group/アフロ)

1740年、家庭教師をしていたルソーは、勤め先の家庭からワインを何本か盗んで、自分の家でこっそり飲もうとたくらんでいた。偉人が窃盗ということに驚くかもしれないが、窃盗癖があったことをルソー自身が『告白』に書き残している。

そうして盗んだワインを飲もうとしたのだが、パンがないことに気づいた。ルソーはどうしてもパンと一緒に飲みたかったが、紳士である自分が(紳士はワインを盗まないものだが……)のこのこと買いにいくのは恥ずかしかったし、かといって召使に頼めば、窃盗が発覚してしまうかもしれない。 

そんな葛藤の末、ルソーはこんな心境に至ったのだという。

「さる高貴な妃(王女)が、『農民にはパンがありません』と言われ、『ブリオッシュを食べればいいわ』と答えたのを思い出した」

ルソーは、 ブリオッシュを食べながら、ワインを飲み始めたのだった。

この「さる高貴な妃」がまさにマリー・アントワネットではないか、と言いたいところだが、彼女が生まれるのはこれから15年後の1755年。

つまり、アントワネットが生まれる以前から、この言い回しは、庶民の苦しみを知らない高貴な者たちへの皮肉として使われていたのである。

アントワネットには、ふだんから彼女に嫉妬する貴族が少なくなかった。また王権に対する勢力も、彼女の悪評をこぞってパリに流したが、そのほとんどがデマや誇張であったことが近年は明らかになってきている。

この有名な言葉も、彼女を悪役にするために語られた、多くのデマの1つと言えるだろう。

国の財政難に陥れた戦犯とされているが…


フランス革命によって、ルイ16世とともに、断首台に送られることとなったマリー・アントワネット。

国を財政難に陥れた戦犯とさえされているが、いくらアントワネットが権勢をふるったとしても、たった1人でフランス財政が傾くはずがない。ルイ16世の即位前から、国家財政は破綻していた。

また、フランス政府としても飢饉対策を全くしていなかったわけではなかった。ルイ16世は、穀物不足を受けて、ジャガイモの栽培を定着させようとしていた。そのために、パーティのときには、いつも妻のアントワネットの胸にジャガイモの花を着けさせ、彼女自身もジャガイモを愛したと伝えられている。

プチ・トリアノン宮殿が与えられると、子どもたちと遊びながら、飾らない生活を送ったアントワネット。残念な誤解ばかりがなされてきたが、よき母親の一面もあった。
 

(真山 知幸 : 著述家)