安易に「共生社会」語る人に伝えたい"危うい盲点"
第15回は「共生」について考えます(画像:内閣府ホームページ)
財政社会学者の井手英策さんは、ラ・サール高校→東京大学→東大大学院→慶應義塾大学教授と、絵に描いたようなエリート街道を進んできました。が、その歩みは決して順風満帆だったわけではありません。
貧しい母子家庭に生まれ、母と叔母に育てられた井手さん。勉強机は母が経営するスナックのカウンターでした。井手さんを大学、大学院に行かせるために母と叔母は大きな借金を抱え、その返済をめぐって井手さんは反社会的勢力に連れ去られたこともあります。それらの経験が、井手さんが提唱し、政治の世界で話題になっている「ベーシックサービス」の原点となっています。
勤勉に働き、倹約、貯蓄を行うことで将来の不安に備えるという「自己責任」論がはびこる日本。ただ、「自己責任で生きていくための前提条件である経済成長、所得の増大が困難になり、自己責任の美徳が社会に深刻な分断を生み出し、生きづらい社会を生み出している」と井手さんは指摘します。
「引き裂かれた社会」を変えていくために大事な視点を、井手さんが日常での気づき、実体験をまじえながらつづる連載「Lens―何かにモヤモヤしている人たちへ―」(毎週日曜日配信)。第15回は「<みんなちがって、みんないい>の2つの道」です。
私が答えられなかった「娘の何気ない質問」
この10年くらいだろうか、国や地方自治体の資料のあちこちで「共生社会」というフレーズを目にするようになった。
告白すると、かくいう私も「共生」という用語のヘビーユーザーだ。人びとが共に生きる社会。私にとっては確かに心地よい響きを持っている。
だが同時に、上滑りというか、白々しさのようなものを、この言葉に感じている。そのきっかけは、娘が小学生のころにしてくれた、何気ない質問だった。
「授業で『みんなちがって、みんないい』っていう言葉と『共生社会』って言葉を教わったのね。でも、バラバラなのと、一緒に生きるのは、反対の話なんじゃないの?」
私はこの素朴な問いにきちんと答えられなかった。
お互いの価値観を認めあいつつ、共に生きていく社会。たしかに、理想的な社会だ。
だが、両者の前提に置かれているのは、「善意と良識に満ちた人間像」だ。
現実社会では、多様性と共生はイコールとは限らない。私は同調圧力が嫌いだ。だが、もしこの圧力がまったくなく、多様性が完全に認められるとすれば、各人が好き勝手に権利主張を繰り返し、対立し、社会はバラバラに分裂してしまうかもしれない。
そもそも<共に生きる>とはどんな状態をさすのだろう。質問に答えられずに悔しかった私は、何冊かの本を手にしてみた。すると、「共生」には、いくつかのバリエーションがあることがわかった。
1) 互いに利益を与えあう「相利共生」
2) 一方が得をし、他方に損得のない「片利共生」
3)一方だけが得をし、他方は損をする「寄生」
ルソーが「社会契約論」に記した答え
寄生も共生の一形態と聞いて少し驚いたが、要は、「利益」がどのように配分されるかによって共生の意味はまったく変わってしまう、というわけだ。
多様性を認めあう社会。みなが共に生きようとする社会。いずれもキレイだが、善意と良識に満ちた人間像だけでなく、「利益の配分」の問題を語れていないからリアリティがないのだろう……私はなんとなく合点がいった気がした。
「さまざまの利害の中にある共通のものこそ、社会の絆を形づくるのである。そして、すべての利益がそこでは一致するような、何らかの点がないとすれば、どんな社会も、おそらく存在できないだろう」
『社会契約論』にあるこの一節を思いだした。「私の利益」だけでなく、「みんなに共通の利益」を考え、それを実現するためにみなが汗をかく。だからこそ、1人ひとりが多様でありながらも、支えあい、共に生きる社会が生まれる。なるほど。さすがルソーだ。
一方だけが得をし、他方が損をするのは、寄生だ。この視点を、現実の財政問題に置き換えてみよう。
経済格差を批判する人たちは、高所得層や企業に重税をかけ、生活に困窮する人たちにお金を配ろう、と訴える。それが共に生きる社会のあるべき姿だ、と。
私はこの意見に賛成だ。だが、こうした政策は、高所得層や企業にとって、どのような利益があるのだろう。たんに取られるだけ、貧しい人たちがもらうだけ、だとすれば、<寄生という名の共生>に近づいてしまう。
戦後まもなくなら、貧困層の暮らしが安定すれば、暴動が起きない、支配層の地位が維持される、という説明はアリだっただろう。でも、絶対的貧困は過去の話になった。貧しい人もそれなりに生きていけるいまの社会で、この説明は受け入れられるだろうか。
あるいは、重い税をかけられれば、高所得層や大企業は、資産や住居を国外に移してしまうかもしれない。しばしば聞かされるこの脅し文句に、私たちは、耐えられるだろうか。
福祉の世界で起こっていること
もっと身近なところに焦点をあわせてみよう。
福祉の世界では、「共生社会」という用語が当たり前のように語られる。
介護や障がい者福祉の現場では、施設の職員さんたちが、利用者さんのよりよい生活を支えようと頑張っている。だが、ここでも同じ疑問が浮かぶ。いったい何が職員さんにとっての利益なのだろう。
給与はメリットだ。しかし、それを「共生」というのなら、あらゆる経済活動はすべて共生であり、政府や中間団体がこの言葉を振りかざすまでもなく、共生社会はすでに実現していることになる。
そうではなく、利用者さんと関わることで感じられる、福祉従事者のメリットだ。それは、おそらく、お年寄りや障がい者の笑顔だったり、利用者家族からの感謝の言葉だったりするのだろう。人の役に立てているという実感、喜びは、何物にも代えがたいものだ。
だがここでもまた、善意と良識に満ちた人間の影がちらついて見える。現実には、重労働や精神的負担に苦しみ、報酬も不十分で将来不安におびえている職員さんが大勢いるからだ。
福祉従事者はサービスを与えるだけではダメだ。利用者さんの心に寄り添い、伴走し、共に生きることを求められる。人の嫌がる仕事でも、仮に辛い仕打ちを受けても、笑顔での受け答えが求められる。こんな仕事はそう多くないのではないか。
もし、彼女ら/彼らが生きるために、安価な給料に甘んじて、利用者さんを支えなければならないとするならば、これもまた、<寄生という名の共生>に限りなく近づいてしまう。
高額の所得や収入を手にする人たち。高齢者や障がい者への献身を求められる福祉従事者たち。異なる立場にありながら、批判者からは厳しい目で見られがちな両者だが、じつは、いずれも<寄生という名の共生>の「被害者」なのかもしれない。
「みんなちがって、みんないい」の先は分断社会?
第4回(『娘が流すSnow Manに私が「日本の未来」感じた訳』)でも論じたように、いまの日本は、生活保護利用者をはじめとする<弱い立場に置かれた人たち>への共感が成立しない社会になっている。それは、ある人たちが一方的な負担者となり、他方が一方的な受益者、すなわち「寄生者」となることへの違和感の表明ではないか。
そうだとすれば、「みんなちがって、みんないい」が行き着く先は、自分とは異なる価値を持つ人たち=他人への無関心が蔓延し、困っている人たちを置き去りにしてしまうような「分断社会」なのかもしれない。
当たり前のことを言おう。弱い立場に置かれた人たち(=「弱者」)は、この社会を共に生きる仲間なのであって、不幸な人たちではあっても社会の寄生者ではない。そんな存在にしてはならない。
そうだ。私たちが「多様性を認めあい、共に生きようとする社会」をめざすのなら、負担者にも応分の利益があり、したがって「弱者」も堂々と生きられる、そんな<相利共生社会>の条件を考えなければならないのだ。
ルソーの言葉をもう一度思いだそう。何がこの社会を生きる人びとの「共通の利益」なのかを考えてみるのだ。
大企業に税を課すとしよう。税収を、例えば、義務教育の質的向上や職業訓練、職業教育の充実のために使ってはどうか。
そうすれば、貧しい家庭の子どもたちや、職をなくした人たちへの直接的支援となるだけでなく、労働者の質の改善は企業のメリットにもなる。これらはいずれも「経済的な豊かさ」という私たちに共通の利益をもたらす。
高所得層に税を課すとしよう。その税収を、例えば、福祉従事者の処遇改善、福祉専門職の養成に使うとする。
そうすれば、福祉の現場で働く人たちの将来不安の解消につながり、かつ、高所得層も含めたみんなの安心な老後の強固な土台となる。これらは「豊かな老後」という共通の利益にほかならない。
相利共生社会は「痛みと喜びの分かちあい」で成り立つ
消費税という税がある。この税であれば、貧しい人も、外国人も含めて、みなで痛みを共有することができるし、どんな高所得層だって、ものを買えば、必ず課税される。所得税とはちがって、金持ちの節税の余地は、ほとんどない。
このような痛みと喜びの分かちあいが成り立って初めて、私たちは、「相利共生社会」を作ることができる。
一人ひとりが価値を認めあい、自立して生きていく領域と同時に、何が私たちの共通の利益で、そのために必要なお金を誰に、どの税で、どれくらい課すのかを話しあう連帯の領域を作る。そうすれば、自分の幸せと他者の幸せを調和できる社会が誕生する。
近代国家は国民統合をめざしてきた。わかりやすく言えば、社会をひとつにまとめ、秩序を作ることが国家の責任、ということだ。
気をつけたいのは、国民統合には、財政という巨大な共同事業に光を当て、<相利共生社会>を作っていくやりかたとは別に、もうひとつ、教育やイデオロギーを通じて、思想的に国民をまとめあげるやりかたがあることだ。
戦時期のドイツや日本を思いだそう。政府は、最初、雇用の創出と生活の安定をうたって、財政支出を急激に拡大させた。これが独裁者や支配者たちへの信頼を強め、彼らの対外進出への野心を支持する足場となった。
第二次大戦が始まると、財政のほとんどを軍事費が占め、相利共生どころか、国家や軍需産業が国民に「寄生」することとなった。受益どころか、命さえをも奪われる国民を統合するために、軍国主義的な教育や思想統制を通じて人びとを力ずくでつなぎ止めた。
以上の歴史を現在の相似形と感じるのは私だけだろうか。
いまこそ、あるべき財政の姿を語ろう
支出と負担のバランスを丁寧に論じるのではなく、バラマキを通じて安易に支持を得ようとする政治家が増えている。極左であれ、極右であれ、正面から税の問題を論じる政治家などほとんどいない。
憲法であれ、国旗・国歌であれ、道徳教育であれ、中国脅威論であれ、思想的に人びとを縛りつけようとする人たちがいる。明確な根拠も示されずに防衛費は、将来、倍増されることが提案され、これに野党第一党もあっさりと追随した。
私はこの軽佻浮薄な動きを悲しく思う。だが、これを批判するだけではダメだ。どのように相利共生社会を作っていくのか、その具体的な方法を議論しなければ。
いまこそ、あるべき財政の姿を語ろう。国民に共通の利益を、どのような財源で満たしあっていくのか、正面から論じよう。多様性と共生が両立する社会の可能性を、政治にお任せではなく、私たちの言葉でひらいていこう。未来はいまの延長線上にある。
※この連載は今回で一度お休みをいただきます。10月に再開する予定です!
(井手 英策 : 慶應義塾大学経済学部教授)