実兄をハイジャックの人質救出作戦で失った…ネタニヤフ首相「テロに屈しない信念」の原点
※本稿は、手嶋龍一・佐藤優『イスラエル戦争の嘘 第三次世界大戦を回避せよ』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
■“初めてイスラエルに生まれた宰相”政権の座に
【手嶋】ネタニヤフという人の人生の軌跡を辿れば、彼の強硬路線がどのようにして誕生したか、垣間見ることができると思います。
【佐藤】ベンヤミン・ネタニヤフは、1949年10月21日、イスラエルのテルアビブで生を受けています。
【手嶋】自分の国で生まれる――。われわれにとってはごく当たり前のことが、イスラエルではそうではありません。“初めてのイスラエル生まれの宰相”。ネタニヤフが初めて政権の座に就いた時、新聞はこんな見出しを付けて報じました。イスラエルが建国を宣言したのが1948年5月、ネタニヤフはその翌年、イスラエルの首都で生まれたのでした。ユダヤの民は永く国家を持たない流浪の民でしたから、それ以前には自国で生まれた宰相はいなかったのです。
【佐藤】建国以来、初めて公選で、しかも46歳という若さで首相に選ばれています。
【手嶋】まさしくミスター・イスラエルでした。明日のイスラエルを担う若き政治家として颯爽と政界に登場しました。その前はイスラエル国防軍の軍人でした。
■兄はイスラエルでは有名な“英雄ヨナタン・ネタニヤフ”
【佐藤】まず、彼の家族構成から見てみましょう。父親のベン=シオン・ネタニヤフはアメリカ・コーネル大学でユダヤ史を教える教授でした。ベンヤミンは男3人兄弟の真ん中です。そして3人がともにイスラエル国防軍(IDF)のエリート特殊部隊である「サイェレット・マトカル」に所属していました。
【手嶋】イスラエル軍参謀本部の諜報(ちょうほう)局・アマンに属するコマンド部隊として知られています。ネタニヤフはイスラエルのインテリジェンス・コミュニティに属していたと言われるのはこの経歴のゆえです。テロの拠点を襲い、人質を救出するイギリスの特殊部隊に倣って創設された部隊です。ただ、このコマンド部隊は偵察などの諜報任務から、次第に対テロ作戦を遂行する実戦部隊に変貌していきます。
【佐藤】そのコマンド部隊にネタニヤフ家の兄弟3人が揃いも揃って属していたわけです。それだけでもかなり特殊なファミリーですね。しかも、長兄はイスラエルでは誰ひとり知らぬ者はいない“英雄ヨナタン・ネタニヤフ”です。
【手嶋】ネタニヤフ首相の2歳上の兄、ヨナタン・ネタニヤフは、じつに優秀な軍人でした。イスラエルが奇襲を受けたヨム・キプール戦争、つまり第四次中東戦争で活躍し勲章を受章しています。ところがその後、ネタニヤフ家に悲劇が襲いかかります。1976年6月27日、ウガンダのエンテベ空港でハイジャック救出事件が持ち上がります。この時、ヨナタンは特殊部隊の指揮官として現場で采配を振り、部下とともにハイジャック機に突入します。そして、唯一人の犠牲者となりました。
■ハイジャック救出事件で唯ひとり犠牲になった兄
【佐藤】過激派のテロリストは、エール・フランス139便をハイジャックし、乗客・乗員256人とともにウガンダのエンテベ空港に強行着陸しました。150人は解放されましたが、イスラエル人、ユダヤ人、合わせて106人が人質となりました(うち1人は病院へ搬送)。イスラエル政府は直ちに特殊部隊を現場に急派します。そしてテロリスト全員を射殺します。ウガンダ兵約100人が死亡し、ウガンダ空港のミグ戦闘機など多数が破壊されました。人質は3人が死亡したものの、残り102人は救出され、救出作戦としてはほぼ完璧な出来栄えでした。こうしたなかで、唯ひとり犠牲となったのがネタニヤフの兄のヨナタンだったのです。
【手嶋】後に、この作戦は指揮官の名をとって“オペレーション・ヨナタン”と呼ばれることになりました。ヨナタンは、まさしく“イスラエルの英雄”なのです。しかし、最愛の兄を失ったネタニヤフ家をどれほど悲しませたことか。この悲劇は後の強硬派の指導者を誕生させる伏線になりました。
【佐藤】このエンテベ事件に際して、イスラエル政府内では、激しい意見の対立がありました。人質の人命を優先し、相手の要求を受け入れてパレスチナ人テロリストの釈放もやむなし。これに対して、テロリストの脅迫には屈するべきでなく、武力で人質を解放すべし。結局、時のラビン首相は、武力で人質を救出する作戦を命令します。しかし、その強硬策が成功すると考えていた人は少なかったといいます。
■兄の死を機に「テロには決して屈しない」との信念
【手嶋】兄のヨナタンこそ、その難しいミッションを成功させた立役者でした。弟のベンヤミンにとって、指揮官ヨナタンは終生大切な存在となりました。テロには決して屈すべきではない――その信念は、兄の死と分かちがたく結びついているのです。
【佐藤】ベンヤミン自身も、アマンの特殊部隊マトカルに入隊します。1967年の第三次中東戦争、1973年の第四次中東戦争に出征し、サベナ航空572便のハイジャック事件でも対テロ作戦で活躍しています。
【手嶋】もっとも危険な任務をこなす特殊部隊で実戦に参加しているのですから、筋金入りの軍人だったのですね。実際に戦闘で肩を撃たれて負傷し、それがもとで退役しています。もし自分が元気なまま特殊部隊にいれば、エンテベ空港事件で兄を守ってやれたはず――そうした無念の思いがあったといいます。
【佐藤】長兄ヨナタンは、尊敬する肉親であり、共に命を賭けて戦った戦友でもある。そんな兄を憎きテロリストによって喪った。その痛みは、ネタニヤフという政治家のテロに対する強い姿勢を決定づけたのでしょう。そこにユダヤ人の苦難の歴史、パレスチナ回復を目指すユダヤ人たち「シオニスト」としてのイスラエル建国への思いが重なると思います。ネタニヤフが何を心に期して政治の道に入ったのかは推して知るべしでしょう。
■退役後はテロと戦うコンサルタントに
【手嶋】ベンヤミンは軍を退役すると、マサチューセッツ工科大学とハーバード大学で政治学を学び、優れた成績を収めたといいます。その後、ボストン・コンサルティング・グループで経営コンサルタントになります。この人から経営指南を受ける会社は戦闘的すぎてどうなるのか、ちょっと心配になりますが(笑)。
【佐藤】長兄ヨナタンが亡くなった後、ベンヤミンは1976年に対テロリズム研究機関「ヨナタン研究所」を自ら設立しています。テロリズムの本質とは何か。いかにすればテロに勝てるのか。それをひたすら研究し、教えています。
【手嶋】兄の遺志を後世に引き継ぎたい。そんな思いがその後の行動に滲んでいますね。同時に対テロ活動を特殊部隊の実戦レベルから、さらに理論に高め、政策と戦略に結実させたいという志も伝わってきます。ベンヤミンという人物の知的水準のほどが窺えます。
■テロには屈しない意志こそ全てという信条
【佐藤】ネタニヤフの著作『テロリズムとはこう戦え』(落合信彦監修・高城恭子訳、ミルトス刊)によれば、ヨナタン研究所が最初に主催した国際会議がエルサレムで開かれると、後に、アメリカ大統領候補となるジョージ・ブッシュ、後のパパ・ブッシュ大統領も姿をみせたといいます。テロは政治的、社会的な抑圧の結果生まれるのではない。独裁国家とテロ組織が国際的なネットワークを張り巡らし、その共謀の果てに生まれると力説しています。
【手嶋】後に、ブッシュ・ファミリーは、湾岸戦争からイラク戦争へと、“テロとの戦い”を主導していくのですが、パパ・ブッシュの国際会議への参加は、深い因縁を感じさせますね。
【佐藤】暴力的な手段と恐怖による支配を通じて自らの政治目的を達成する。これがテロリズムの本質だ。ネタニヤフはそう信じているのでしょう。そんなテロリストの邪悪な意図と手段に対峙(たいじ)するには、絶対に屈しないという意志こそが全てだ。これがネタニヤフの思想であり、信条なのです。それを認めるかどうかは措くとして、そんな彼の内在的論理を理解しないまま、ネタニヤフといくら交渉しても打開策は見つからない。彼の人生に思いを致すことなく、批判だけしていても、解決のきっかけは見つかりません。
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手嶋 龍一(てしま・りゅういち)
外交ジャーナリスト、作家
9・11テロにNHKワシントン支局長として遭遇。ハーバード大学国際問題研究所フェローを経て2005年にNHKより独立し、インテリジェンス小説『ウルトラ・ダラー』を発表、ベストセラーに。『汝の名はスパイ、裏切り者、あるいは詐欺師』のほか、佐藤優氏との共著『インテリジェンスの最強テキスト』など著書多数。
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佐藤 優(さとう・まさる)
作家・元外務省主任分析官
1960年、東京都生まれ。85年同志社大学大学院神学研究科修了。2005年に発表した『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)で第59回毎日出版文化賞特別賞受賞。『自壊する帝国』(新潮社)で新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『獄中記』(岩波書店)、『交渉術』(文藝春秋)など著書多数。
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(外交ジャーナリスト、作家 手嶋 龍一、作家・元外務省主任分析官 佐藤 優)