道長は2人の妻とどう結ばれたのか。写真は平安遷都1100年を期に市民の総社として創建された平安神宮(写真:terkey / PIXTA)

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は藤原道長の妻である、倫子と明子のエピソードを紹介します。

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道長との結婚は反対されていた

987年12月16日、藤原道長は22歳のときに、2歳年上の倫子と結婚します。倫子の父は、源雅信です。源雅信の父は敦実親王であり、祖父は宇多天皇です。源雅信はいわゆる宇多源氏だったのです。源雅信は、娘・倫子が結婚する頃には、左大臣を約10年務めていました。

一方、道長の父・藤原兼家は右大臣、孫の一条天皇の即位によって、摂政となり、源雅信より位は上でした。何の不満もない結婚のようですが、当初、源雅信は道長のことが、気に入らなかったようです。

『栄花物語』には次のようにあります。

道長は、源雅信が将来の妃候補として大切に育てあげていた娘・倫子に思いを寄せます。しかし、源雅信は2人の結婚に大反対していました。源雅信は、道長のことを「こんな青二才を婿にできるか」と言っていたそうです。

道長の「倫子を私の妻に」という声を聞こうとしません。確かに、道長は22歳とまだ年齢も若いです。道長の兄・藤原道隆は35歳、権大納言になっていましたから、それと比べたら、見劣りしたのかもしれません。

将来が未知数の道長に大事な娘をやれるのかというのが、源雅信の見解だったのでしょう。道長は、源雅信という「壁」がありながら、なぜ、倫子と結婚できたのでしょうか。そこには、源雅信の妻である穆子のサポートがありました。穆子は藤原朝忠の娘です。

穆子が「時々、物見などに出かけて様子を見ていますが、道長はただならぬ人物。私に任せてください」と夫を説き伏せて、娘と道長を結婚に導いたとされています。

『栄花物語』は、穆子は道長の将来性を見抜いていたと記しているのですが、この逸話は後世の創作の可能性もあります。道長には兄(道隆や道兼ら)がおり、そう簡単には昇進できないというのが、当時の実情だったからです。そうであるのに、穆子のみが道長の将来性を見抜いていたというのも、疑問が残ります。

父から勘当された道長

さて、結婚前後の道長は2つの災難に遭っていました。987年4月、道長は、車で、義兄(道長の異腹の兄)の道綱と賀茂祭に出かけていました。ところが道長が、見物中の右大臣・藤原為光の車の前を通ったときに、為光の従者たちから石を投げられます。


賀茂祭(葵祭)は現在でも京都三大祭りの1つとして開催(写真: terkey / PIXTA)

道長と道綱はこの出来事を、父・兼家に訴えます。事態はどう動くのかと思われていた矢先に、為光の家司が詫び状を送りました。そして、為光も兼家の邸に向かいます。ところが、為光は兼家とは対面できなかったようです。為光は、摂政・兼家の威光そして後難を恐れたことでしょう。

988年12月には、道長に再び災難が襲います。なんと兼家から勘当されてしまうのです。賀茂臨時祭の予行演習で、道長の従者らが舞楽の奉仕者を捕えたのが、その理由でした。

『小右記』には「勇敢な従者らを放ち」とありますが、なぜ道長がそんなことをしたのかはわかりません。しかし、それが理由で、道長は父・兼家から「勘当」されてしまうのでした。

災難続きのように見えますが、もちろんいいこともありました。

988年に、道長の妻・倫子が娘を生んだのです。この娘は彰子、後に一条天皇の皇后になられます。

さらに、道長にとってもう1つのうれしい出来事がありました。新たな妻を得たのです。

『大鏡』に「道長には北の方が2人おられます」とあるように、道長には正式な妻が2人いました。1人は源倫子。もう1人が、源明子です。

明子の父は、源高明です。源高明は醍醐天皇の皇子でしたが、源姓を与えられて臣籍に下ります。そして、権中納言・中納言・大納言・右大臣・左大臣と昇進していくのです。

ところが、そんな源高明に不幸が訪れます。969年、「安和の変」の勃発です。

源高明の娘は、為平親王の妃でしたが、藤原氏が「高明らが為平親王を擁立して、皇太子・守平親王 (後の円融天皇)の廃立を企んでいる」として、源高明らを中央政界から追放した事件です。

これにより、源高明は、太宰府に左遷されます。廃太子の陰謀があると密告したのは、源満仲でした。源満仲は、清和天皇の曾孫に当たります。摂津多田荘(兵庫県)を本拠とし、多田源氏の祖となる人物です。

安和の変には、平将門の追討で功績があった藤原秀郷の子・千晴も連座しています(千晴は隠岐に配流)。

源満仲は最初、源高明らの一派であったものの、変心し、密告したとも言われています。源高明は3年後に許されて、都に帰ることはできましたが、政界復帰は叶わず、983年に亡くなります。

道長の妻である倫子と明子の格差

源高明の娘・明子は、幼少期に父の左遷に遭遇したのです(明子の生まれ年はわかりませんが、没年は1049年とされています)。

とは言え、不自由な暮らしをしたわけでもなく、叔父・盛明親王の養女になり、親王死去後は、一条天皇の母・詮子(藤原兼家の娘)に引き取られています。

明子は、詮子の弟・道長に惹かれるのですが、道長の兄たち(道隆・道兼)が、明子に恋文を送って求婚してきます。詮子はそれに待ったをかけ、道長が明子に求婚したときには、すぐに許しました。こうして、道長は2人の妻を得るのです。

ところが、明子は、公的な場に顔を出すことはありませんでした。そうした意味でも、倫子のほうが、真の「正妻」ということができるでしょう。

『小右記』は明子のことを「妾妻」と書いています。倫子が生んだ子供は摂関になっていますが、明子の子供は誰も摂関にはなっていません。これは、明子の父が、過去に左遷された源高明であったことも大きいと思われます。同じ妻とは言っても、倫子と明子の間に大きな立場の差があったのです。

(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)